AⅢ中世(鎌倉・室町時代)(2)【鎌倉時代a】『新古今集・方丈記』
やれやれ、オリンピックが終わってしまったねえ。
お盆休みも終わったよ。
日が経つのは異常に早いねぇ。
まだ、暑いあついと言っているけれど、日はずいぶん短くなってきている。
少し前までは、午後7時にはまだ明るくて、よく外が見えたけれど、昨日今日は、もう、薄暗くなってきているよ。
あっという間に季節の変わり目が来ているんだね。
『秋きぬと 目にはさやかに 見えねども
風の音にぞ おどろかれぬる』
(古今和歌集より)
いい歌だねえ。視覚では秋らしい澄み切った様子には思えないけれど、聴覚からは、木々の間を吹き抜ける風の音に秋の到来を感じて、新鮮な驚きを感じているんだね。聴覚と視覚をうまく組み合わせているね。
それにしても、夏休みも、もう、わずかになってしまったけれど、君の方はどうだった?
どちらにしても、また新しい気分になって、中世文学を見ていこうかい。
中世という時代は、朝廷の側から見ると、貴族の没落の歴史でもあったわけだね。源頼朝が鎌倉幕府を開いた段階では、単純な見方をすれば、朝廷はまだ半分の国家権力を握っていたと言えるよね。
そして、承久の乱にいたって、幕府が全国的な政権掌握をしてゆき、江戸幕府の時代にはほぼ完全に武家政治が朝廷を抑えたという状態になったよね。
そこで、没落する貴族も意地を見せたんだねえ。何で意地を見せたのか。もちろん武力なんかでは、かなわない訳だから、その代わりに、和歌に力を入れたんだ。
中心人物は後鳥羽院だ。
平安期の和歌興隆のきっかけになったのは、寛平御時后宮歌合だったよね。同じように鎌倉時代の和歌再興の流れを作ったのも歌合(うたあわせ)だったんだ。その代表的なものが、
『六百番歌合』これだ。
これ以外にも『千五百番歌合』などが行われて、新たな勅撰和歌集編さんへの流れができたわけだね。
《後鳥羽院》は、和歌に対しては、非常な熱意と才能を持っておられたねえ。
平安期の第2の100年に出てきた、第二の勅撰和歌集『後撰和歌集』のころ、宮中に和歌を選ぶ専門の部署である和歌所(わかどころ)が置かれたね。そこで、村上天皇から和歌所の撰者である寄人(よりうど)として5人が任命されて、《梨壺の5人》と呼んだよね。
そのうちの3人を覚えておこうか、ということで清原元輔(きよはらもとすけ)、源順(みなもとのしたがう)、坂上望城(さかのうえのもちき)さんを覚えたね。
ちょっと復習をしたよ。
この宮中の和歌所は、多くの戦乱の中で廃業に追い込まれていたけれど、後鳥羽院はそれを再興したんだ。そして、6人の撰者を選んで、八代集の最後の勅撰和歌集である、
『新古今和歌集』を編纂させたんだ。
6人の撰者のうち、次の代表的な3人を覚えておこう。
《藤原定家(ふじわらのていか)》さん。
《藤原家隆(いえたか)》さん。
《寂蓮(じゃくれん)》さん。
もちろん、定家、家隆は、さだいえ、かりゅう、と読んだってOKだよ。だけど、ホラッ、例の、浅学な採点官が居たらいけないので、ていか、いえたか、と読んでおこうかい。
題名の新古今集からも感じられるように、古今集を新しい時代にふさわしいものに作り上げようとする、後鳥羽院の心意気みたいなものが感じられるね。
それにふさわしい堂々とした家集になったねえ。歌数は、古今集が1100首ほどであったのに対して、新古今集は2000首にもなっているよ。
そして、古今集には、有名な、わが国初の歌論である紀貫之さんの仮名序があったけれど、新古今集にも仮名序をつけているよ。
さらに、古今集には、真名序(漢字で書かれた序)もあるんだけれど、新古今集にも、同じように真名序が書かれているねえ。
形式的にも古今集を引き継こうとしたのが分かるよね。
新古今集で多く掲載されている歌人は、
《西行(さいぎょう)》さん。旅に道を求める歌人。
《慈円(じえん)》さん。天台宗の座主。
《藤原俊成》さん。千載集の撰者。
《藤原定家》さん。俊成さんの息子さん。
《藤原家隆》さん。撰者。
《寂蓮》さん。撰者。
《後鳥羽院》。院宣を出した天皇。
これらの歌人を見ると、およそ新古今集の歌風が分かってくるような気がするね。
歌風の流れとしては、第7番目の勅撰和歌集である『千載和歌集』をさらに深めたものとなっているね。
千載集は、後白河法皇の院宣によって、藤原俊成(しゅんぜい)さんが撰者となって制作されたものだったね。
俊成さんは、千載集を編さんするにあたり、新しい文学理念《幽玄》をうち立てた人だったよね。
新古今集は、この幽玄をさらに推し進めたものなんだ。
大きくは、2つの文学理念によって成り立っているね。この2つはしっかり覚えよう。
1.幽玄(ゆうげん)・・・藤原俊成さんが芸術の理想とした理念。
奥深くて静寂感を漂わせる魅力的な優艶美のある情趣。
2.有心(うしん)・・・息子の藤原定家さんが文学の理想とした理念。
寂しさの中にも魅惑的な妖艶(ようえん)美のある情趣。
この2つの文学理念をはっきりと理解しようと思う必要はないよ。説明としての言葉では、表現しきれないものが、和歌の世界として表現されているわけだから、実際の和歌を読んで納得すればいいんだ。
新古今集の歌風は、全体的に言えば、果実が腐って落ちるような状態だ。表現にしろ修辞法にしろ、非常に凝(こ)っているものが多いよ。
よく出てくる特徴を挙げておくよ。
1.初句切れ、3区切れが多い。
2.体言止め、省略法、倒置法が多い。
3.本歌取り(古い歌を取り入れて作る)が多い。
4.隠喩(分かりにくい比喩)が多い。
5.華やかな中に静寂感、寂しさがある。
6.耽美的(たんびてき・美にのめりむ)
厭世的(えんせいてき・世の中を嫌う)
退廃的(たいはいてき・不健全なもの)
といったようなものだ。中には、あまりにも技巧にとらわれすぎて、解釈ができづらいもの、不明なものさえあるんだ。
よく出てくる2つの歌だけ紹介しておくよ。
『春の夜の 夢の浮橋 とだえして
峰にわかるる 横雲の空』
(藤原定家)
「春の短い夜の夢に、恋しい人が出てくる。その夢が、途中で目が覚めて途切れてしまい、もっと見たかったのにとぼんやりと明け方の空を見ていると、恋しい人との別れを思わせるように、峰にかかっていた雲が、離れていってしまうのが見えることだ」
『玉の尾よ 絶えなば絶えね ながらへば
忍ぶることの 弱りもぞする』
(式子内親王・しょくしないしんのう)
「私の命よ、亡くなってしまうのであれば、早く亡くなってしまえ。今のまま生き続けているなら、あなたとのことを抑え忍んでゆく力が弱くなってしまい、そばの人に気付かれるように、心が表に出てしまうかもしれないから」
まあ、この2つの歌を読んだだけでも、新古今集の特徴が少し分かるよねえ。ある意味で言えば、和歌の技巧的な面白さの頂点に達した歌集であるとも言えるよね。
始めのところに書いた古今集の歌。
『秋きぬと 目にはさやかに 見えねども
風の音にぞ おどろかれぬる』
この歌の時代から、300年ほどが経って新古今集はできているから、2つの集の歌を読み合わせてみると、この間の和歌の発展というか、成熟というか、変遷が実感としてよくわかるね。
君がもし、和歌が好きならば、入試でも終われば、新古今集の2000首の歌をじっくりと読んでみると、当時の貴族の心、特に、後鳥羽院の気持ちが伝わってきて、面白いよ。2000首のほとんどは、藤原定家、藤原家隆、寂蓮さんなどの撰者が、記載すべき歌の候補として取り上げた中から、後鳥羽院自身が選んだものなんだ。
この新古今集は、没落する貴族階級が、新興勢力の武士勢力に対して、文化的な意地を見せると同時に、不可抗力に従わざるを得ないわびしさ、それからの逃避、といったような情感が複雑に技巧的に表現されたものだね。
新古今集という1つの時代を代表するような歌集を作り上げた後鳥羽院は、藤原俊成さんを師匠として仰いでおり、また、西行さんに心酔して、技巧的修辞的に頂点に達するような勅撰集を残すことができたわけだね。
だけどその後、承久の乱というクーデターの発覚により、隠岐島に配流され、そこで生涯を終えたねえ。後鳥羽院の和歌への熱心な思いも、そこで消えてしまったわけだ。
以上で、新古今集は終わりだ。
次に、この時代の歌人で特異な存在の人がいるので、書いておくよ。
その人の名前は、3代将軍、
《源実朝(みなもとのさねとも)》さん。この人だ。
実朝さんは、武家の大将軍ではあったけれど、京の公家の文化へのあこがれがあったんだね。若いころから歌を詠み始め、藤原定家さんにも指導を受けながら歌の才能を磨いていったね。そして、22歳までの歌を集めて家集を作ったんだ。
『金槐(きんかい)和歌集』これだ。
藤原定家さんに指導は受けたけれども、新古今風とは、全く対照的な武将らしい歌を作っているよ。有名な1首。
『大海の 磯もとどろに 寄する浪(なみ)
われてくだけて さけて散るかも』
何か、心が広々としてくるような歌だね。万葉調の素朴で力強い歌だ。
残念ながら、実朝さんは、金槐和歌集を発表してから、6年ほど後には、甥によって暗殺されてしまったねえ。
ここで、和歌の世界で大変な影響を与えた人として、藤原俊成さん親子について、補足説明しておくよ。
お父さんの藤原俊成さんは、名実ともに力のある歌人で、朝廷でも多くの役職をいただいて頑張った人だ。
有名な歌論に、
『古来風体抄(こらいふうていしょう)』があるよ。
これは素晴らしい歌論書だ。万葉から千載集までの膨大な歌について、その歌風や形を論じて、和歌の評価のあり方を明確にしているねえ。
またこのころ出てきた、物語評論の書。
『無名草子(むみょうぞうし)』
この作者は、未詳とされているけれど、一説には、俊成さんの娘ではないかといわれているねえ。この評論は、たいへん幅広い分野に渡っていて、物語批評はもちろんのこと、人物批評、多くの勅撰集や家集の批評にまで及んでいるね。
息子の藤原定家さんは、お父さんに劣らずの実力派だ。二条京極に住んでいたので、京極中納言とも呼ばれていたねえ。お父さんに歌道を学んで大成し、中世以降の最も優れた歌人として尊敬を集めたね。
歌論に、
『毎月抄(まいげつしょう)』。
日記に、
『明月記(めいげつき)』があるねえ。
父親の幽玄体をさらに深めて有心体を提唱して、和歌の理想的な形と理念を明確にして、後世の歌道に大きな影響を与えたね。
また、定家さんの知人も活躍しているねえ。その1人で、新古今集にも多くの歌が載っている、天台座主(ざす)の慈円さんは、有名な史論を書いているね。そうそう、座主と言うのは、寺で一番、偉い人のことだ。
『愚管抄(ぐかんしょう)』これだ。
史論というのは、歴史物語や軍記物語などよりも学問的で歴史観を持って書かれているものだ。
それから、しばらく後には、北畠親房(きたばたけちかふさ)さんが、
『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』
という史論を出しているね。南朝の正当性を唱えたものだ。
冒頭が有名で、「大日本は神国なり」で始まるよ。後世の話になるが、明治維新の精神的支えにもなった書物だね。
史論としてこの2つの作品をしっかりと覚えておこうね。
さあそれじゃあ、続いて、随筆文学だ。
中世を代表する随筆文学といえば、方丈記と徒然草だよね。
まずは、鎌倉時代の初期に出てきた、
『方丈記』これから見ていこう。
成立は、今からちょうど800年前(1212年)に書かれているね。題名の由来は、
『その家のありさま、世の常にも似ず。広さはわずかに方丈、高さは7尺が内なり』
と本文にあるように、作者が隠遁(いんとん)して生活した家が、3メートル四方であったところから付けられているね。1丈というのは10尺(1尺は30cm)のことだ。
作者は、鴨長明(かものちょうめい)さんだ。ながあきら、と呼んでもOKだ。むしろ、研究者によると当時は、ながあきら、と呼んでいた可能性が高いと言われているけれど、例によって、ちょうめい、で覚えておこう。
鴨長明さんは、裕福な賀茂神社の神官の子供だったんだ。そして成長するにつれて、文学的才能を発揮して、一時は和歌所の寄人(よりうど)にもなっている。さらに、音楽的にも才能があって琵琶の優れた奏者でもあった。
順調な人生を歩んでいた鴨長明さんが、どうして山の中に隠棲(いんせい)するようになったのか。その理由を方丈記は書いているともいえるね。
それじゃ、簡単に内容を見ていくよ。
『四十(よそじ)あまりの春秋(しゅんじゅう)を送れる間に、世の不思議を見ること、やや度々(だびたび)になりぬ』
40歳の年を取るまでに、世の中に起こった異常な出来事を見ることが度重なった、と言っているんだね。
《異常な出来事》とは何か。次の5つを挙げているよ。
1.安元の大火
2.治承の辻風
3.福原遷都
4.養和の飢饉
5.元暦の大地震
当時起こった大変な異常気象、また、京の都が混乱した福原遷都(人災)、これらの人災や自然災害の悲惨な状況を目の当たりにしたことが、出家の原因になったということだ。
その中で2ヶ所ほど書き出しておこう。
『また、いとあはれなること侍りき。去りがたき妻(め)・夫(おとこ)持ちたる者は、その思いまさりて深き者、必ず先だちて死ぬ』
「一家で飢え死しそうになっている時に、たまたま食べ物が手に入ると、家族に対する愛情の深い者は、自分は食べずに愛する妻や夫や子供に食べ物を渡すので、必ず、愛情の深い者から順番に死んでいった」
また、次のように書いている箇所もあるよ。
『母の命、つきたるを知らずして、いとけなき子の、なお乳を吸ひつつ、臥(ふ)せるなどもありけり』
こういう、悲惨な人災、天災に接する中で、鴨長明さんは、深刻に人生とは何かを考えたんだね。
いつ死ぬかは分からない、また、1度しかない人生を、名誉、地位、金、財産などというものに、費やしていいのか。それらは無常なものではないのか。もっと、人間としての人生の本来の生き方があるのではないか。
と考え続けて出てきた結論が、隠遁生活だったわけだね。
世俗に渦巻く欲望や、打算的な人間関係を捨てて、山中に庵を立て、あるがままの姿で生きる中に、人間としての真の幸福を感じる生活を求めたわけだ。
その生活の様子が、後半部分に、
『大原山の遁世』
『日野山の閑居』
として書かれているね。その心境を、
『身を知り、世を知れれば、願はず、わしらず。ただ、静かなるを望みとし、愁(うれえ)なきを楽しみとす』
「自分の身のほどを知り、世の中がはかなく、無常であることを知っているから、財産や名誉や出世のために、あくせく走り回ったりしない。ただ、心が乱れず平穏であることを希望として、心配のないことを楽しみとしている」
とあるように、心の平穏な生活を満足している様子が分かるよね。
中世の基底にある無常観(観と感を使い分けているので注意してね)に立脚しながらも、真に幸福な生き方とは何かを実践した、生活感覚から出てきた言葉には、説得力があるねえ。
ここで、ちょっと一服。入試とは関係ないけど、方丈記の精神を現代に当てはめて考えてみよう。
生涯の大きな目標としていたマイホームをローンで買った。ローンの支払いのために、食うものも食わずに、質素な生活をしていたが、結局、病気になって仕事ができなくなり、結果としてマイホームを手放さなければならなくなった。いったい、これまでの苦労は何だったんだろうか。人生を取り返すにはもう遅い。
確実な財産になると思って、苦労してお金を貯めて土地を買った。ところが地震が来て、液状化になり、土地の境目も分からなくなって、誰も買い手がつかなくなった。いったい、これまでの苦労は何だったんだろうか。人生を取り返すにはもう遅い。
就職をして、出世こそが人生の主要な目的だと思って、個人の生活や楽しみも振り捨てて、会社や上司に尽くしてきた。ところが、50歳を超えたころに、不況のあおりを受けて会社は倒産して、失業した。いったい、これまでの苦労は何だったんだろうか。人生を取り返すにはもう遅い。
なんだかんだといっても、金もうけこそが幸せにつながると思って、さまざまな融資に金を注ぎ、ずいぶんもうけた。最後にもう一度、大もうけをしてやろうと思って、投資したところが、リーマン・ショックの影響をまともに受け、大部分の金を回収できなくなった。いったい、これまでの苦労は何だったんだろうか。人生を取り返すにはもう遅い。
まあ、これ以外にもいろいろ考えられるんじゃないの。ちょうど今の世の中は、方丈記の精神が当てはまるようなことが、たくさんあるだろうから、君も一度考えてみたらどうかなぁ。
さてと、中世は、世の中があまりにも、悲惨な崩壊状態であったが故に、鴨長明さんみたいに、現実から逃れて出家し、隠遁生活をするなかから、文学作品を書いていこうという人が出できたわけだ。
そういう文学を、隠者文学などと言ったりして、争いの社会を肯定的にとらえて、勇ましい生き方を描く軍記物などと、対照的に表現する場合があるね。
後に出てくる、兼好法師の徒然草も、隠者文学といえるね。
鴨長明さんは、方丈記以外にも、歌論書として、
『無名抄(むみょうしょう)』を著(あらわ)しているね。
藤原俊成さんの娘が書いたとも言われる物語評論『無名草子(むみょうぞうし)』と間違えないようにね。さらに、説話文学の、
『発心集(ほっしんしゅう)』も書いているね。
これは題名の通り、仏教の信仰を深めるための説話を集めたものだ。題名だけでも覚えておこうか。
さあそれじゃこれで、鎌倉時代の初期を終わりにしておこう。