AⅠ上代(大和・奈良時代)(2)【万葉仮名】

間もなくゴールデンウィークだね。受験生にとってゴールデンウイークという期間は、何か、特別な感覚がするものだ。周囲から、
「受験生なんだから、羽を伸ばして遊ぶのは、おかしい」と言われて、今までとは違った、ゴールデンウイークの過ごし方をしなければならないのか、と少々、不思議に思ったりするかもしれないね。
僕にも五十年近く前の感覚が、よみがえってくるような気がするよ。
 
ところで、日本文字についてよく勘違いしている人がいるようだね。
どういうふうに勘違いしているのかというと、日本文字は、口承文学から記載文学へと長い期間をかけて変化している中で、日本文字が全く何もなかったところから徐々に出来上がっていったと思っているようだ。
ところが、そうではないよね。

当時の日本人が、何もないところから日本文字を作ったのではないね。
外国語として入ってきた漢字を利用して日本文字を作ったんだねえ。
その作り方が、これは現在であれば、ノーベル賞ものといえるほど、驚くべきアイデアに基づいているんだよ。

外国語である中国語の漢字から、本来の持っている意味とは全く関係なしに、日本文字を作ったんだ。
漢字は、君も知っているように、物事の形をもとにして作った象形文字で、それぞれ漢字自体に意味がある表意文字だよね。
ところがなんと、当時の人々は、外国語の漢字の読み方の音を、これまで文字の無い時に発音していた日本語の音と結び付けたんだよ。それも、漢字一字を日本語の一音として利用したんだ。

だから、漢字自体の意味は全く無視して、その読み方の音だけを利用して、日本文字として使うようにしたんだよね。
例えば、次のように漢字が並んでいるとするよ。
 
『宇都久志伎乎米乃佐佐波爾阿良礼布理志毛布留等毛』
 
これだけ漢字が並んでいると、いったい何を書いているのか分からないね。
ところが、これが日本文字に漢字が利用されたとなると、次のように読むことになるねえ。
 
宇都久志伎(うつくしき) 
乎米乃佐佐波爾(おめのささばに)
阿良礼布理(あられふり)
志毛布留等毛(しもふるとも)
 
ということになるね。これは、

『美しい、おめのささば、というところに、あられが降っても、霜が降っても』

ということを書いていることになるね。
日本文字として読めば、分かるように、一つひとつの漢字が表している表意文字としての働きは全く無視されているね。これを、
 
《万葉仮名》と言います。

やがてこの万葉仮名から、一音を書くのに漢字一字では手間がかかるというので、漢字の形をまねて、もっと簡単な文字を作ったんだ。
例えば、「の」と読んだ「乃」から、簡単に書けて画数も少ない「の」を作ったね。さらにもっと簡単にということで、カタカナの「ノ」を作っていったね。
こうして自国の文字を作ったわけだから、上代の人はなんと、天才的に賢こかったことだろうかねえ。

別の面からいえば、なんと、まねをすることが天才的だったことか。感動するしかないねえ。
全世界広しといえども、外国語の本来の意味を全く無視して、音だけを利用して自国の文字にあてはめ、さらにそれを便利に単純化して独自の文字を作り出す、という器用な民族は、日本人以外にないだろう。
これは、やっぱり、現代でいえばノーベル賞だね。
 
この表記を、万葉仮名と後世の国学者が呼んでいるけれど、それじゃ、万葉集にだけ使われているのかというと、そうではなくして、古事記、日本書紀、風土記(ふどき)などにも広く利用されているんだよ。
ただ、万葉集が最も多く、こういう仮名を使っているので、万葉仮名といわれるようになっただけなんだ。
 
ところで、実際に書かれていた文字遣いはどのようなものかといえば、外国語としての漢文、日本語風の漢文、万葉仮名などが混ざり合って使われていたんだ。初めから、明確な規則の下に文字が書かれたわけではないね。
書いているうちに徐々に形が整っていったといえるね。

だからちょうど、現在の日本文字の状況とそっくりだよ。
今の日本文字なんて、算用数字は入る。漢数字は入る。アルファベットは入る。カタカナの外国語はある。外国語そのものも時々ある。和製外国語のようなものもあるだろう。
もし、明治時代の人が今生まれ変わって文章を読んだとしたら、
「一体これは、何語じゃー!」
と目をむいて怒るに違いないね。

現在、日本文字の中に入れる、外国語の書き方などは、新聞社などでは統一しているけれど、一般的には、決まった規則があるわけではないねえ。それぞれが好き勝手に書いているだけだ。だから、
「なんで、こんな分かりにくい書き方をするんじゃーッ!」
と言いたくなるようなものが、たくさん有るねえ。
 
ところで、万葉仮名のように、外国語の表意文字を表音文字に当てはめて自国の文字を作ったのは、世界で日本しかないだろう、と言ったけれど、もう一国あるよ。それは日本文字輸入元の中国だ。ただ、まあ、日本文字のように全部ではなく、ほんの一部だけどね。
ここから書くことは、入試には出ない余談になるので、気楽に読んでちょうだい。

君が、どこかのお寺などに行ったとき、お墓の石や石碑に南無〇〇〇〇と書かれているのを見たことがあるだろう。〇〇〇〇の部分には、仏の名前などが書かれているね。
この『南無』というのは、いったいどういう意味だろうかと考えたことはないかい。『南が無い』なんて、いったい何だろう?

これは、実は、万葉仮名なんだ。
仏教の経典はもともとは、インドで梵語(サンスクリット語)で書かれているねえ。
これを、中国から来た僧侶たちが、自国の中国語に一生懸命になって翻訳をしたんだよ。
その時、例えば、南無妙法蓮華経と翻訳したのは、梵語ではどのような言葉であったのか。
元の梵語の読み方は、「ナムサダルマフンダリキャスートラ」というものだったね。これを翻訳するときに、「サダルマフンダリキャスートラ」は、梵語の意味を取り入れて、「妙法蓮華経」と訳したよ。
問題は「ナム」だね。翻訳者は、この部分を訳すときに、「妙法蓮華経」とは全く違った訳し方をしたんだ。

それは、「ナム」という音をそのまま、自国語の漢字の音の読み方に当てはめたのだよ。その漢字自体の意味は全く無視して、音だけを使ったのだねえ。
だから「ナム」が「南無」と書かれた訳だ。結局、「南」にも「無」という漢字にも、漢字の意味そのものは、全く持たないのだね。
これを音写というんだよ。

もしも「ナム」を「妙法蓮華経」のように翻訳したとしたら、「帰命」ということになるねえ。
どういうことかといえば、「〇〇〇〇の仏に、命を捧げて、信仰に励みます」という決意を表している言葉になるんだ。

ここで、素朴な疑問として、どうして、「帰命」とせずに、意味のない漢字を使って「南無」と翻訳したのか、ということが出てくるねえ。
日本の万葉仮名への単純な変換は理解できるけれど、この「南無」の翻訳は理解しづらいだろうねえ。わざわざ、音写する必要性が感じられないものね。

入試に出るわけではないので、簡単な説明にしておくよ。

答えは、ひとつの題目に、梵語と漢語という二つの言語を一つのものとして表現することによって、時間や場所や言語の限界や差異性を超えて、その表現する教えに、世界性をもたせようとしたものなんだ。
簡単に言えば、この題目の教えは、どこの地域でも、いつの時代でも、どのような言語でも、人々を救うことができるものです、という意義を持たせたのだよ。
 
やれやれ、大切な受験生の時間を、関係ないことで使わせてしまったね。
まあ、頭の体操くらいの気持ちで読んでいてよ。
 
ところで、文学史の暗記の仕方だけれどさあ、あれもこれも暗記するのはやめようね。
基本的には、作品と作者だけでいいよ。
人間の記憶というのは、一つのことを思い出すと、それに関連したことは芋づる式に思い出すようになっているよね。

例えば、ずいぶん昔の幼いころのことを一つ思い出してほしい。そうすると一つの事柄だけを思い出しているのだけれど、それに連なるさまざまなことも記憶としてよみがえってくるだろう。
そういうものなんだよ、記憶と言うのは。
だから文学史も、作品と作者を覚えれば、それに関連することが、頭の中に連なって浮かんで来るような覚え方をすればいいじゃないの。
記憶は、要領なんだよ。
頭が良いか悪いかは、ほとんど、要領が良いか悪いか、と同じことなんだ。
 
本稿では、一般の教科書と違って、何度でも同じ作品や作者名を書くことにするよ。それは、何度も読んでいるうちに、君の頭の中に残るようにするためだから、
「同じことを何度も書くなよ!」
なんて、ブツブツ文句を言わんときや(関西弁)。

まずは、次回は、古事記、日本書紀、風土記(ふどき)の作品名から頭に入れるようにしよう。
くれぐれも、古事記の「記」と日本書紀の「紀」という漢字を間違えないようにね。
それじゃ、次回まで、自分に嫌気を起こさせないように?がんばるんだよ。
 
ああ、そうそう。忘れていたことがあったよ。
おそらく、入試が近づくと、本稿をもう一度、しっかりと覚えるために、読み直すよね。
その時には、本文中の作者、作品のところは消して空白にして、そこに書き込みながら、勉強の仕上げをすると、大変に有効的だよ。

本文中から指定した一部だけを一括して空白にするのは、コンピューターで簡単にできるのではないのかなぁ。
そのために必要な記号なりがあるとしたら、この本文をパソコンに取り込むと同時に、作者と作品のところに、その空白にする指定の記号をつけながら勉強していくと、後が楽だね。
 
まあ、というところで、今回は終わりにしておこう。