AⅢ中世(鎌倉・室町時代)(3)【鎌倉時代b】『物語』
源氏物語が、後世に与えた影響は本当に大きいねえ。
中世のこの時期でも、源氏物語や中古の物語を真似た作品はまだ出てきているねえ。しかも多いよ。少なくとも100編近くはあるのじゃないかなあ。
その中で時々、試験に出てくる作品を2つだけ挙げておくよ。
『松浦宮(まつらのみや)物語』これだ。
これは、輪廻転生(りんねてんしょう)をテーマにした浜松中納言物語の模倣といえるねえ。続いて、
『住吉(すみよし)物語』。これは、《義理の子》いじめの落窪物語の模倣だね。
どちらの作品も、今、読んでみて、楽しいものではないけれど、他の多数出てきた作品に比べると、文学的に優れていることは間違いないよ。
確かに、源氏物語の影響は大きいとは言ったけれど、中世の作り物語というのは、模倣のそのまた模倣と言えるようなものだ。
源氏物語の模倣といっても、文学的にもまだ価値があり、多くの人々にも読まれたのは、やはり、平安時代【第3の100年】あたりで時期的には終わりだね。
中世の作り物語の作者というのは、貴族の女性がほとんどだけれど、自らの文学世界を創造するほどの才能はなかったね。簡単に言えば、個人的な趣味で、平安期の作り物語の真似事をしたに過ぎないね。
だから、自己満足的なものが多いので、読む人もあまり感動せず、広く多くの人々のうわさに上ることもなかった訳だ。
この、あまり人気のなかった作り物語は、鎌倉時代の終わりごろには、ほとんど書かれなくなり、完全に終わりになってしまうね。
平安時代の栄花物語、大鏡、今鏡、に続いて、中世の始めには、
『水鏡』ができているね。
内容は、大鏡、今鏡で抜けている時代を補っているよ。第一代神武(じんむ)天皇から仁明(にんみょう)天皇までのことが書いてあるねえ。
形式は、時代に沿って、編年体で書いている。でも、面白いのは、歴史物語の例によって、物語の設定の仕方だ。
水鏡は、寺に修業のために入っていた73歳の尼さんが、そこにいた1人の修行者から聞いた話という形になっているよ。その修行者は、葛城山中で出会った仙人から、大昔の神武天皇のころから伝えられている話ということで、1500年間の物語をするんだね。
1500年間のことを覚えているんだから、まさに仙人だ。
この歴史物語に取って代わって人気を博(はく)したのが、
軍記物語、または、戦記物語、といわれるものだ。
歴史物語と、どこが違うのかというと、描写の中心に戦を据えて書いているところだ。それに、歴史的な事実を正確に書くというよりも、脚色や創作も加えながら、ドラマチックに、感動的な内容にしているんだね。
今でいえば戦争ものだ。現在でも、終戦記念日などには、戦争もののドラマや映画が多く放映されたりしているね。さらに、戦争関係で、何か新しい事実のようなものが発見されたりすると、感動的な映画や、ドラマが新しく作られたりもするよね。
戦争ものは、根強い人気のあるジャンルだね。
集団と集団との大きな戦いの勝敗を記述するのはもちろんだけど、その中での個々の人々を取り巻く、様々な状況を感動的に描いてゆくねえ。
例えば1人の兵士の死によって、親子、兄弟、夫婦、恋人、主従、友情、親戚など、どれほど多くの、縁のある人々の思いの上に生を築いてきたかを浮かび上がらせ、そしてそれが、死によって終わることにより、どれほど多くの人々の悲しみを誘うのか、感動的な場面が多いねえ。
戦の、テンポがよく、勇壮で活気にあふれたが記述がある一方で、さまざまな人間関係の中で苦悩する人々の姿を悲劇的な感情を高揚させながら、記述しているところは、心を引きつけ、涙を誘うものだね。
中世は戦乱状態という社会状況から考えても、のんびりと長編の作品を読むというようなものは、出てこない傾向にあったけれど、軍記物語だけは、長編のものが出てきたね。
それは、初めから長編で書かれたというよりも、時の経過とともに、複数の人たちの筆を通して書き加えられて長編になった、というものだね。
内容的に面白いだけに、新たな解釈を加えて、現代の大衆歴史小説として再生した作家の方もいるね。その最も代表的な人が、吉川英二(よしかわえいじ)さんだ。
吉川さんは、貧しい生活のため、尋常高等小学校を中退して、さまざまな仕事をしながら、独学で歴史小説を書いた人だ。そして、文化勲章も受章し、大衆作家の神様のような人になったね。
作品には、『新・平家物語』『私本太平記』など膨大な分量の作品があるよ。僕が君に薦(すす)める一書だけれど、決して、受験期間中には読まないようにね。
読み始めると、面白くて、夜も寝ずに読んでしまうから、受験が終わってからにしてちょうだい。
軍記物語は、これまでの物語とは大きく違った面があるんだよ。それは、軍記物語は、読むための作品であると同時に、語られる文学作品であったということだ。
平安時代にも、声に出して唄うもの、朗詠(ろうえい)と言うけれども、それはあったよね。藤原公任(きんとう)さんの『和漢朗詠集』や後白河院が撰んだ『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』については話をしたよね。
これらは、琵琶、笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、笛などという伝統楽器を伴奏にして唄われていたんだ。
この、上代や中古からあった歌謡を取り入れた、中世の軍記物語の語り方は、今でいえば、弾き語りのようなものだなぁ。琵琶を伴奏にして、一定の節をつけて語るんだ。
ただ、歌謡とは別の流れになるね。歌謡は、音楽性が中心になるけれど、軍記物語の弾き語りは、音楽性よりも語られる内容が主流になるね。
主に『平家物語』が中心に語られたことによって、その語り口を、
「平曲(へいきょく)」と呼ばれるようになったんだ。
平曲については、吉田兼好さんの徒然草には次のような記述があるね。
この行長(ゆきなが)入道、平家物語を作りて、生仏(しょうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり。(中略)かの生仏が生まれつきの声を今の琵琶法師は学びたるなり。
行長入道という人が、平家物語を書いたと言っているね。ただこれは、確証があるわけではないので、有力な作者候補の1人、というくらいだね。
その行長さんが、平家物語を書いて、盲目の生仏という琵琶法師に暗記させて、語らせたということだ。
この時の生仏の生まれつきの声を、その後の琵琶法師たちも皆、真似をして学んでいったということだね。それが平曲の始まりと言うわけだ。
こうして出来上がった平曲を、君には、ぜひとも1度、聞いてほしいと思うね。
僕は何度も、録音されたテープを聞いたが、駄目だった。何が駄目なのかというと、すぐに眠ってしまうんだ。5分と持たないねえ。これほど、強烈に眠気を誘う語りものは他にはないと思うよ。
もし君が、10分も眠らずに聞けたとしたら、すごい精神力と集中力の持ち主だと僕は賛嘆するよ。どんな頑固な不眠症の人でも、10分ももたないだろうねえ。君の友達に、不眠症だという人がいれば、教えてあげてね。
だけど、中世の人々が、こんな平曲を聞いていたんだなあと思うと、何か、感慨深いものがあるねえ。
平曲が、踊ったり演じたりする人もなく、ただ琵琶に合わせて語るだけ、ということを考えると、今でいえば、浪曲(ろうきょく)、浪花節(なにわぶし)に近いものだね。浪曲の伴奏は、琵琶ではなく三味線だね。
平曲まで聞かなかったとしても、浪曲なら今でもやっているので、聞いてみてよ。
おそらく君は、何を言っているのやら、何が面白いのやら、さっぱり分からないだろうと思うねえ。
僕の父が、浪曲が好きでねえ。愛媛県南宇和郡(旧称)の小さな町で商売をしていたんだけれど、町に1軒だけ古ぼけた映画館があったんだ。
そこに時々、浪曲師がやってきて、公演をやるんだ。
そんな時はいつも、父は店を母に任せて、小さい僕を連れて映画館に行ったものだ。
映画館は、1階がイス席になっていて、二階は畳敷きの座敷になっていた。父は、入場料以外に少しお金を追加して、2階に上がって行った。
そしてあぐらをかいて座っていると、おっちゃんが、2人分のお茶とお菓子を持って来るんだ。
僕のお目当ては、浪曲を聞くことではなく、このお菓子だったんだ。
開演しても、浪曲師の声などは僕の耳には入らず、自分の分だけではなく、父の分のお菓子も、おいしく食べたねえ。
お菓子を食べ終わると、ゴロリと横になって寝る。
気持ちよく眠っているのに時々、急に目が覚めたね。それは、おばちゃんの、曲師(きょくし)という三味線の伴奏者が、間合いのいいところで、浪曲師を励ますように、かん高い叫び声をあげたからなんだ。
その声はまるで、鶏が首を絞められて、今にも死にそうな鳴声と同じような響きなんだ。
それに驚いて僕は何度か目が覚めたけれども、結局は眠ってしまったね。本格的に目が覚めた時には、家の布団の上だったよ。
父は、
「あの浪曲師のやろう、チビリ糞が出るような声を出しやがったなあ」
と言っては、僕を笑わせたものだ。
この平曲という弾き語りの流行については、入試では、時々しか出題されないけれど、日本の文学史上においては、大変、大きな意味を持っているものなんだ。
それは、文学享受者のすそ野が広がったということだ。
これまでの文学作品というのは、作者が自筆で1冊書き上げるよね。それを誰かに読ませ、評判が良いと、回し読みをする。そのうち写本を作って、少しでも多くの人が読めるようにしたんだね。
けれど、写本といっても一生懸命になって1人の人が、1冊を写すわけだから、そんなに短期間に数多くできるわけでもないから、一度に多くの人に読んでもらうこともできないよね。
だから、当時、どれほど書物が大切であったかということは、中古に出てきた菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)さんの書いた『更級(さらしな)日記』の、
『源氏の五十余巻、櫃(ひつ)に入りながら、在中将・とほぎみ・せり河・しらら・あさうづなどいふ物語ども、ひと袋取り入れて、得て帰る心地のうれしさぞいみじきや。
はしるはしるわづかに見つつ、心も得ず、心もとなく思ふ源氏を、一の巻よりして、人も交じらず、几帳の内にうち伏して、引き出でつつ見る心地、后(きさき)の位も何にかはせむ』
という部分を読んでも分かったよね。
しかも、文字を読むことができたのは、貴族や僧侶など、ほんの一部の人だったんだよね。
それが、平曲という弾き語りが行われるようになってから、文字が読めなくても、一度に多くの人たちが文学作品を楽しむことができるようになったわけだ。
多くの琵琶法師たちが、多くの聴衆を前に平曲を語った。そうすると、増々、人気が出てきて、軍記物語の台本も多く写本されていく。その写本される過程の中で、琵琶法師の思いも追加されて書かれたり、写本者の意向で内容が変わったり、次々と加筆されたりしたわけだね。
だから、制作年代として、いつ完成されたのか、詳細には分からない。また、作者についても、原作者は誰で、加筆訂正者は誰なのか、といったようなことも明確にはならない状況だね。それで、内容がかなり異なった伝本が、数多く作られているよ。
このように、これまでの文学享受者数とは考えられないほど多くの人々が、文学作品を楽しむ機会を持つことができるようになったわけだ。これは、文学史上の大きな革命といえるだろうね。
中世の次の時代は近世だけれど、近世江戸文学の特徴は、《町人文学》と言われるように、文学が一般大衆化したことなんだ。そういう意味で平曲は、近世文学への橋渡しのような役割をしたともいえるね。
さてと、いろいろ話をしてきたけれど、軍記物語について、覚えなければならないのは少しだけだよ。次の通りだ。
『保元(ほうげん)物語』
内容は、保元の乱前後のことを書いている。
中心人物は、源為朝(ためとも)。
『平治物語』
内容は、平治の乱前後のことを書いている。
中心人物は、悪源太義平(あくげんたよしひら)。
『平家物語』
内容は、平氏の隆盛と滅亡。
中心人物は、平清盛(きよもり)。
『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』
内容は、源氏と平氏の隆盛と滅亡。
平家物語増補版とも言えるもの。
こんなところだね。作者は前にも言ったように、未詳だけれども、平家物語だけは、吉田兼好法師の記事からすると信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)さんと考えられるだろうね。
保元物語と平治物語を読むと、文体にしろ、文章のリズムにしろ、構成にしろ、よく似ているんだよね。だから、同一人物の作ではないかと言われているけれど、僕もそう思うねえ。
両作品とも、新興勢力の武士の力強さを表に出して描いているね。反対に貴族は元気のない姿として描かれている。勇敢に生きてゆく新しい人間像を描いているという点においては、それまでの作品とは大きな差だねえ。
勇壮で活気のある合戦の情景を描きながらも、その中に渦巻く、さまざまな悲劇にも、しっかりと焦点を当てて書いているところは、軍記物語の見本のようなものだね。
ただ、次の平家物語に比べると、文学作品としての完成度から見れば、少しレベルは低いものだよ。
また、平家物語の後に出てきた源平盛衰記は、前者が平家の盛衰を描いたのに対して、後者は、それにプラスして、源氏の盛衰までも書いているよ。だから、平家物語が13巻であるのに対して、源平盛衰記は48巻も分量がある。
多くの内容を書いたのはいいけれど、ただ、いかにも、いろいろな事柄を追加記入したという感じがして、文体にしろ、文章の雰囲気にしろ、不揃(ぞろ)いなところが多いね。だから、歴史的資料としての評価を別にすれば、文学作品としては平家物語の方が優れているねえ。
というわけで、軍記物語の代表としては、平家物語に軍配が上がることになるね。
平家物語には、それまでの文学のエッセンスのようなものが、うまく調和を保ちながら取り入れられているね。
伝統的な源氏物語の「もののあはれ」と新興武士の力強さ、儒教と仏教、貴族と庶民、これらのものが見事に、一定の対立をしながらも、全体的には調和した文学世界が描かれているね。
それに、文体は、見事な和漢混交文で書かれているよ。
平家物語が後世の文学に与えた影響は計り知れないものがあるよ。
また、名場面として後世に伝えられるものは、弓の名人、那須与市(なすのよいち)の話など、数多くあるね。
その中でも、やはり感動のクライマックスは、物語の終りに近い、壇の浦の合戦での『先帝身投げ』の段だろうね。
『「この国は、心憂(う)き境にてさぶらへば、極樂淨土とてめでたき所へ具し參せさぶらふぞ」
と泣く泣く申させ給へば、山鳩(やまばと)色の御衣(ぎょい)にびんづら結(ゆ)はせ給ひて、御涙におぼれ、小さく美しき御手を合せて、まづ、東を伏し拜み、伊勢大神宮に御いとま申させ給ひ、その後、西に向かはせ給ひて、お念仏ありしかば、二位殿、やがて抱き奉り、
「波の下にも、都のさぶらふぞ」
と慰め奉って、千尋(ちひろ)の底へぞ入り給ふ』
平氏軍の敗北が決定的となると、一門の兵士たちは、船から次々と自決のため海中へと身を投げた。そんな中で、8歳の幼い安徳天皇は、平清盛さんの正室の二位尼(にいのあま)に、
「私をどこへ連れていこうとするのか」
と尋ねた。二位尼は、
「この世の国はどこも、つらいことばかりが多いところでございますから、これから私が、極楽浄土と申して、幸せいっぱいの素晴らしい国へお連れ申し上げるのでございますよ」
と泣く泣く申し上げられたので、天皇も納得なされたご様子で、天皇の専用である山鳩色の衣服を着られて、この頃の少年の髪形である、髪を両耳のあたりに垂らしたものを束ねて正装し、次から次へと、とめどなく涙を流される。
それから、小さくかわいいお手を合わせて、最初に、東の方を伏せて拝まれ、伊勢神宮にお別れを申される。
その後、西の方をお向きなさって、念仏をお唱えなさったので、二位尼は、そのまま天皇をお抱き申し上げて、
「波の下にも、都はございますよ」
とお慰め申して、はるか深い海の底へお沈みなされた。
これを契機に、平氏の女性たちもまた、次々と海中へと身を投げていった。
この『天皇入水』の場面は、僕には他人事のようには思われないんだ。
当然、この時、死ぬのが怖くて、海に飛び込まずに、壇の浦から逃げた者もいたんだ。
その行為は、何を意味するのかといえば、当時の武家社会の倫理観からすれば、主人や同士が自決するというのに、それに従わない反逆者であり、卑怯者の汚名を被ることだった。
それでも、落人(おちゅうど)として逃げた者も数多く居たんだよ。
落人たちは、源氏が攻撃してくるのを恐れて、できるだけ遠くへ逃走したんだね。海上を南へ南へと逃げて行った。
ある者は九州の南端近くまで行き、また、ある者は、四国の象の鼻のような佐田岬(さだみさき)半島を越えて、波高い豊後水道(ぶんごすいどう)を乗り越え、愛媛県の南宇和郡のあたりまで逃げて来ているね。
そして、上陸する浜辺を選ぶ時、落人たちが、最も気にかけたのは、源氏の追っ手が攻めて来られないことと、卑怯者として見つからないことだったんだ。
そういう目から見ると、南宇和郡のリアス式海岸の奥深い浜が適していたんだね。
落人が上陸した浜は、荒々しい岩場で海岸沿いには人が通れなかった。また、浜の背後は、高い絶壁が迫ってきていて、陸地からも人が通ることのできない所だった。要するに、陸の孤島のような浜辺だったのだ。
落人たちはそこで、ひっそりと、目立たないように集団生活を始めたんだねえ。
実は、僕の先祖は、この平家の、南宇和郡にやってきた落人なんだ。
僕が小学校低学年の頃にはまだ、僕はすでに町に引っ越していたけれど、この落人の漁村から学校にやって来る子供たちは、全員、漁師さんの漁船に乗せてもらって通学していたよ。
陸地から村へ行くための道が、まだ、出来ていなかったからだ。
というわけで、僕の五体には、平家の血と魂が流れ通っているんだ。
それがどうしたの?と言われそうだけれどさあ。