AⅢ中世(鎌倉・室町時代)(4)【鎌倉時代c】『徒然草・日記』
ところで、説話文学のことだけどさあ。
平安時代【最後の100年】に出て来た、今昔物語集はわが国最大の説話集だったわけだけれど、平安期の終わりごろの、説話を収拾しようという流れは、中世に入っても続いたんだよね。
戦乱の時代ということもあって、長たらしい作り物語よりも、短編で、分かりやすく、楽しい説話の方が、人々の要求に合っていたともいえるねえ。
中世の期間には、非常に多くの説話集が作られている。おそらく文学史上、最も多く説話が集められたのではないかと思うね。
でも、入試なんかに出てくるのは5つくらいだから、簡単に覚えておけばよいよ。
まずその内の1つ目は、すでに、方丈記のところで紹介した、鴨長明さんの、
『発心集(ほっしんしゅう)』これだ。
発心というのは、信じる心を起こす、という意味なんだ。だから、信仰する心を強くするために読む説話を集めたものだ。いわば、坊さんの、説教のための例え話のようなものだ。
2つ目には、
『宇治拾遺(うじしゅうい)物語』これだ。
この作品には序文がついていて、次のように、書いてあるよ。
『それがうちに、尊きこともあり、をかしきこともあり、恐ろしきこともあり、あはれなることもあり、きたなきこともあり、少々は空物語もあり、利口なることもあり、さまざまなり。世の人、これを興じ見る』
とあるけれど、確かに読むと面白いものが多いねえ。ただ、簡略に書きすぎて、肉付けが足らないようなものが多いね。これを元にして、創作や脚色を加えて行けば、面白いものができるだろうね。
実際に、宇治拾遺物語の中の話をネタにして、後世の大衆文芸や庶民芸能の作品になったもの多いよ。
『十訓抄(じっきんしょう)』これだ。
(じっくんしょう)と読んでもいいよ。しかし、例のごとく、(じっきんしょう)で覚えておこうかい。内容は、題名の通りだ。十個の、人間として守るべき道徳が書いてある。
例えば、良い友達を選ぶこととか、おごり高ぶった心を起こしてはいけないとか、物事は思慮深く考えよ、とか言ったようなものだ。
今でいえば、道徳の教科書のようなものだなぁ。
これまでには、教訓そのものを目的にして書かれたものはなかったので、十訓抄は、わが国初の教訓書と言えるだろうね。
4つ目は、
『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』これだ。
古今著聞集の作者は、跋文(ばつぶん・後書き)に署名があり、明確だ。
《橘成季(ちばなのなりすえ)》さんだ。これはけっこうな大作で、20巻、約850もの説話が載っているよ。
和歌、馬芸、祝言、武勇など、30の項目に分類され、しっかりした体裁を整えた作品集になっているね。
最後、5つ目は、
『沙石集(しゃせきしゅう)』これだ。作者は坊さんの、
《無住(むじゅう)》さんだ。無住さんは、どうして沙石集を書いたのか、ということについて本文で次のように言っているね。
生死の郷(さと)を出(い)づる媒(なかだち)とし、涅槃(ねはん)の都に至る標(しるべ)とせよ。
読者は、沙石集を読み、人間の根本的な苦しみである生死に惑わされる俗世間から、苦悩を乗り越えた悟りの境地へと境涯を高めていく手助けにしてください。
また、成仏の境涯になって生きることのできる、最高の幸せの都に行くための道標(みちしるべ)にしてください。
というくらいの意味だ。無住さんの読者への思いが書かれている。
だから、沙石集は、本来は発心集のように、信仰を深めさせるための説法をする時の法話例として書かれたものなんだ。ところが、できるだけ分かりやすく、興味を引くように書いた結果として、大変に人気のある説話文学になったというわけだ。面白いね。
これで、鎌倉時代の説話文学は終わりにしておこう。
さあ、それじゃあ続いて、日記文学を見ていこう。
もう1度、平安時代の日記文学の出発を復習してみよう。
紀貫之さんの、
『土佐日記』は、わが国初の《明るい旅の日記》
右大将道綱の母さんの
『蜻蛉日記』は、わが国初の《深刻な自叙伝的な日記》
これらの2つの流れがあったよねぇ。中世も、これらの流れを受け継いでいるよ。
土左日記の流れは、鎌倉と京都との往来の旅日記が中心になったねえ。
蜻蛉日記の流れは、伝統的な女房の日記として、引き継ぎ書かれているよ。
鎌倉時代の中頃から終わりにかけては、日記は多く出てきているよ。数としては平安時代よりも多いねえ。
ただ、作り物語の状況と同じで、文学的に優れていて、後世にまで読み継がれるというものは少ないよ。やはり、日記文学もレベル的には、平安時代が最も隆盛期であったといえるね。
それでも、めぼしいものを挙げておくよ。まず、
『海道記(かいどうき)』(作者未詳)これだ。
鎌倉時代は、政治の中心が鎌倉幕府と京の都と、2つあったということが、日記の内容にも影響を与えているんだ。
それは、鎌倉と京都とを行き来する人が多くなり、その間の風景の描写や人々の生活を旅日記として書く人が出できたんだ。その代表的なものの1つが、海道記だ。
この頃の旅というのは、非常にリスクのあったものなんだ。窃盗団はいたるところにいるし、食料の確保もできるか分からないし、宿泊するところが確実に保証されているわけでもない。
旅は、不便で、苦痛で、危険なものだったんだねえ。
特に長旅になると、それこそ、命を賭(か)けるようなつもりで出かけなければならないこともあったわけだ。逆に言えば、だからこそ、旅は修行であったとも言えるよね。
ただ、鎌倉幕府が開かれてからは、京都と鎌倉間を往復する人が増えることによって、海道すなわち東海道は、ずいぶん、道も宿場町も、整えられたんだね。
だから、それまであった難行苦行の旅というものが、東海道については、楽しいもの、娯楽になるもの、に変わっていったわけだ。
また、西行法師などが、旅と共に創作する和歌が、多くの人に読まれるなかで、大変に格好がよいものとして受け取られたんだねえ。
ここで復習。西行法師といえば平安末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した歌人で、『山家(さんか)集』も出している人だったねえ。
だから、当時、旅はちょっとしたブームになっていたんだ。
ところで、当時、京都から鎌倉まで、どのくらいの日数がかかったんだろうか。
海道記を読むとそれがはっきりするね。
出発は4月4日だ。鎌倉到着は4月17日になっている。ということは、14日間ほどの旅になるね。その間に出合った情景や人々の様子が描かれているよ。農民、漁師、商人などの人々の姿が和漢混交文のしっかりした文体で書かれているねえ。
当時の人々の実際の生活の状態が分かって、興味をひかれる日記になっているよ。
作者は未詳だけれど、仏教思想が日記の所々に出てくることを考えると、坊さんのように思えるねえ。
海道記のような新しい旅日記が出る一方で、平安時代からの伝統的な、宮廷に使えるの女房の日記も出てきているね。それが、
『建礼門院右京大夫集(けんれいもんいんうきょうのだいぶしゅう)』これだ。
長い題名だけれど、時々、顔を出すので覚えておこう。作者は、高倉天皇の中宮、建礼門院に仕えた女房で、右京大夫さんだ。
内容は、平家の方々との親しい付き合いと、平家一門の都落ちによって感じさせられた、それらの人々との悲しい別れ、などについて切々と書かれているね。全体的に追憶の形で、追慕の念にあふれているねえ。
次に出てきたのは、また、京から鎌倉への旅日記だ。題名は、
『東関紀行(とうかんきこう)』(作者未詳)これだ。
内容は、海道記とほとんど同じだ。文体も和漢混交文で同じ。ただ、読んでみると、海道記の方が、生き生きとした描写になっているね。逆に文体は、同じ和漢混交文でも、関東紀行の方が、和文の要素が多く入っており、当時を代表する文体だと評価されているね。
あまり特徴のない作品だけれど、不思議と、入試には時々顔を出すので覚えておこう。
海道記と東関紀行はともに短い旅日記なので、もし君が紀行文などが好きであれば、1時間もあれば読めるので、気分転換にでも読んでみたらどうかなぁ。だけど、全く面白くないよ。
次に出てきたのは、また、女房の日記で、
『弁内侍(べんのないし)日記』これだ。
弁内侍というのは、例によって役職名だ。内侍は女官の役職だ。覚える必要はないけれど、絵師の藤原信実(のぶざね)さんの娘さんだ。
記述の中心は、後深草天皇にお仕えしながら、経験した宮中での行事になっているね。ただ、200首以上の和歌が書かれているので、家集のような雰囲気も持っているね。
弁内侍日記も読んで楽しいものではないなあ。
さあ、ここでやっと、素晴らしい日記が出てきてよ。
『十六夜(いざよい)日記』これだ。作者は、
《阿仏尼(あぶつに)》さん。この人だ。
阿仏尼さんは《尼》とついているように、出家した60歳に近い女性だ。京の都に住んでいたんだねぇ。
主人が亡くなった後、先妻の息子と、実子との間で、領地の相続でもめ事が起きたんだ。それは、本来、実子が相続すべき土地を、先妻の息子が手放さなかったことによって起きたんだ。
母親の阿仏尼さんは、その解決のために訴訟を起こそうと、鎌倉の幕府まで旅して行くことにしたんだね。
十六夜日記という題名の由来だけれど、冒頭部分に次のようにあるんだよ。
『惜(お)しからぬ身ひとつは、やすく思ひ捨つれども、子を思ふ心の闇はなほ忍びかたく、道をかへりみる恨みはやらむかたなく、さてもなほ東(あずま)の亀の鏡に写さば、曇らぬ影もや現はるゝと、せめておもひあまりて、よろづのはゞかりを忘れ、身をやうなきものになし果てゝ、ゆくりもなく、いさよふ月にさそはれ出でなむとぞ思ひなりぬる』
「それほど大切とも思わない私自身のことは、たやすく捨てることができますが、わが子を思う親心の一途(いちず)な思いは、どうしても抑えることができません。
道理に反して領地を相続できないわが子のことを思いますと、どうにも心を晴らす方法が考えられませんでした。
それでいっそう、鎌倉幕府に訴状を出して裁判にしましたならば、我が子に相続を受ける権利があるということが、はっきりとするだろうという思いがひたすら募ってきました。
それで、すべての世間体(てい)や自尊心などもかなぐり捨てまして、わたし自身を、つまらない者と思えるようにしたのです。
そして、急に、16日、日没後に出るのをためらっているような月に誘われて、出発しようという気になったのでした」
まあ、この程度の内容かなぁ。この部分だけ読んでも分かるけれど、文体にしても、内容にしても、文学的香りの高い作品だね。中世日記紀行文学の中では、最も優れているねえ。
それにしても、当時の平均年齢からすれば、はるかに超えた老婆が、京都から鎌倉まで訴状を持って行くなんて、ちょっと考えられないねえ。それもこれも、母親の我が子に対する愛情の深さの表れだねえ。
紀貫之さんの土左日記は、任地でなくした我が子への思いで終わっているけれど、十六夜日記も、全編に、母親の、子を思う気持ちであふれているね。
母はどれほど高齢になり、子はどれほど成長しても、やはり母と子に変りはないのだね。
さてと、それじゃ、日記文学の最後に、紀行日記と、女房日記という、2つのジャンルを合わせたようなものを紹介しておこう。
『とはずがたり』これだ。作者は、
《御深草院二条》さん。この人だ。
後深草院二条さんは、後深草院上皇に仕えた女房だよ。二条というのは例によって、紫式部などと同じような女房名だ。
二条さんがどういう人物か、とはずがたりの本文の中で少しだけ記述している部分はあるけれど、客観的な伝承はないねえ。
特徴的なのは内容だ。
前半は、後深草院に仕えた女房日記となっている。後半は、旅する歌人西行さんにあこがれて、京を出発てからの紀行文になっているねえ。
なんと、僕の故郷の近くの、高知県足摺岬にまで行っているよ。
日記によると彼女が旅立ったのは、心身ともに安定する年代の32歳の時だから、その旅は単なる、必要に迫られた旅行ではなくて、人生の解決を求めての修行だった訳だねえ。
まあ、《旅》と《旅行》の違いは何だろうか、なんて考えると、面白くなるけれど、長くなりそうなので、別の機会にするよ。
いずれにしても、全編を通じて、崩御された後深草上皇への思いがよく表れているねえ。
『十六夜日記』が、中世日記文学の優秀作であるとすれば、『とはずがたり』は、中世日記文学の異色作と言えるよね。
これで日記文学については終了だ。
さて、鎌倉幕府滅亡の2年ほど前、今からおよそ680年前(1331年)に、素晴らしい随筆が出てきたね。
『徒然草』これだ。作者は、あの有名な、
《兼行法師》この人だ。
徒然草は、紫式部さんの源氏物語と同じように、あまりにも有名なので、入試にはそれほど出てこない傾向にあるよね。だからここでも、試験に出たらこの程度の内容というところで押さえておくよ。
作者の兼好法師は、俗名は、吉田兼好(かねよし)さんだ。吉田という地名のところに住んでいたので、吉田とついたわけだ。当時は名前の始めに住んでいる地名をつけるのが当たり前だったからね。
《吉田に住んでいる兼好さん》という意味だ。
そして、出家をして、兼好(かねよし)と言う読み方を、音読みにして(けんこう)と名乗ったわけだ。
非常に優れた才能の持ち主だったねえ。神道(しんとう)、仏教、儒教などにも深い知識を持ち、和歌においては、当時の四天王の1人にも数えられていたくらいだ。身分も結構、高かった。
それが、どうして出家したのか、原因ははっきりしないねえ。ただ間違いなく、現実のドロドロとした欲望渦巻く世の中が、嫌(いや)になったんだろうね。
『徒然草』は、鴨長明さんの随筆、『方丈記』が出てから100年ほどたってからの作品だ。2つの作品は、中世を代表する最も優れた随筆になっているねえ。
その大きな理由は、両方とも、中世という時代の本質を見事に表現できているところにあるよね。
ただ、同じ中世という時代のとらえ方だけれど、2人の作者によって大きく違っているねえ。
『方丈記』は、諸行無常、人生無常であり、世間の煩(わずら)わしいことに大切な人生を費やすべきではないと捉えていたよね。
それに対して、『徒然草』は、仏教の無常観は所々に出ているにしても、日常的な処世訓や例話をもとにした、社会での生き方などを多く書いているね。大変、現実的といえるよ。
それに、表現方法もまったく違うね。
『方丈記』は、全編を1つの論文のような構成にして書いているよね。
それに対して、『徒然草』は、非常に分野は広く、項目ごとに、前後の関連は気にせずに書いているね。
こんな違いがあるけれど、作者の共通点は、鴨長明さんも兼行法師さんも、2人とも出家をして隠遁(いんとん)生活をしたということだ。だから、2つの作品は、隠者文学とも言えるよね。
でも、面白いのは、鴨長明さんと兼行法師さんの隠遁生活の有り様だねぇ。
鴨長明さんは、わずかは3メータ四方くらいの、山の中の貧しい小屋に住んでいたね。そして、あまり京の町へは出て行かなかったようだ。
兼行法師さんは、出家して、立派なお寺で生活をしていた。そして、身分の高い人などに呼ばれると、京の町へもしばしば出掛けていたようだ。
隠遁生活のあり方が、2つの随筆の違いに出ているような気がするよ。
もうひとつ、よく比較される作品として、平安中期の『枕草子』があげられるねえ。清少納言さんの「をかし」の文学だ。
2つの作品の間には、330年ほどの開きがあるね。
2つの作品の違いを簡単にまとめておくよ。
『枕草子』
主観的、感動的、感覚的、絵画的、美意識中心。
『徒然草』
客観的、論理的、理性的、説明的、価値意識中心。
こんなところかなぁ。もちろん、兼好法師さんは、『枕草子』を隅々まで熟読し、研究し尽くした上で、『徒然草』を書いたわけだから、その相違点も、おのずと明確にするように書いたわけだよね。
兼好法師さんは、
「枕草子を真似(まね)したのね」なんて言われることがいちばん嫌だっただろうからねえ。
徒然草は、文体も非常に優れているね。大きな特徴は、書く内容によって文体を変えたことだ。
自然描写、見聞きしたこと、過去の思い出、などを書くときは、古典的な、平安時代の古文に似せた疑古文を使っているね。
それ対して、現実生活における、批評や教訓を述べるときは、和漢混交文を使っている。
どちらの文章も読みやすいし、論旨の明確なものだけれど、やはり、兼好法師さんが得意としたのは、和漢混交文だろうねえ。それは、彼の学識から考えれば、自分の内面にぴったりと合った文体ではなかったんだろうかねぇ。
それじゃ最後に、冒頭部分を挙げておくよ。
『つれづれなるまゝに、日くらし、硯(すずり)にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ』
「手持ち無沙汰で、退屈だったから1日中、硯に向かって、頭の中に次から次へと浮かんでは消えてゆく、つまらないことを、取り留めもなく書き付けてみると、まことに変に、気が狂ったような感じがすることです」
まあ、こんな意味だろうかねぇ。
超有名な部分だけれど、実際には、誰もが納得するような口語訳ができていない部分なんだ。
それは、「ものぐるほし」という言葉の、真実の意味が分からないのだよ。どういう解釈が、兼好法師さんの感覚と正しく一致しているのかということが、まだ分からないんだなぁ。
「ものぐるほし」というのは、文章を長時間、書き続ける人間の精神状態だ、という人は多いけれど、それじゃあ、それはいったいどういう感覚なのか、というといろいろな説が出てきてしまうんだね。
また、「ものぐるほし」というのは、兼好法師さんが自分で書いた文章の出来具合いを言ったものだという人もいるね。そして、その表現は自分の作品を卑下して、あるいは、謙遜して、言ったものだ、という人もいるよ。
面白いねえ。こんな簡単なことが分からないんだねえ。もし当時の人がこの部分を読めば、何の引っかかりもなく、正確に把握(はあく)することができるだろうね。
「エーッ、どうしてこんな、分かりきったことを、ああでもない、こうでもない、ともめているの?」
中世の人が、古文を勉強している現代の人を見たならば、こんな事をつぶやくだろうね。
それはともかく、清少納言さんの『枕草子』、鴨長明さんの『方丈記』、吉田兼好さんの『徒然草』、これらの3作は、日本文学史上に高く輝く3代随筆であることは間違いないねえ。
さあこれで、鎌倉時代は終了だ。