AⅣ近世(江戸時代)(3)【前半期a】浮世草子

近世文学は、大きく分けると、前半の上方(かみがた)の文学と、後半の江戸の文学とに分けられるね。
この場合の江戸の文学というのは、江戸の町を中心にして栄えた文学ということであって、近世全体の文学をいうのではないから、分けて考えておいてね。
 
《上方》というのは、天皇の住まわれるところを《上》と表現したところから、大阪京都地方のことを指して言ったんだよ。
上方の文学と江戸の文学の違いは、ただ単に、地域が違ったというだけではないんだね。内容や特徴も、かなりの違いがあるんだ。

ちょうど現在の、大阪と東京の、雰囲気や文化や人情などの違いとよく似ているねえ。
それもそのはずだ。近世の、上方の文化と江戸の文化の相違が、現在まで引き継がれているわけだから。
 
さてと、それじゃまず、中世の後半ごろから出てきた御伽草子(おとぎぞうし)の流れから見ていこうかねえ。
御伽草子は気軽に読める短編の物語だね。
この種の本は近世に入って、出版が商売として成り立ってからは、大変な流行を見せることになったよ。御伽草子よりも、もっと多くの人たちに読めるように書かれたもので、名称は、
 
《仮名草子(かなぞうし)》これだ。
 
教養の低い人でも読めるように、主に仮名を使って書かれているね。だから、仮名草子、といったわけだ。さらに挿絵なども入れて、読みやすくしているよ。
書かれている内容は、非常に多方面にわたっていて、分類のしようがないほどだ。ただ、教育や教訓、笑い話的なものが多いね。
 
それじゃ、代表的なものを覚えておこう。まず最初の作品は、これだ。
 
『二人比丘尼(ににんびくに)』作者は、
 
《鈴木正三(しょうさん)》さん。この人だ。
 
夫を戦で亡くした若い妻が、出家をして尼さんになろうと思った。その時、寺のお堂で20歳くらいの美しい女性と出会う。仲良くなって2人で身の上話をしてみると、その女性も夫と死別したことが分かる。
2人はともに慰め合いながら、お堂で生活をしていたが、1年ほどして女性が死んだ。
葬られなかった遺体を見続けていると、美しかった顔は崩れ、やがて白骨となっていった。
それを見て無常を悟った若い妻は、年老いた比丘尼に仕えて往生した。
 
という話だね。比丘というのは、男性の坊さんのことだ。比丘尼というのは、女性の坊さん、尼さんのことだね。
教訓的な内容だと言えるね。
 
仮名草子の続いての作品は、
 
『東海道名所記(めいしょき)』作者は、
 
《浅井了意(りょうい)》さん。この人だ。
 
この作品は、題名の通り、江戸から東海道を京都へ上る間の、さまざまな名勝、旧跡、神社仏閣などを、各地域の人情や風俗などを織り交ぜながら描いたものだね。
楽しく読める工夫がなされていてねえ、2人の登場人物が、狂歌などを作りながら旅をするという構成になっているよ。
読者を退屈させないように気を使っているなんて、近世らしいよね。
 

さて、次には、
 
『伽婢子(おとぎぼうこ)』これだ。
 
この作品は、ちょっと変わっているよ。《伽》は、御伽草子の《御伽》と同じことだね。《婢子(ひし)》というのは、召し使われる身分の低い女性、という意味だ。

また、「ぼうこ」と読めば、今で言えば、子供のぬいぐるみのことなんだ。当時は人形が、災厄(さいやく)を子供の身代わりになって、引き受けてくれるものと思われていたんだよ。
だから、題名は、「退屈な時に、暇つぶしできるような話」と言うくらいの意味だね。

題名の意味なんかは、重要ではないんだけれど、面白いのは、内容だ。
これが、なんと、怪談話なんだ。
「なんだ、幽霊の話か、めづらしくも無い」なんて、言わないでよ。
日本文学史上において、《怪談もの》として出てきたのは、『伽婢子』が、最初なんだから。
わが国初の怪異小説と言える訳だね。
 
内容は、中国の怪異話を日本語に翻案(ほんあん)しているよ。67話もあるりっぱなものだ。それに、中国の地名を日本の地名に変えるなど、様々な工夫を凝(こ)らした文章で、非常におもしろく読めるようにできあがっているね。
それで、『伽婢子』は、ベストセラーになったよ。
日本の怪談ものは、この作品から出発したんだ。
 
さらに、特徴のある作品は、
 
『伊曾保(いそほ)物語』(作者未詳)これだ。
 
この作品は、なんと、イソップ物語の翻訳だよ。わが国初のヨーロッパ文学の翻訳作品だ。
『伊曾保物語』も伽婢子と同じように、単純な翻訳ではなく、騎士を武士と表現するなど、江戸時代の人々に分かりやすいように書かれているよ。

町人文学の意識の高さには、感動さえ覚えるよねえ。

仮名草子は、本稿では入試に出そうな作品しか挙げていないけれど、実際には、非常に多くの作品が出版されたんだ。そして、庶民の中に書物を、読者を大きく広げていく役割を果たしたね。
 
仮名草子の読者が増えるにつれ、当然ながら、目も肥えていったねえ。それで、仮名草子のレベルに満足できなくなって、さらに読書の楽しみが増すような作品を求めるようになったんだよ。
そんな中で新しく出てきたジャンルが、
 
《浮世草子(うきよぞうし)》これだ。
 
浮世という意味は、本来は仏教用語だ。まるで、浮き草が風に吹かれて、どこに動くか分からないように、絶対性のない、この世の中のはかなさの事を言うんだよ。
また、憂世とも書いて、迷い、苦しみの無常世界のことをも意味しているんだね。
 
近世になると、絶対性との対比ではなくして、《今の世の中》という意味が強調されて使われるようになったね。また、浮いた世の中ということで、男女の情愛や歓楽的な場所での遊蕩(ゆうとう)生活なども指すようになったよ。
「浮いたうわさが立つ」
といえば、男女の仲がうわさになることに使われるけれど、江戸時代の浮世の意味の名残だね。
 
さあ、ここで、近世上方文学の、売れっ子作家が出てきたよ。
 
《井原西鶴(さいかく)》さん。この人だ。
 
浮世草子の形態を完成させ、大流行させた小説家だ。
浮世草子は、仮名草子に含まれていた、人生教訓的な要素や、宗教的説法の要素を除いて、町人の現世を謳歌(おうか)する姿を描いたねえ。
 
経済的に豊かになった町人にとって、自分たちが理想とできるような生活や人生感覚を作品の登場人物に持たせた浮世草子は、読者の心をつかみ、大きな満足を与えてくれる文学作品になったわけだ。
 
仮名草子の作者は、主に、学者や僧侶だったんだよ。だから、どうしても「読者を教え導く」という説教臭さが抜けなかったんだね。
それ対して、井原西鶴さんは、自分自身が大阪の町人だった。だから、町人の気持ちをよく理解していて、どのようなことを書けば、喜んで読んでくれるのか、よく理解していたんだねえ。
 
井原西鶴さんは多才な人だ。
初めは、俳諧で活躍をする俳人だったね。やがて、小説に興味を持ち、町人の享楽的な生活を生き生きと書いた浮世草子を出すと、圧倒的な人々の指示を得ることができたんだ。
それによって、近世文学の最大の特徴である、「町人による、町人のことを書いた、町人のための文学」の本格的な流れが出来上がっていったんだね。
 
井原西鶴さんの書いた小説を大まかに分類すると、次のようになるね。
 
1.好色(こうしょく)物
2.武家物
3.町人物
4.雑話(ざつわ)物

こんなところだね。
この中でもやはり、西鶴さんの人気を博したのは好色物だねぇ。
好色というのは、男女の関係を普通以上に好むことだね。
西鶴さんが名を挙げた最初の代表作は、
 
『好色一代男』これだ。
 
それじゃ、好色一代男の冒頭部分を書き出しておくよ。
 
『桜もちるに嘆き、月はかぎりありて入佐山(いるさやま)、ここに但馬(たじま)の国、かねほる里の辺(ほとり)に、浮世の事を外(ほか)になして、色道(しきだう)ふたつに寝ても覚めても夢介(ゆめすけ)と替名(かえな)呼ばれて、
  (中略)
その頃名高き中にも、かづらき、かをる、三夕(さんせき)、思ひ思ひに身請けして、嵯峨(さが)に引込み、あるいは東山の片陰(かたかげ)、又は藤の森、ひそかに住みなして、契りかさなりて、このうちの腹より生れて世之介(よのすけ)と名によぶ。あらはに書きしるすまでもなし。知る人は知るぞかし』
 
「美しい桜も満開の時期が過ぎれば、やがて散っていくのを嘆く。同じように名月も時刻が過ぎれば、入佐山に入って見えなくなる。
ここ、兵庫県北部の入佐山の鉱山の近くに、大金持ちの1人の男がいた。
その男は、仕事などは放っておいて、寝ても覚めても、女遊びや稚児を相手の同性愛に入り浸る生活を考えていたので、夢介というニックネームがつけられていた。
  (中略)
 やがて夢介は、その頃、評判の遊女であった、かづらき、かをる、三夕、と言う3人の女たちを、借金の金を払って遊郭(ゆうかく)から出してやった。そして、それぞれ、嵯峨、東山、藤の森にこっそりと住まわせて、ひたすらそこに通っていた。
その3人のうちの1人から男の子が生まれて、世之介と名前をつけた。
3人のうちの誰なのか、そんなことは、はっきり書く必要なんかない。知っている人は知っているんだから」
 
というくらいの意味だね。
冒頭で、主人公の世之介が、どんな父親や母親から、また、どんな状況で生まれたか、が書かれているわけだね。

この後、世之介は7歳になった時、女中に恋して性に目覚めることになるよ。
それから、さまざまな地域の、さまざまなタイプの女性や男性と関係を持つことになるんだねえ。
関係を持った女性は、約3700人、男性は、約700人に上ったと書いているよ。
 
そして60歳になった時、《好色丸》と命名した船を建造して、友人と一緒に、女性しか住んでいないといわれる《女護が島》へ出帆するというところで終わっているねえ。
 
好色一代男を読んだ当時の人々は、自分の夢が、浮世草子の中で見事にかなえられるのを喜んだんだねえ。それで、大ベストセラーになったわけだ。
井原西鶴さんは、好色一代男の成功に気をよくして、好色物を続けて発表したねえ。それが、
 
『好色五人女』これだ。さらに
 
『好色一代女』もだ。
 
好色五人女は、当時、実際に起こった5つの実話をもとに書かれたものだよ。色欲が原因で人生を狂わせてしまった女性の姿を描いているね。

その中のひとつに『お夏清十郎』の話も入っているよ。君のおじいちゃんかおばあちゃんに、
「お夏正十郎の話を知っている?」
と尋ねてごらん。おそらく、ほとんどの人が知っているよ。そのくらい、有名になった話を、江戸時代に西鶴さんが書いていたんだねえ。

やがて、西鶴さんは、あまりにも好色物を書き過ぎて、自分でイヤになってきたんだねえ。(これは、僕の体験からだ)
それで次に書いたのが、武家物だ。代表作品には、
 
『武道伝来記』(敵討〔かたきうち〕の話)
 
『武家義理物語』(義理に生きる武士の心情)

などがあるよ。

西鶴さんなりに、この武家物を一生懸命に書いたんだけれども、なにせ、商人出身の西鶴さんには、武士を描くのは得意でなかったわけだね。それでこのジャンルではあまり人気が出なかったよ。
それで、もう1度、得意な町人の姿を描こうとして創作したのが、
 
『日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)』だ。さらに、
 
『世間胸算用(せけんむねざんよう)』これだ。
 
これらの作品は、町人の日常生活を中心に書いたので町人物という。
両作品とも、町人の金銭に纏(まつ)わる出来事を扱っているね。世間胸算用なんかは、大晦日(おおみそか)のさまざまな家や場所で、お金の無いなか、借金取りから逃れる姿などが書かれていて、面白いよ。
 
次に、さまざまな題材を扱った作品も書いているね。それを雑話物と呼んでいるよ。その中に、西鶴さんが旅行中に聞いた伝説などを書いたものに、
 
『西鶴諸国ばなし』があるよ。
 
井原西鶴さんは、ここで取り上げた以外にも非常に多くの作品を書いているねえ。
いわば、わが国初の《ベストセラー作家》と言えるかもしれないね。
 
これで西鶴さんの浮世草子についての話は終わりだ。

西鶴さんが亡くなった後、浮世草子は、模倣作がたくさん出版されたね。ただ、これまでの文学史でも見てきたように、模倣作というのは、やがて衰退していくねえ。浮世草子の歴史も同じになった。
そんななかで、1人だけ独自性のある作品を書いた人がいたよ。その作品と作者は、
 
『世間息子気質(せけんむすこかたぎ)』これだ。作者は、
 
《江島其磧(えじまきせき)》さん。この人だ。
 
これは、面白い本だよ。気質(かたぎ)というのは、性質ということだね。さまざまな性質をした町人の息子たちの生き様を、おもしろ、おかしく誇張して書いているよ。
世間息子気質は、人気が出てねえ、気を良くした江島其磧さんは、《気質物》と呼ばれるものをたくさん書いたよ。
 
気質物を出版したのが、京都の八文字屋(はちもんじや)という出版社だったので、これらの本のことを特に、《八文字屋本》と呼ぶこともあるので、頭のどこかに残しておこう。
やがて、八文字屋本も新鮮味のある作品が出なくなったねえ。
こうして、上方の小説は、衰退をしていったよ。

上方に代わって今度は、江戸で庶民の心をつかむ小説が発展することになるんだねえ。
 
それにしても、井原西鶴さんを中心にして作り上げられた、上方のイメージは、まさに、現在の大阪のイメージであることを考えると、すごい影響力があったことに感心させられるよね。
喜んでいいのか、悪いのか、分からないけどさあ・・・