

AⅡ中古(平安時代)(7)【第3の100年b】『源氏物語以降』
日本の文学は、枕草子、源氏物語の出現で、頂上に達したよ。後は、もう、下るしかないねえ。
それは、平安時代だけで下ったというよりも、現在も下り続けているといえるだろうね。
実際に、枕草子、源氏物語を超える作品は、現在に至るまで出てきていないね。
時々、文学も科学技術のように、時代とともに発展すると思っている人がいるけれど、それは間違いだね。もし、発展し続けるとしたら、現在は、平安時代の生活状況からすれば、科学技術が夢のように大発展をし、便利な生活を送っているわけだから、文学も平安時代から比べたら比較にならないほど発展していて当たり前のはずだ。
ところがどうだい。今の日本の文学の現状は、最低レベルだよ。しかもその最低レベルを毎年更新しているねえ。年を追うごとにますます、レベルの低い文学状況になっているよ。
新刊本が出ると、いかにも今までにない新しい文学作品のような宣伝をするけれど、実際読んでみると、枝葉をちょっとだけ目新しくしたような、小手先の変化にすぎないねえ。いっこうに、新たな文学運動の幹になるような作品なんかは出てこない。
源氏物語以降の平安時代の物語文学も、源氏物語の素晴らしさに影響されて、多くの物語りが書かれたけれど、結局、源氏物語を超えることができなかったんだ。
ほとんどは、源氏物語の模倣(もほう)、物真似だ。
源氏物語を文学レベル的に超えることができないとすれば、どんな点で、新しい物語りの存在の意義を示すのか。
今と同じだ。普通に書いたのでは源氏物語にかなわないから、異常さ、退廃的、ブラックユーモア、官能的性描写などといった、まともではない面を強調した書き方になったんだね。今も昔も人間のやることって、変わらないだろう。
そこで出てきた作品がまずは、
『堤中納言(つつみちゅうなごん)物語』これだ。
僕らは学生時代、『どて中納言』と言ってふざけていたものだ。
内容は、まさに、ちょっとおかしい、おもろい、ものになっているよ。
ただ形式的な特徴はしっかり覚えておこう。
堤中納言物語は、十編の短編小説から出来上がっているんだ。それは、わが国初の歌物語である伊勢物語のように、何段かに分かれているけれど、全体的には、在原業平の一生を書いている、というのではないよ。
10編が完全に独立しているんだ。作者も一編以外は誰が書いたか分からないね。
だから、堤中納言物語は、わが国初の本格的な、
《短編小説集》、ということがいえるね。
内容は、これまでの文学作品の中で最もおもろいのではないかな。
作品の中の1つに『はいずみ』というのがあるね。これは、夫が急に新しい妻のもとにやってきた時、あわてた妻が、化粧するおしろいと、まゆを書く墨とを間違えて顔に塗った、という話だ。顔を真っ黒にして出てきた妻に、夫は驚き、幻滅し、二度と再び、来たくはなくなった、という話だ。
また、よく教科書にも載る作品には、『虫めづる姫君』というのがあるね。
若い姫君が、恋愛や美しい花などには興味を示さずに、気味の悪い虫が何より好きで、科学的な真理を追究するというものだ。
それ以外も、奇抜で面白い内容になっているね。退屈しないから、時間も少ししか、かからないから、ちょっと読んでごらん。最近の小説より、はるかに現代的だよ。
もちろん文学的レベルは、源氏物語には遠く及ばないけどね。
さて、続いて出てきたのが、
『浜松(はままつ)中納言物語』これだ。
僕らは、「浜中、ハマチュウ」と言っていた。
平安時代も終わりが近づくと、栄花物語のように過去を懐かしむと同時に、思うにまかせない現実から逃れて、非現実的な世界に浸ろうとする傾向になってきたね。いわゆる、現実逃避だ。
そんな思いを作品にしたのが、この浜松中納言物語だ。
作品の特徴はしっかり覚えよう。
この作品の展開は、仏教の輪廻転生(りんねてんしょう)に基づいて構成されているよ。輪廻転生というのは、人間は今の世で死ねば、次の世にまた人間として生まれ変わってくる、という仏教思想だ。浜松中納言物語は、それをテーマにして、3つの輪廻転生を物語の中心に据えているんだ。
内容的には、大人なった子供が、自分よりもはるかに幼い、生まれ変わった父親に会うというような、非現実的な展開が多いね。人間は、生まれ変われるんだ、というような日常性を超えた文学世界を造ることによって、現実を逃避し、慰められたんだろうね。
テーマは非常に興味深いけれど、読んでみると、あまり面白くないよ。
有名な話だけれど、浜松中納言物語にヒントを得て、三島由紀夫さんは、『豊饒(ほうじょう)の海』という長編小説を書いているね。
『春の雪』『奔馬(ほんば)』『暁(あかつき)の寺』『天人五衰(てんにんごすい)』の4つの作品から成り立っているよ。
ところで、『天人五衰』が、単行本として出版される前に、三島由紀夫さんは、自衛隊駐屯地に乗り込み、演説をした後、腹を切って自決したね。
この両者の作品を読み比べてみると、三島由紀夫さんは、浜松中納言物語をヒントにして真似(まね)をしたいうレベルではないね。『豊饒の海』は、三島由紀夫さんの完成された独自の文学世界が創作されていて、浜松中納言物語とは、美意識の面からいえば全く違う世界だね。
三島由紀夫さんにとっては、浜松中納言物語は、ほんのちょっとしたヒラメキ程度の影響だったのではないかと思うね。
続いて出できたのが、
『夜半の寝覚(よわのねざめ)』これだ。『夜の寝覚』ともいわれる。
内容は、主人公の中納言が1人の女性を生涯にわたって求め続けるが、結局、悲劇的な終わりを迎えるというものだ。源氏物語の影響は大きく、特に特徴があるわけではないけれど、心理描写には優れた面がみられるね。
構成的には、浜松少納言物語のように、急に中国大陸に場面が移ったりというような、不自然なところは少なく、うまくまとまっているよ。ただ全体的に、うっとうしい雰囲気で、平安期も終わりの、世の中が下り坂を下りて行くような社会状況に合った作品だと言えるよね。
さあ次にまた、作品が出てくるよ。
『とりかへばや物語』これだ。
平安末期の頽廃(たいはい)した世相がよく分かるね。
これは、題名からも分かるように、女の子を男性として育て、また、男の子を女性として育ててゆく物語だ。成長するにつれて、起こってくるさまざまな出来事を書いているね。
時代の終わりの、異様さへの興味の高まりを表すものだろうね。
いずれにしても、源氏物語という文学的最高峰の作品が出てきてからは、結局は、真正面からは太刀打ちできずに、異常な方向から、物語の存在意義を示すしかなかったんだね。やはり、紫式部さん、清少納言さんを超えるような文才をもった人間が出てこなかったんだなあ。
現代の文学状況とまったく同じだろう。
形式的に変わった小説を書いたり、異様な内容のものを書いたり、自己満足の不可解な小説を書いたりして、出版社が大げさに宣伝をして売ろうとしているね。
まともに、文学的価値で源氏物語に対抗して、それ以上のものを書いてやろうという作者もいなければ作品も出てこないねぇ。
まあ、それはそれとして、ここで、素晴らしい日記が出てきているよ。
『更級(さらしな)日記』これだ。
僕らは、「ベンキュー日記、ベンキ日記」と呼んで、おもしろがった。
今から950年ほど前(1060年)の作品だ。
作者は、例によって男性中心に呼ぶから、
《菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)》さん、ということになるね。
菅原孝標女さんが、13歳のとき、父親の菅原孝標さんの任国である、上総の国を出発するところから書き出される。その時の菅原孝標女さんの望みは、都に着いたならば、実物の物語というものをぜひとも読みたいというものだった。
それじゃあ、冒頭部分を見てみよう。
『東路(あずまじ)の道の果てよりも、なほ奥つ方に生ひ出でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひ始めけることにか、世の中に物語といふもののあなるを、いかで見ばやと思ひつつ、つれづれなる昼間、宵居(よいい)などに、姉・継母(ままはは)などやうの人々の、その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、わが思ふままに、そらにいかでかおぼえ語らむ。
いみじく心もとなきままに、等身に薬師仏(やくしぼとけ)を作りて、手洗ひなどして、人まにみそかに入りつつ、
「京にとく上げたまひて、物語の多く候(さぶろ)ふなる、ある限り見せたまへ」と、身を捨てて額(ぬか)をつき、折りまうすほどに、十三になる年、上らむとて、九月(ながつき)三日(みか)門出して、いまたちといふ所に移る』
「東海道の最果ての常陸の国よりも、もっと奥の田舎の方で育った私は、どれほどか、田舎くさい娘だったろうと思いますが、どういうわけか、世の中に物語というものがあるのを聞き知って、それをなんとかして読みたいものだと思い続けるようになりました。
何もすることのない昼間や夕べの時などに、姉や継母といった人たちが、その物語、あの物語、光源氏の物語の内容を所々、話してくれるのを聞きますと、ますます全部を知りたい気持ちが募るのです。でも、その人たちも、私が満足するようには、すべてを暗記していないので話すことができません。
大変、もどかしくて仕方がないので、等身大の薬師仏を作って、身を清めるために手を洗い、人が見ていない間に、ひそかに仏間に入って、
「早く都にのぼらせていただいて、物語がたくさんあるのを、ある限りすべて見せてくださいますように」
と身を投げ捨てるようにして、額を床にすりつけてお祈りをしました。
そうしていると、私が13歳になった年に、上京することが決まりました。
いよいよ9月3日に家を出て、いまたちというところに移り住みました」
というくらいの意味だね。
菅原孝標女さんは、このように、13歳で茨城県の山奥から京都へ向けて出発をしたんだね。その途中のことは、見事な紀行文として書かれているね。
京の都に着いてから、菅原孝標女さんは、前々からの望みであった、物語を読みたいと思うけれども、なかなか手に入らなかった。ところがある日、夢のようにその願いがかなったんだ。
その時の記述は、教科書にもよく出てくるけれど、ここにも引用しておくよ。
『をばなる人の田舎より上りたる所に渡いたれば、
「いとうつくしう生ひなりにけり」など、あはれがり、めづらしがりて、帰るに、
「何をか奉らむ。まめまめしき物はまさなかりなむ。ゆかしくしたまふなる物を奉らむ」とて、源氏の五十余巻、櫃(ひつ)に入りながら、在中将・とほぎみ・せり河・しらら・あさうづなどいふ物語ども、ひと袋取り入れて、得て帰る心地のうれしさぞいみじきや。
はしるはしるわづかに見つつ、心も得ず、心もとなく思ふ源氏を、一の巻よりして、人も交じらず、几帳の内にうち伏して、引き出でつつ見る心地、后(きさき)の位も何にかはせむ。
昼は日暮らし、夜は目の覚めたる限り、灯を近くともして、これを見るよりほかのことなければ、おのづからなどは、そらにおぼえ浮かぶ』
「叔母に当たる人が、田舎から上京していたところにあいさつに行ったところが、
『ずいぶん、かわいらしく大きくなりましたねぇ』
などと喜んでくれたり、珍しがったりしてくれて、帰る時に、
『何をお土産にあげましょうかしら。実用的なものはつまらないでしょう。あなたが欲しがっているというものを差し上げましょう』
と言って、源氏物語の50余巻を箱に入れたまま全部と、在中将・とほぎみ・せり河・しらら・あさうづなどという物語もひと袋に入れてくださいました。
それをいただいて帰るときの嬉しさといったらこの上ないものでした。
今までは、所々だけを見て、心に満足もできず、もどかしく思っていた源氏物語を、最初の1の巻より、人にも邪魔されず、几帳の中で横になり、次々に取り出しては読んでいく気持ちは、天皇の皇后さまの位よりも素晴らしいもののように思えます。
昼は一日中、夜は目がさめている間中、明かりを近くにともして、物語を読む以外は何もしないで過ごすことができました。
すると、自然に、頭の中に物語が暗記されて言葉が浮かんでくるのをうれしく思いました」
というくらいの意味かなぁ。
何か、青春時代の実感が読者にも湧き上ってくるような名文だね。
この後、菅原孝標女さんは、物語の世界と現実とのギャップ、姉の死、老齢の父の再び遠い国への赴任、宮仕え、結婚、出産等々と人生のさまざまな出来事を体験しながら、やがて、夫と死別し、孤独な生活の中から仏教への信仰を頼りとして生きてゆく。
というところまで書かれているね。
だから、更級日記は、女の一生と言えるような日記になっているんだ。
そういう点では、わが国初の自伝風の日記であった「蜻蛉日記」と共通しているね。
ただ、蜻蛉日記が憂うつな日記として一貫しているのに対して、更級日記は、夢見る娘のころの青春時代から、年老いて孤独な1人住まいになったとしても、やはり仏に夢を託しているところは、蜻蛉日記の作者、右大将道綱の母さんよりも、ロマンチストであったといえるね。
「女の一生」を書いた小説といえば、フランスの作家モーパッサンさんの『女の一生』、わが国では、山本有三(ゆうぞう)さんの『女の一生』、有島武郎(たけお)さんの『或る女』そして、林芙美子(ふみこ)さんの『放浪記』などがあるね。
「女の人の人生ってどんなもんなんだろう」とこれらの作品を心をときめかせながら読んでいたころが懐かしいよ。
ところで、平安末期になって、そろそろ、日記文学が終わりを告げることになねえ。最後の作品として、
『讃岐典侍(さぬきのすけの)日記』これを挙げておくよ。作者は題名の通り、
《讃岐典侍》さんだ。《典侍》というのは、役職名だよ。
内容は、天皇の身近に仕えて、お世話をしたが崩御されたことや、五歳の幼帝に親しくお仕えしたことなどが書いているね。ただ、この作品は読むのは疲れるよ。
文学性を表現しようとして書かれたものではなく、淡々と宮仕えする日常を書いているので、面白さはないね。ただ、時々、入試に顔を見せるから気をつけておこう。
これで、日記文学というジャンルとしての流れはほぼ終わってしまうことになるよ。
もちろんこの後も、『十六夜(いざよい)日記』など、さまざまな日記が出てくるし、現在も、日記形式を利用した小説や、日記体の作品は出版されているけれど、文学ジャンルとしての日記文学というのは、無いと言えるだろうね。
日記文学という形式は、文学表現の方法としては、少々、表現世界を限定する傾向にあるから、文学者の間から敬遠されていったんだろうね。
わが国初の、仮名による日記、紀貫之さんの『土左日記』から
讃岐典侍さんの『讃岐典侍(さぬきのすけの)日記』までが、日本文学における、日記文学の最も隆盛した時代だったわけだね。
さてここで、源氏物語の本格的な模倣(もほう)作品が出てきたねえ。
基本的に、源氏物語以降の物語は、輪廻転生をテーマにした浜松中納言物語も含めて、源氏物語のまねをした模倣作品だよね。
ただ、十個の短編小説からできている堤中納言物語だけは、独自の作品だと言えるけれどね。
その真似(まね)をした作品の中で、最も源氏物語に似せて作った作品は、
『狭衣(さごろも)物語』これだ。
狭衣物語は、源氏物語の模倣作品の代表であることは間違いない。ところが、不思議なことに、入試にはあまり出てこないねぇ。
君は、今までの模擬試験の中で、この狭衣物語が出題されたものに出会ったことがあるかい?
あまりなかったのではないかな。
理由は簡単だよ。狭衣物語の研究者が少ないんだよ。
鎌倉時代の日本最古の文芸評論書『無名草子(むみょうぞうし)』には、
『狭衣こそ、源氏につぎて、はよう覚えはべれ』
と書いて、狭衣物語を高く評価はしているね。さらに、源氏物語以降に出て来た物語としては最も長編だ。もちろん源氏物語ほど長くはないけれどね。
だけど、研究者にとっては、あまり魅力のない作品なので、人気がないのだよ。
だから、入試問題の作成者が、「源氏物語以降の物語で、それを模倣した作品はどれか」、という問題の答えとして、本来であれば、狭衣物語が最適なのだけれども、作成者自身が詳しくないので不安だから、間違いのない浜松中納言物語の方を持ってくるわけだね。
なにせ、もし、
「狭衣物語のどこが源氏物語の模倣なのか」と追及された時、まさか、
「○○さんの研究書に、模倣だと書いていました」
なんて答えるわけにいかないものね。そうしたら学者として失格だからね。
ところで僕は、狭衣物語について、あまり話をする気になれないんだ。
というのはね、僕の大学の恩師が、狭衣物語の専門家だったんだ。その研究で、博士号も取得していたよ。僕は、この恩師が大嫌いだった。
青森県の出身で、東北弁丸出しの、年老いた教授だったよ。
特に、方言を使うから嫌いだった訳じゃないよ。
僕は、出身は愛媛県だけれど、愛媛弁を使うのが恥ずかしくて、できるだけ関西弁を使うようにしながらも、誇りを持って愛媛弁でしゃべれない自分が時々、情けないような気がしていたものだ。
だから、恩師が自信満々に東北弁でしゃべるのには、むしろ尊敬の気持ちを持っていたよ。
僕が嫌悪感を持ったのは、恩師の女学生に対する態度だったんだ。かわいい女学生には、すぐに、必要以上に近づいて、なんだかんだと、うれしそうな顔をして話をするんだ。
それに対して、僕らのような生意気な男子学生には、不機嫌そうな顔をして邪魔くさそうに話をする。講義中に、ちょっとでも隣と話をしようものなら、大声で真っ赤な顔をして怒鳴るんだ。
こういう恩師の姿は醜悪そのものように見えたね。
それに、うわさでは、今の奥さんは2人目で、20歳も歳が違うらしい。それも以前の教え子だったというのだ。
僕はもう、年老いた男の醜さばかりが恩師から感じられて、講義を聞くのもいやだった。それでも顔を出していないと、出席しない者は単位をやらない、と脅されていたので刑務所にでも行くような気持ちで出席をしていたよ。
ただ、1つだけ、恩師に対して魅力を持っていることがあった。それは、恩師自身に対してではなくて、恩師が、旧制青森中学で、太宰治さんと同じ教室で机を並べて勉強したということだった。
それは僕にとって、生きた太宰治さんのことを聞けるという非常な魅力だった。
僕は何度も、鳥肌が立つような嫌悪感を我慢しながら、恩師に太宰治さんのことを尋ねた。恩師は、ますます不機嫌になって、僕を鼻であしらうようにするだけだった。
それでもしつこく尋ねたので、何回目かに次のような事だけ教えてくれたよ。
「彼は、クラスで1人だけ、石鹸の匂いをさせて学校に来ていたよ。まあ、中学のころから、文章を書くのはうまかったがね」
と、恩師は顔に憎悪の色を浮かべて話してくれた。
当時、風呂で石鹸を使えるという家は、よほどの金持ちでなければできなかったんだよ。
僕は、恩師の憎悪の表情は、僕に対してだけではないと思えた。
おそらく、恩師は自分が平凡な大学の教授になったのに対して、太宰治さんは、超有名人になったことを比較して、嫉妬と憎しみを感じているんだろうと思ったね。
恩師のものの考え方の根っこのところには、外面すなわち、名誉、地位、財産などや世評を人生の価値観に据えているようなところがあると思えたよ。
僕は、恩師はそんな人間だと確信を持っていたんだ。
そういうところから考えて、狭衣物語を研究したのも、研究者が少ないから逆に、博士号が取得しやすいので、文学的な信念からではなくして、打算から選択したんだと思っていた。
狭衣物語は、源氏物語の模倣であるけれど、単なる模倣であったなら、世間の評判になるようには受け入れられないよね。そこで作者は、まだ誰だかはっきりしていないけれど、源氏物語より、何らかの形で、注目されることを考えなければならなかったわけだ。
その結果、作者がもくろんだのが、官能描写を露骨にするということだったんだ。
なんと、現在の文学状況とそっくりだね。
それで、源氏物語では、「2人は床を共にした」で終わらせたところを、「一緒に寝てどうした」というところまで書いたんだねえ。
僕はある時、恩師の狭衣物語の講義が終わった後、教壇のところに行って、
「狭衣物語なんて、ポルノ小説みたいなものですよね」
と言ってしまったんだ。
日ごろの嫌悪感や憎悪感が一度に出てしまったような言葉になってしまったね。さすがに、言ってしまった後で、「しまった」と思ったよ。
恩師は見る見る、憎悪丸出しの赤鬼のような顔になった。そして、僕の胸倉を、握りこぶしでドンドンと小突きながら、
「おまえは、そんなことを言って恥ずかしくないのか。それじゃ、源氏物語もポルノ小説か。どこにそんなことを言う研究者がいるか。世の中の研究者の笑いものになるぞ。ろくに学問もしてないくせに、なんてことを言うんだ・・・」
と怒鳴り続けた。僕の顔に唾が霧吹きのように飛んできた。
僕は、本当に殴られるかもしれないという恐怖心が出てきた。一瞬、逃げようと思ったけれど、ここで逃げたら負けだと思った。それで、恐かったけれど、じっと立って、口に無理に微笑を漂わせたつもりの顔で、恩師を見つめていた。
恩師は、5分ほども怒鳴り散らして、研究室の方へ帰って行った。
「おじいちゃんを怒らしたらあかんエー」
周囲に残っていた女学生が、慰めとも注意とも分からない言葉をかけてくれた。
この時以来、僕は恩師とは決して口をきかないようにしよう、と決意したんだよ。
それで、卒業論文のテーマを決める時にも、恩師の指導を受けなくてもよいものにしようと思ったんだ。そうは言っても、国文学科だから文学に全く関係のないものは許されなかった。
日ごろの講義の中で、恩師は、仏教については知識もなく、興味も無いことが分かっていた。僕はそこに目をつけたよ。
《仏教文学》これを僕の卒論のテーマにしたんだ。そのおかげで、卒論認定の最後の口頭試問の時まで、恩師とは、ほとんど話をせずに論文を書くことができたよ。
そして、卒業できることになったね。
卒業式の日がやってきた。僕は、高校教諭への就職が決まっていた。周囲の学友にはそれを話していて、学友から恩師の耳にも入っていたようだったね。
式も終わり、いよいよ、中庭でお別れのあいさつをする時、いくらなんでも、最後くらいは恩師にお礼を言わなければならないだろうと思って近づいたよ。すると、恩師の方から、
「大和田、嘘は教えるなよ。生徒は君を信頼して授業を受けているんだから、嘘だけは教えるんじゃないぞ」
と柔和な表情になって言ったんだ。僕は少し頭にカチンときたけれど、
「ハイッ、わかりました。一生懸命勉強して本当のことを教えます」
と言って頭を下げたよ。
これが恩師との最後の会話になってしまったね。
10年ほどして恩師の逝去(せいきょ)の知らせを受けたよ。
恩師が亡くなったのだから、長く持ち続けていた、僕の中の恩師に対するシコリも消えると思ったねえ。
そして今だ。
今、机の上に、学生時代に使った分厚い狭衣物語の本を置いているよ。ずいぶん年月が経ち、表紙もいたるところ、すり切れているねえ。
間違いなく、2年間にわたって全編の詳しい講義を恩師より受けたはずだ。ところがなんと、内容をまったく思い出せないんだ。狭衣物語のことを考えると、本当に頭の中が真っ白になってしまうんだ。
せめて、君に、冒頭部分だけでも紹介しようと思ったけれど、今、表紙をめくる気にもなれない。
恩師に対する嫌悪感、憎悪感は、今も僕の心の底に残っていたんだなあ、と今更ながら気がついたよ。
やれやれ、これで、狭衣物語について終わりにするよ。
さて、ここでやっと、勅撰和歌集が出てくるね。前作の、3番目の『拾遺(しゅうい)和歌集』から90年弱が経っているから、華やかな仮名の散文学に押され気味だったことは確かだね。その作品名は、
『後拾遺和歌集』これだ。時代は白河天皇の時だ。撰者は、
《藤原道俊(みちとし)》さん。この人だ。
内容的には、これまでの、古今集、後撰集、拾遺集という三代集の持っている、知性的で技巧的な傾向を持ったものから、叙情的なものへと変革をしているね。
そのひとつの表れとして、和泉式部さんの歌が、約60首も取り入れられているよ。女性歌人の歌を多く取り入れることによって、叙情性が強まるんだね。
また、もう一つの特徴は、自然描写にそれまでにない、清新なとらえ方をする歌が出てきていることだね。
ただ、やはり、和歌集はあまり人気が出なかったようで、次の、5つ目の勅撰和歌集が出たのは、この後拾遺集の完成から、また、40年ほどもたってからのことだねぇ。
さてと、これで、
平安時代【第3の100年】は終了だ。
次は、平安時代【最後の100年】になるよ。
【最後の100年】は平安貴族社会も終わりに近づき、保元の乱などを通じて、武士が政治に大きく台頭してくる時期になってくるね。
文学的にはそれほど、注目すべき作品もあまりないので、早めにやって、平安時代を終わらそうかね。