AⅣ近世(江戸時代)(4)【前半期b】俳諧

中世室町時代の終わりごろに出てきた、荒木田守武(あらきだもりたけ)さんと、『新撰犬菟玖波(しんせんいぬつくば)集』を編集した山崎宗鑑(やまざきそうかん)さんなどによって、俳諧連歌は、大変な流行をもたらしていたねえ。
 
江戸時代に入って、この俳諧連歌の流れを、革命的に変革して、さらに全国的な普及をなした人が、
 
《松永貞徳(まつながていとく)》さん。この人だ。
 
松永貞徳さんは何をしたのか。
それは、俳諧連歌の発句(ほっく)である五七五を独立した文芸ジャンルとして、世の中に認めさせたことだねえ。発句というのは連歌の書き出しの句のことだったねえ。
さらに、独立した形式としての五七五を単に《俳諧》と呼ぶことを人々の中に定着させたわけだよ。
 
前にも言ったように、俳諧というのは、《面白い・おかしい》という意味だったね。その本来の雰囲気は残しながらも、新しい文学ジャンルの名称にしてしまったわけだね。

ところで、《俳句》という言葉は、《俳諧の発句》という意味だけれど、一般的に使われだしたのは、明治時代に入り、僕と同郷の正岡子規さんが現れてからのことになるんだよ。
 
俳諧は、短歌形式よりもさらに短いねえ。17文字だものね。世界で最も短い文学形式だともいわれているよ。

この超短詩形の俳諧は、近世の人々の心を表現するのには、まさにピッタリと合ったわけだ。それで、人々の間に、爆発的な広がりを見せることになるねえ。
その推進力となったのが松永貞徳さんということだよ。
 
松永貞徳さんの元には、彼を慕って、全国から多くの弟子たちが集まってきたねえ。そして、ずいぶん活躍したので、
《貞門俳諧》という名称さえできたよ。
 
さあそれじゃ、作品を覚えよう。
門下たちの作品を集めて出版したのが、
 
『犬子集(えのこしゅう)』これだ。
 
俳諧という新しいジャンルの最初の句集だね。句数は全部で約2500句もあるほどの立派なものだ。この句集は、たくさん印刷されて全国に広がり、俳諧流行の火付け役となったねえ。
このような、俳諧の隆盛の流れに押されて、逆に、連歌は急速に衰退していったよ。
 
俳諧の人気指導者、松永貞徳さんが、連句の付け方を教える書物として書いたのが、
 
『新増犬筑波集(しんぞういぬつくばしゅう)』これだ。
 
さらに、松永貞徳さんは、『御傘(ごさん)』という解説書を作ったんだ。これは、俳諧に使う言葉、約1500語を挙げて、その規則正しい使い方を細かく説明したものだよ。
 
貞徳さんは、俳諧のレベルアップに貢献しようと思って、これらの教科書を作ったんだけれど、残念ながら、庶民の受け止め方は逆になってしまったんだねえ。

こういう学問的な指導書が出ることによって、貞門俳諧は、複雑で難しい俳諧の作り方を要求する流派と思われるようになったんだよ。

こうなると、察しのいい君はもう気がつくと思うけれど、再び、連歌の時と同じような現象が起きたんだ。

庶民は、堅苦しく、うるさい規則などがあるような文芸形式から離れていくんだったね。
やはり、貞門俳諧も、この文化の原則通りに、下火になっていったんだよ。

やがて、煩雑(はんざつ)な貞門俳諧に対抗して、自由で清新な息吹を持って俳諧の世界へ打って出た流派が出現したねえ。
 
『談林派(だんりんは)』これだ。中心人物は、
 
《西山宗因(にしやまそういん)》さん。この人だ。
 
貞門俳諧が世の中に出てきてから、約50年ほど経っていたねえ。やがて俳諧は、貞門から談林派の活躍する時代へと移っていったね。
《談林》という名称は、
 
『さればここに 談林の木あり 梅の花』   
    (宗因)
という西山宗因さん自身の作句(さっく)からきているね。
談林の本来の意味は、坊さんが、勉強する場所のことをいったんだよ。
また、檀林とも書くんだね。《檀》というのは、栴檀(せんだん)などの貴重な木のことなんだ。だから、《談林の木》と表現したわけだ。
まあ、こんなこと全く覚える必要ないけどさぁ。
 
この句の意味は、梅の花を観賞しながら、俳諧の志を同じくした人たちが檀林のように集まって、なんだかんだとワイワイ、今後の俳諧のことについて、決意あふれる会話がなされていることだ、というくらいの意味だね。
 
談林派の特徴は、堅苦しさを破って、自由に創作したことだ。五七五という音数さえも守らない破調のものも多く出てきたねえ。そして、読んだものが「エッ!」と驚くような奇抜な俳諧が中心になっていったんだよ。
 
談林派の俳諧は、西山宗因さんが大阪から旗揚げをして、上方に一気に広がり、やがて江戸に進出してからも、宗因俳諧として大成功を収めるんだね。
そして貞門俳諧を圧倒して、全国的な人気俳諧となったんだよ。
 
各地で談林派の俳人たちが、活躍をしたねえ。その中で大阪では、あの、好色物の浮世草子の作者、井原西鶴さんが大変な活躍を見せたんだ。
特に井原西鶴さんは、矢数(やかず)俳諧というのを得意とした。矢数俳諧というのは、決められた時間内に、どれだけ多くの句を作れるかを競うものなんだ。
 
西鶴さんは貞亨(じょうきょう)元年(1684年)、住吉神社で、矢数俳諧の興行をしてねえ、なんと、1日の間に、23500句を作ったんだよ。
これはもちろん、当時の日本新記録だったねえ。
ギネスブックがあれば、当然、掲載されていただろうよ。

この記録は、いまだに破られていないから、井原西鶴さんは現在も、矢数俳諧の日本記録の持ち主であり、世界記録保持者でもあるわけだ。
 
談林派の俳諧は、矢数俳諧でも分かるように、とにかく、それまでの俳諧に対する常識を徹底して打ち砕いていった。それで、貞門俳諧に対抗して、談林俳諧の特徴を出そうとはしたんだねえ。
しかし、あまりにもそれが過激過ぎてね、自由奔放(ほんぽう)、むちゃくちゃなものになり、結局、貞門俳諧と同じように衰退していってしまったんだよ。
 
面白いねえ、文学というものは。
格調が高過ぎてもいけないし、低俗過ぎても、受け入れられないんだねえ。
 
やがて、まじめに俳諧を考える人々の中に、俳諧に対する新たな創作意識が芽生えて来たんだよ。
それは、俳諧を、遊びや滑稽(こっけい)や奇抜だけの文芸としてとらえるのではなくて、人生そのものの真実であり、また、自然そのものの本質である、ととらえる文芸意識なんだ。
いわば、俳諧を本格的な文学のジャンルにしようとした訳だね。
その代表的な人が、かの有名な、
 
《松尾芭蕉》さん。この人だ。
 
松尾芭蕉さんは、三重県に生まれて育ち、少年のころから、地元の藩に出仕をしていたんだね。そこで俳諧の好きな主君に仕えるうちに、芭蕉さん自身もたいへん俳諧に興味を持ち、作句に励んでいったんだ。
 
そして、23歳くらいの時に、俳諧に人生をかける決意をして江戸に下って行ったんだ。
江戸では、めきめきと才能を発揮して、一家をなし、彼を慕う門人も多く集まってくるようになったんだよ。
まず、出世作ともいえる作品は、
 
『虚栗(みなしぐり)』これだ。
 
虚栗は、芭蕉さんが最も信頼していた弟子の榎本其角(えのもときかく)さんが編集したものだよ。
この虚栗において、芭蕉さんの芭蕉らしい俳諧の出発がなされたわけだね。
それは、貞門俳諧や談林俳諧とは全く違った、次元を異にした俳諧だったんだねえ。それを
 
《蕉風(しょうふう)》という。
 
当時の人々は、この芭蕉さんの新しい俳諧に、今までになかった本物の文学としての俳諧を感じ、多くの支持を示すようになったよ。
 
松尾芭蕉さんは、旅に生き、旅に死んだ人だね。芭蕉さんにとっては、旅こそ人生、人生こそ旅だった訳だよ。
旅は文学者の心の友なのだろうかねえ。これまでにも旅と共に人生を送り、文学を創造してきた人がいたねえ。
 
最も代表的なのは、平安時代の終わりに活躍した西行法師さんだ。武士だったけれども世の中の無常を感じて出家し、旅に人生の悟りを求めて日本中を歩き回っているねえ。その中で『山家(さんか)集』という人気の家集を創作したんだったね。

松尾芭蕉さんの、人生と文学追及の旅の始まりは、江戸から故郷の伊賀、さらに奈良、京都などへの旅だったね。この旅の中でできた作品が、
 
『野ざらし紀行』これだ。
 
この紀行文の最初に出てくる句は次のようなものだよ。
 
『野ざらしを 心に風の しむ身かな』   
   (芭蕉)
《野ざらし》というのは、人が道の途中で倒れて死んでしまい、雨風にさらされて肉は朽ち果て、頭がい骨が野原に転がっているという状態のことだね。
そうなってもいい、と覚悟を決めて出発した旅だけれど、いやに、秋の風が身にしみることだなあ。
 
というくらいの意味だ。
この句を読めば、芭蕉さんの旅にかける思いというのが、すごいものだったのがよく分かるね。それと同時に、貞門俳諧や、談林俳諧とは、俳諧に対する根本的な姿勢が違うのが理解できるよね。
この旅は、『野ざらし紀行』以外にも、多くの作品を創作するきっかけになったよ。
 
旅といえば、本稿のどこかで《旅と旅行の違い》の問題提起をしたような気がするねえ。
それの答えのヒントとして、「人生の旅」とは言うけれど、「人生の旅行」と言うと、何かおかしい言葉遣いになることを考えてみるとよいのではないかねぇ。
やはり、旅というのは人生に直接結びつくものなのだ、ということが感じられるね。
 
僕は35年間、高校で国語を教えてきたけれど、旅に関する教材の中で、1つだけ印象に残っているものがあるんだ。
その教材は、哲学者・三木清さんの『旅について』という作品だ。
文章はリズムのある格調高い名文で、日常的な僕たちの生活の中に、非日常的な旅というものの存在意義をしみじみと感じさせてくれるものだよ。これを読めば、旅と旅行の違いが明瞭になるね。
 
この作品の最後の1文は、
《人生そのものが実に旅なのである》となっているね。
僕は『旅について』が気に入って、数え切れないほど教えたよ。懐かしいことだ。
 
まさに松尾芭蕉さんは《旅》をしたんだね。
芭蕉さんにとって旅は、新たな自己の発見であり、それは同時に、新たな俳諧の発見でもあったわけだ。
 
さて、芭蕉さんは、『野ざらし紀行』の旅から帰ってからも休む間もなく、全国へ旅を続けているね。その中で、創作されていった代表的な作品を挙げておくよ。
 
『冬の日』
『春の日』
『ひさご』
『笈の小文(おいのこぶみ)』
『奥の細道』
『猿蓑(さるみの)』(さびの境地)
『炭俵(すみだわら)』(軽みの境地)
 
などなどたくさんあるねえ。また、『野ざらし紀行』のように、『○○紀行』と題名をつけた作品もあるので、頭のどこかに残しておこう。

芭蕉さんは、俳諧探求の旅を続ける中で、それまでの俳諧では到達することができなかった文学理念を確立していくことになるよ。それが、

《さび》これだ。
 
この文学理念は、芭蕉さんが40歳後半ごろの『猿蓑』が発表された時には、見事な完成度を見せるまでになっていたねえ。

《さび》とは、静かさや寂しさを極限まで追求したところにある、自然と人間の一体化した美しさ、とでも言えるものかねえ。

『猿蓑』の最初には次の句が載っているよ。
 
『初しぐれ 猿も小蓑(こみの)を ほしげなり』  
     (芭蕉)
 「初しぐれの中を蓑をまとって旅をしている。冬の到来で、鳥の鳴き声なども全くしない静寂な山中で、ふと見ると、木の枝に子供のサルが、寒さのために蓑が欲しいとでもいうように、じっとこちらを見ている」
 
というくらいの意味かなぁ。
実に、《さび》の極地と言えるような句だねぇ。素晴らしいの一言だ。
 
芭蕉さんの俳諧理念はさらに深まり、『炭俵』至ると、《軽み》の境地に到達するんだねえ。
《かるみ》というのは、物事の真実の姿を、感情移入などせずに、あるがままに平明に表現するもの、というくらいの意味かねえ。
 
『炭俵』の最初の句は次のようなものだよ。
 
『梅が梅が香に のっと日の出る 山路かな』  
     (芭蕉)
《のっと》というのは、ぬっと、とか、ひょっこり、とか思い掛けなく出来事が起こることだねぇ。
「まだ寒い早春、山の中を歩いていると、梅の香りが漂っている。そして何の前触れもなく、朝日がひょっこりと顔を出した」
 
というくらいの、解説するまでもない明瞭な情景だね。まさに、《軽み》の表現の代表作品であると言えるよね。
 
松尾芭蕉さんは、旅に人生を重ね、人生に旅を重ねて、生涯を漂泊のなかで生きてきたんだねえ。その中でも特に、よく知られている旅は、『奥の細道』だ。
道程約2,400キロキロメートル、7カ月もかかった大変、長期の旅だね。
有名な冒頭部分だけ書き出しておくよ。
 
『月日は、百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり』
 
「過ぎ去ってゆく月日そのものも、考えてみれば、過去から未来まで永遠にとどまることのない客人である。また、毎年過ぎ去ってゆく、年々も帰ることのない旅人である」
 
というくらいの意味だね。ここで芭蕉さんは、哲学的な思考をめぐらしているねえ。
この冒頭部分の思考を、ちょっとだけ、さらに進めてみよう。
 
時の流れの支配からは、誰人も、また、何物も逃れることはできないよね。時の流れそのものが、宇宙の存在でもあるのだから。
また、宇宙の、時と共に変化する相(そう)は、全く同じ状態に戻ることは有り得ないね。過ぎ去った過去の相というものは、二度と再び帰ってくることはないんだねぇ。
 
そう考えれば、宇宙の存在そのものが永遠の旅人であると言えるよね。その中で生きている人間も、もちろん、生死を繰り返しながら、時の流れに身を任せている旅人だねぇ。
 
今のこの瞬間も、二度と再び帰らない時であるのなら、君よ、悔いのない瞬間を過ごしたいねえ。瞬間瞬間の積み重ねが、人生にほかならないものね。
 
松尾芭蕉さんは、旅の途中の大阪で病に倒れ、多くの弟子たちに見守られながら、
 
『旅に病(や)んで 夢は枯野を かけめぐる』  
     (芭蕉)
と詠んで、あの世へと旅立ったねえ。51歳だった。
おそらく芭蕉さんは、永遠の旅人として時空を越えて、今も、この宇宙のどこかを、新しい自己発見を目指し、旅を続けていることだろうねえ。