AⅠ上代(大和・奈良時代)(3)【古事記・日本書紀・風土記】

ところで、今の日本の文芸関係の出版物で、国が主体になって予算を出して出版した本があるだろうか。
皆無に近いね。
ところが、文芸書籍の始まりは、天皇の命令で、国家予算で、国の事業として行われたんだよ。
この、古事記、日本書紀、風土記、万葉集もすべて国家事業としてやったんだよ。
だから、どうして、これらの文学作品が、作られたのかといえば、国家の意識の高まりが要因になっているんだねえ。
 
日本という国が、神話の時代から、いかに正統で優れた国であるかという、裏付けにする作品なのだね。
いわば、国の存在理由を文字によって明確に表し、後世に残そうとしたのだね。
 
ところで、中古(平安時代)に入っても、国が中心となって文芸書籍を制作しているよ。
よく、勅撰(ちょくせん)集と名前がついているのがあるけれども、これらは全部、天皇の命令によって行われた国の事業なんだね。
それ以外の、文学者が個人で製作した本は、私家(しか)集と言われたんだよ。

話は変わるけどね、現在の日本の出版業界は、不況のどん底なんだよ。黒字の雑誌なんて、ほとんど無いね。特に文芸雑誌は、全部、赤字といってもいいよ。
原因は、簡単で、人々が、本を読まなくなったからだねえ。
そうなった理由の一つは、出版社が、金もうけになる原稿しか本にしなかったことが挙げられるよ。
仕方がないといえば、仕方がないけど、儲(もう)けることしか考えなかったから、優れた文芸作品が世の中から消えていってしまったんだよね。残念なことだよ。

よい本が出版されなくなると、当然、読者の方も本を買わなくなるよね。現在の、書籍を取り巻く状況と言うのは、こんな悪循環の結果だね。
 
それに対して、この上代の時代は、国が総力を挙げて、文芸書を出版したわけだから、内容的に、今、こうして、1300年後の僕たちが、興味深く読める優れたものになっているんだね。
現在の日本の国も、国家事業として優れた文学作品を国の予算で出版したりして、力を入れるなら、もっと活気が出てくるだろうにね。もちろん、どの作品を選ぶのかという、基準は、非常に重要だけれどね。
どちらにしても、いい作品が出版されれば、読者も増え、業界も繁盛するのじゃないの。
まあ、こんなことは、入試を控えた君は、無視してくれればいいけどさあ。
 
いずれにしても、上代の文学は、国家の威信をかけて、天皇が中心となり、優れた文学者によって作品が創られたということだよ。
 
ここで、一つ、クイズでもないけれど、考えてみたいことがあるよ。
それは現在の人間と、1400年前の上代の人間とどちらが、頭は良いのかということなんだ。
結論は、上代の人間の方が頭がよかったと言えそうだね。

人間の頭脳は、1000年という単位くらいでは、全く変わらないね。
その証拠として、万葉仮名のところで言ったように、上代の人は、見事なアイデアで、日本文字を作りだしたよね。
おそらく、現在の日本人の感覚では、できなかっただろうね。
 
そしてなにより、上代の人は、記憶力が抜群なんだよ。その証拠になるのが、
 
『古事記』これだ。命令した天皇は、
 
《天武(てんむ)天皇》この人だ。制作の中心人物は、
 
《稗田阿礼(ひえだのあれ)》さんと、
 
《太安万侶(おおのやすまろ)》さん。これらの人だ。

古事記は、今からちょうど1300年前(712年)、天武天皇が、さまざまに伝えられてきている歴史を、稗田阿礼さんに、
「とにかく、すべて暗記しろ」
と命令をされたんだね。
稗田阿礼さんは、多くの人から歴史の話を聞いて、すべて暗記をしていったねえ。
そして、太安万侶さんが、稗田阿礼さんが記憶したことを、口でべらべらとしゃべっていくのに合わせて書いたんだよ。
 
古事記は上中下巻あって膨大な量だけれど、それを暗記していたのだからすごいねえ。
現在の人では、1人ではとても、これほどの暗記ができるだけのの能力はないよね。
上代の人の方が脳の能力は、はるかに優れておった、というわけだ。
 
古事記の制作を命令した天武天皇は、8年後(720年)、もう一冊、日本の国の宗教的・歴史的な根拠となるような本を作らせたねえ。それは、
 
『日本書紀』これだ。命令されたのはまた、
 
《太安万侶》さん。この人だ。さらにもう一人、
 
《舎人親王(とねりしんのう)》さんだ。

二人とも、本当に頭がいいよ。
日本書紀の「日本」という書名が、日本国の国名の始まりになっているよ。
内容は、人間世界の前の、神の時代から書き起こして、現実の天皇へと結びつけ、その後のさまざまな歴史的な記述がなされているねえ。
読むと、日本国という、国家意識を高めようとしたことが分かるね。
 
古事記と日本書紀を、時々、比較する問題が出たりするけれど、簡単に言えば、古事記の方が文学的、物語的なのに対して、日本書紀は歴史書みたいな感じのするものだよ。
もっとも、同じ上代の作品でみてみると、
 
『万葉集』がいちばん文学的な香りはするけどね。最も文学的でないのは、
 
『風土記(ふどき)』これだ。
 
風土記は、天皇が各地の地理的な状況や作物などを朝廷に報告させたものだよ。
しかし、読むと面白いよ。どこそこの山にのろし台がある、冬になるとあられが降る、などと書いているねえ。
「へえ、当時、のろし台がいたるところの山の頂上にあったんだなあ」
ということが分かったりするねえ。

風土記は、文学的な楽しみは無いけれど、当時の日常的な生活がわかるような気がして楽しいよ。
君も、入試でも終わったら、一度、ゆっくり読んでごらん。上代の人々の生活の中に意外な発見をしたりして、心が温かくなるよ。
ただ、もう、ほとんど残っているものはなくて、
 
『出雲国(いずものくに)風土記』などが有名なくらいだね。
 
さあ、それじゃあ、ここで、古事記、日本書紀、風土記、万葉集という上代の文学に書かれた内容は、どんなものだったのか、みていこう。
 
その内容は、まだ、文字の無いころから、たいへん長い間、語り継がれていた口承(こうしょう)文学が中心だよね。語り伝えられる内容と考えると、だいたい分かってくるような気がするねえ。
まず一つは、
 
《神話》だね。
 
神様の話だ。人間というのは、いつの時代も、宗教心があるんだね。
ただ、日本の神話は、外国のものよりも、国家統一や政治的な目的が意識されたものが多いよ。
要するに、神話を通して、神様の時代から続いている天皇であり、国であるとして権威を持たせたわけだね。
そのために、たくさんの神話が作られているよ。
二つ目は、
 
《伝説》だ。
 
偉大な人物の歴史などが、人の口から耳へと語り継がれていたものなんだ。
これも、おじいちゃん、おばあちゃんなどが、
「こんな偉い人がおった」
なんて言ってね、話をした内容だ。
特徴は、実際に生きていた人物ということだね。
 三つ目は、
 
《説話》だ。
 
伝説が歴史上の実在する人物が多かったのに対して、説話は、神様や動物や植物など、何でも主人公になるよ。
そして内容もまさに、SFものだね。
最近、SF小説やSF映画などと言っているけどさあ、1300年以上も前に、ぼくたちの先祖さんは、日常的にSFを語っていたんだよ。これって、普通に考えても驚きじゃない?
 
現在の話の内容とは、ちょっと違うけれど、誰でも知っている浦島太郎の話なども、この時代の説話の中には入っているんだよ。
昔話と言われるものの、ほとんどがこの上代の説話の中にあるんだ。
四つ目には、
 
《歌謡》だ。
 
歌だよ。これは分かる気がするね。上代の人々は、歌とともに生活していたんだ。
おそらく日常生活の中で、アア、とか、ウー、とか掛け声をかけていたのが、だんだんと言葉になっていって、民謡のようなものができあがったんだろうねえ。

初めは、言葉が最初にあったというよりも、音楽的な要素の強い声の響きが中心だったろうね。そして、後から、言葉がついてきたとも言えるよね。
これが、歌謡の一つの形だね。
歌謡は、多くの人が集まった宴会の席などで歌われたようで、非常に多くの作品が残っているよ。
いつの時代も、流行歌は常に人々の口に歌われ続けていくんだね。
 
歌謡のもう一つの形は、後に日本文学の中心となる和歌だよ。
これは、言ってみれば、言葉を中心にした歌謡だ。
後世の和歌の原型になるような歌が、この時代の書物にはたくさん残っているよ。
和歌については万葉集の項目で少々、詳しく話をするよ。