オチケン風『日本文学史』近現代Ⅱ【明治・大正】(短歌)〈11〉【自然派】

明治も終わりの40年に近くなると、小説界では、自然主義の隆盛期を迎えたね。
この自然主義の流れは、小説に限らず、詩の世界にも短歌の世界にも、文芸全体に大きな影響を与えたんだよ。

それまで、浪漫派など他の流派に属していた多くの歌人が、明治40年代から大正にかけて、自然主義を基底にした《自然派》と呼ばれる歌人に転向していったんだ。

自然派の歌風は、現実に生きてゆく人生の、厳しさ、悲哀、疲労、無常、あきらめ、慰め、などを飾り気のない表現で、率直に詠うのが、大きな特徴だねえ。
だから、これらの歌を読むと、人生をしみじみと感慨深く感じさせるものが多いよ。

まず最初の人は、酒と旅を愛した歌人、

《若山牧水(わかやまぼくすい)》さん。この人だ。

代表的な歌。

『幾山河(いくやまかわ) 越えさり行かば
 寂しさの 終(は)てなむ国ぞ 今日も旅ゆく』

この歌を読むと、浪漫主義の明星派の歌でもなければ、写生主義のアララギ派の歌でもない、実に自然派の歌であることがよく分かるねえ。
人生の苦悩を背負いながら、自然の中を旅し、心を慰めようとする若山牧水さんの心が、ひしひしと伝わってくるねえ。
もう1首。

『白鳥(しらとり)は かなしいからずや
 空の青 うみのあをにも 染まずただよふ』

この歌は、若山牧水さんの純粋さ、孤高さがよく出ている歌だねぇ。ただ、少々、ナルシズム的なところがあるねえ。だけど、この歌を作ったのが23歳の学生の時であったことを考えれば、むしろ、青春の純潔さを、素朴に表出したと言えるだろうね。
もう1首。

『白玉の 歯にしみとほる 秋の夜の
 酒はしずかに 飲むべかりけり』

とにかく酒が好きだったんだねえ。毎日、1.8リットルの酒を飲み続けていたらしい。それで、肝硬変となり、43歳の若さで亡くなったよ。
9月の暑い時に亡くなったにもかかわらず、体中にアルコールが染み込んでいたため、時間がたっても、腐臭がしなかった、という逸話さえ残っているよ。

若山牧水さんの歌集は、たくさん刊行されているけれど、入試には出題されないから、省略するよ。

若山牧水さんは、当時もそうだけれど、今でも、たいへん人気のある歌人なんだ。
全国各地を旅したので、多くの場所に記念碑や歌碑が建てられているねえ。

また、若山牧水記念館や資料館といったものも建てられているよ。
さらに、出身地の宮崎県では、《若山牧水賞》を創設して、毎年、短歌の分野で優れた業績をあげた人に授与されているねえ。
若山牧水さんは、生前も死後も、多くの人々の心を捉(とら)え続けている人生歌人と言えるだろうねえ。

若山牧水さんとともに、自然主義短歌の興隆に活躍した歌人に、

《前田夕暮(ゆうぐれ)》さん。この人がいたねえ。

前田夕暮さんは、若山牧水さんほど、強烈な感動を与えるような歌ではなく、日常生活を素朴に歌ったものが多いよ。
それでも、大正初期の頃の歌壇を《牧水・夕暮時代》と呼ばれることもあったくらい、実績を残している歌人だねぇ。

次に、初めは明星派の歌人として、浪漫的な歌を作っていたけれど、後に、自然派になった歌人がいるよ。それは、

《窪田空穂(くぼたうつぼ)》さん。この人だ。

窪田空穂さんも、若山牧水さんほど目立った歌人ではなかったけれど、地道な自然主義歌人として作歌活動を続けた人だねえ。
詩歌集に『まひる野』があるよ。
その中の1首。

『鉦(かね)鳴らし 信濃の国を 行きゆかば
 在(あ)りしながらの 母見るらむか』

この歌は、長野県の故郷と母親の面影(おもかげ)を結びつけ、叙情豊かに詠まれているねえ。若山牧水さんとは、ひと味違った歌風になっているねえ。
 
自然主義の短歌への影響は、内容的なものだけにとどまらなかったよ。
表記方法においても、伝統的な1行書きから、3行書きにする歌人が出てきたねえ。その人が、

《土岐哀果(ときあいか)》さん。この人と、

《石川啄木》さん。この人だ。

土岐哀果さんは、斬新(ざんしん)な試みをした歌人だよ。
短歌をローマ字で表記したんだ。
明治43年(1910)に出した歌集の名前が、『NAKIWARAI』これだ。
その中から1首、書き出しておこう。

『Otome futari,
    Hitori wa nakeri, Namida shite,
Hitori wa emeri,hata Namida shite.』

このように土岐哀果さんは、短歌をローマ字表記にして、横書き、三行書きにしたんだねえ。この歌集は、全編がローマ字で書かれていて、横書きの書籍として、左開きの本になっているよ。
実に、伝統の和歌に、想像を超える変革を与えたわけだ。

ただ、土岐哀果さんの変革は、あまりにも急進的で、一般の人の受け入れるところとはならなかったね。

それ対して、石川啄木さんは、ローマ字表記や横書きにはせずに、3行書のみを取り入れた。
この表記は、当時の人々には、新体詩のイメージにも通じて、違和感なく受け入れられたねえ。

石川啄木さんは、不遇の歌人だ。
明治19年(1886 )岩手県盛岡市日戸村で、寺の住職の長男として生まれている。

2年後、父親が渋民(しぶたみ)村の寺に転任になったため、一家で転居しているねえ。
渋谷村は、石川啄木さんの故郷の象徴のようになっているよ。

『かにかくに渋谷村は恋しかり
おもいでの山
おもいでの川』
(『一握の砂』)

《かにかくに》というのは、《とにかく》という意味だね。
渋民小学校、盛岡中学と進学したよ。勉強が、非常によくできて、神童(しんどう)とまでいわれていた。神童というのは、万能の神の子ではないかと思えるくらい賢い子のことだ。

中学在学中からすでに文才を発揮して、作品が雑誌などに掲載され、その才能は、全校に知れ渡っていたねえ。将来は、天才文学者になるだろうと思われていたよ。

だけど、生活は大変、窮乏(きゅうぼう)していた。後には、住職である父親が、寺のお金を不正使用して、寺を追い出されもした。
結局、石川啄木さんは、盛岡中学を貧困のために中退してしまったんだ。

『盛岡の中學校の
バルコンの
欄干(てすり)に最一度(もいちど)
われを倚(よ)らしめ』
(『一握の砂』)

これからが、石川啄木さんの苦悩の人生の始まりとなるわけだ。
この後、文学と新しい仕事を求めて上京するんだよ。16歳の時だ。
そして、『明星』の与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪ねたりもしている。
だけど、文学も就職もうまくいかなかったねえ。その上、結核を発病して、翌年には、故郷に戻ったよ。

やがて、盛岡中学で知り合っていた、堀合節子さんと結婚するんだねえ。
そして、父母、妹と一緒に結婚生活をすることになった。やがて、長女も生まれたねえ。
若い石川啄木さんは、実質的に、一家の生活を支えていかなければならなくなった。

このころ徴兵検査があったよ。石川啄木さんは、虚弱体質で、不合格だ。兵役免除ということになった。
それで、一家の生活のために、渋民小学校の代用教員として働くことになったねえ。
それも1年ほどで、職員間のいざこざが原因で、辞めてしまったよ。

何としても生活を立て直したい、という気持ちから、妻子眷属(けんぞく)を残して、独りで北海道へ行ったよ。新天地で、心機一転して仕事をしようと決意したわけだ。21歳の時だ。
函館、札幌、小樽、釧路と北海の地を転々としながら、種々の仕事をするが、うまくいかなかったねえ。

『はたらけど はたらけど
猶(なお)わがくらし楽にならざり
じっと手をみる 』
(『一握の砂』)

結局、文学への志も捨てきれずに、また、東京へ戻って来たねえ。体は、北海道での厳しい生活のために、よほど悪くなっていたよ。
再びの東京での仕事も満足のできる収入にはならなかったよ。

ただ、病気と生活苦の中から、絞り出すようにして作られる短歌は、『明星』に発表されたけれど、単なる浪漫主義の域を超えて、生活を直視する自然派の作品となっていったねえ。
それを集めて、明治43年(1910)に発刊した歌集が、

『一握(いちあく)の砂』これだ。

翌々年の4月13日には、病苦と貧困と挫折にさいなまれた26歳の生涯を終えることになったねえ。
死後、薄命と薄幸の歌人を悼(いた)んで、友人だったは若山牧水さんと土岐哀果さんが、刊行した歌集が、

『悲しき玩具(がんぐ)』これだ。

石川啄木さんは一時期、経済苦をなんとか打開しようとして、小説も書いているんだよ。
当時、短歌や詩を作って、生活費を稼ぐことは、ほとんど不可能だったねえ。仕事としての歌人、詩人で生活できる人は、文学結社の主宰者として、機関誌の売り上げや会費などで一定の収入がある、ほんのわずかの人だけだったんだよ。

いくら人気がある歌人、詩人が出版した詩歌集であったとしても、その販売によって、生活費が稼げるほどは売れなかったのだよ。
前に引用した、萩原作太郎さんの『再販の序』に、次のようにあったねえ。

『当時の文壇において「詩」は文芸の仲間に入れられなかつた。稿料を払つて詩を掲載するような雑誌はどこにもなかつた。
当時の詩壇はかやうな薄命の状態にあつた。詩は公衆から顧(かえり)みられず、文壇は詩を犬小舎の隅に廃棄してしまつた』

これは、大なり小なり、短歌についても同じようなことが言える内容なんだよ。
文学の主流は、小説だったわけだ。小説原稿であれば、高い原稿料を払って掲載してくれる雑誌は多かった。また、単行本として発刊しても、詩歌集とは比べものにならないほど、多くの部数が売れたんだねえ。

文学を仕事として生きるのであれば、小説家になることが必要だったわけだ。
前例として、島崎藤村さんが、挙げられるねえ。島崎藤村さんが、浪漫主義の詩人から自然主義の小説家へと転身した理由も、経済的なことが大きかったんだよ。

それで、石川啄木さんも、『雲は天才である』など、何編かの小説を書き、雑誌に掲載されたねえ。しかし、反響はほとんどなかった。
石川啄木さんの研究者の中には、彼の小説はもっと高く評価されるべきである、という人が多いねえ。

だけど僕は、石川啄木さんは、やはり、歌人であって小説家ではなかったと思うよ。どの小説を読んでも、面白くないねえ。小説家としての才能が感じられないよ。
石川啄木さんは、小説には向いていないよ。

石川啄木さん自身が、次のような歌を作っているねえ。

『くだらない小説を書きて
よろこべる 男あわれなり
初秋(はつあき)の風』

《男》とは、石川啄木さん自身のことを自虐的に表現したものだねえ。
結果的に、小説家としては、全く有名にならずに、従って、困窮(こんきゅう)の生活が続く中、歌人としても道半ばにして、無念の生涯を26歳で閉じたわけだねえ。

話は、現在のことになるけどさあ。
今も詩歌を職業にして生活をしてゆくというのは至難の業だよ。
前出の友人、田中健太郎さんも、当然、詩とは関係のない職業を持ちながら創作を続けている詩人だよ。

俳句や短歌や詩で生活費を稼いでいるという人は、全国でも指折り数えるほどしかいないよ。それもたいていは、種々の講座の講師料や同人の会費などでまかなっているよ。

詩歌の世界でトップクラスの人が、詩歌集を出版したとしても、販売数は知れたものなんだよ。ベストセラーの小説などとは、比較のしようがないほどわずかだ。

25年ほど前に、高校の教諭だった俵万智(たわらまち)さんが、『サラダ記念日』という歌集を出版したねえ。出版社は、歌集が売れないのはよく分かっているから、初版の発行部数は3000冊だった。
ところが、280万部の大ベストセラーになったねえ。

これは、奇跡中の奇跡だよ。
出版社は、詩歌集を発刊する時は、赤字を覚悟で、ほとんど社会奉仕のようなつもりで出版しているんだよ。
だから、小説などと違って、詩歌集は極端に出版される数が少ないだろう。

僕の大先輩に、現代詩人として、かなり有名な方がいるよ。その人は、H氏賞の選考委員も務めたことのある方だ。H氏賞というのは、詩壇の芥川賞、とも呼ばれている権威のある文学賞だね。

もう、ずいぶん前に、僕達、関西在住の文学仲間で、この人を呼んで、講演会を開いたことがあったんだ。
登壇する直前まで、講演原稿を何度も何度もチェックしていた姿を今でもよく覚えているよ。
本当に誠実で、来場者に満足して帰ってもらいたいという気持ちが、言葉からも体からもにじみ出ていたねえ。

講演会は大成功で終えることができたよ。
その後、ホテルで食事を一緒にしたんだ。
僕は失礼とは思ったけれど、率直にお金のことを尋ねてみたよ。

詩集は多く出版しているけれど、販売数は少なく、印税はわずかなもので、とてもそれだけでは生活できない。
今は、2社の週刊誌に、随筆の連載を持っていて、そちらで、なんとか生活ができている状態だ。

こんな返事を微笑みながらしていただいたよ。
もし、君が将来、詩人や歌人になろうと思っているなら、参考にしてね。

さてと、これで、短歌の革新については終わることにするよ。