AⅡ中古(平安時代)(2)【始めの100年】
さてと、梅雨に入ってしまったね。
梅雨になると現役時代を思い出す。うっとうしい空模様の下、蒸し蒸しと不快な中で、期末試験をやったものだね。
でも、試験期間が終わったとたんに、梅雨も終わり、スカッとした夏の日差しに照らされて、身も心も生命力を増すように感じたものだった。
平安時代の始めの100年は、漢詩文が流行した時代だ。その理由は簡単で、天皇中心に男性たちが、いい格好をしたわけだね。
天皇のお供で旅をしたり、宴会をしたりなどしたときに、漢詩を作るのが当時の習わしとなっていた。
ちょうど、中国語の漢文を日本語に直接変換するソフトである訓読方法も、ほぼ確立されたこともあって、おおいに漢詩文がもてはやされた。
漢詩の作成は宮廷における、男性の教養であるとともに、国家公務員採用試験の科目にもなっていたよ。
だから、将来の出世を目指す若者たちは、必死になって作詩の勉強をしたのだよ。
このころは、年中行事の折々の場で、多くの詩を作って朝廷に献上されていたりもしたね。
まあ、王朝貴族社会の中で、漢詩文は単に文学というだけではなく、日常の中に溶け込んでいた生活の一部だったんだね。
そんな中で完成された作品が、
『凌雲集(りょううんしゅう)』これだ。
「凌雲」というのは、雲よりも高く優れているという意味だね。この凌雲集は、嵯峨(さが)天皇の命令によって制作されたものだよ。
わが国、初の勅選漢詩集なんだよ。
あの上代の、日本最古の漢詩集である懐風藻(かいふうそう)から約60年後にできあがったものだね。
ひょっとして君の教科書には「凌雲新集」と「新」の字が付け加わっているかもしれないけれど、より正確に表記したもので、両方とも同じ作品のことだよ。
このわずか4年後には、同じく嵯峨(さが)天皇の勅命により、同じく漢詩集である、
『文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)』が完成しているね。
文華という言葉は、優れた詩歌という意味で、秀麗という言葉も、すぐれて美しいという意味だね。
このように当時は、漢詩文に、朝廷をあげて取り組んでいたのがわかるね。
だから当然のように、漢詩文の書き方のような書物も出てきたよ。それが、
『文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)』これだ。
作者は、「弘法にも筆の誤り」ということわざがある真言宗開祖の、
《弘法大師》だね。
弘法大師は宗教上の名称で、名前は空海さんというんだよ。
その後、淳和(じゅんな)天皇の時代には、
『経国(けいこく)集』が、勅撰漢詩集として作成されている。
「経国」というのは、国を治める意味だ。「文章は経国の大業」という中国の言葉もあるから、淳和(じゅんな)天皇は、この経国集によって、国をりっぱに治めようとしてたのだろうね。
空海さんは文鏡秘府論で漢詩の書き方を教えるとともに、自らも漢詩を作ったよ。それが、
『性霊(しょうりょう)集』これだ。
この当時、空海さんとともに漢詩文家として活躍した人に、
《菅原道真(すがわらのみちざね)》さんがいるね。
菅原道真さんといえば、かの有名な「学問の神様」として北野天満宮に祭り上げられている人だね。彼の代表作は、
『菅家文草(かんけぶんそう)』これだ。
このころ、日本に漢文学として大きく影響したのは、唐の時代の詩人たちだね。李白(りはく)さん、杜甫(とほ)さん、「白氏文集(はくしもんじゅう)」を書いた白居易(はっきょい)さん、などという非常に有名な詩人の作品が日本に多く入ってきたんだよ。
宮廷人たちのほとんどが、これらの作品を愛読していた。そして、後の日本の文学に大きく影響を与えたね。
ただ、あくまでも元はといえば、外国語だからね。一生懸命になって詩作はしたものの、どうしても、物まねという影が、作品の中から完全には抜け切らなかったのも事実なんだ。
ちょうど今、ヨーロッパやアメリカで英語で俳句を作ることが、ひとつのブームとしてあるよね。確かにさまざまな努力をして英語俳句を作っているけれど、読むと、どうしても切り貼りしたような感じになっているね。
俳句という文学形式は、日本人の心の表現に適した形であって、英語圏の人々にはぴったりとこないんだよね。
これと同じように、当時の公用文字としては漢文が使われたけれど、日本人の心を表現する文学としては、漢文はやはり漢文であって、完全に同化できないものがあったんだね。
そこで日本文学の世界に漢字に代わって大きな役割を果たしたのが、日本人が独自に創り出したかな文字だった。
かな文字は、日本人の心を表現するにはぴったりの形式だった。
やがて、国文学が隆盛してゆき、漢文学を衰退させ、かな文学全盛期になっていくんだね。