オチケン風『日本文学史』近現代Ⅱ【明治】(短歌)〈9〉【あさ香社】


《あさ香社》は、《浅香社》とも表記するよ。この名称は、落合直文さんが、《あさか町》という地名のところに住んでいたので、付けただけの話だから、気にしないでね。

落合直文さんは、『孝女白菊(こうじょしらぎく)の歌』を発表して、新体詩の素晴らしさを多くの人に認めさせた人だったねえ。そして、短歌の分野でも活躍をしたわけだ。

実質的に、短歌革新の先駆を切ったのは、この落合直文さんなんだよ。落合直文さんは、ただ、旧派の歌を口で批判するだけではなくて、具体的に新しい短歌を作ろうとして、明治26年(1893)にあさ香社を結社したんだ。

それじゃ、落合直文さんの歌を2首、見てみよう。

『をさな子の 死出の旅路や さむからむ
こころしてふれ 今朝の白雪』

『我が歌を 哀れと思う 人ひとり 
見出(みい)でて後に 死なむとぞ思ふ』

これらの歌を読むと、旧派とは明らかに趣を異にしているけれど、伝統的な和歌の感覚も残しているよねえ。
だから、落合直文さんの歌風を、《折衷派》などと呼ばれることもあるよ。

落合直文さんは、自身の創作活動での活躍は、もちろんあったけれど、それ以上に、短歌革新運動の指導者として、多くの歌人を育てたことは、大きな功績だねえ。

あさ香社に集まった歌人には、次のような人がいるねえ。

《与謝野鉄幹(よさのてっかん)》さん。

《金子勲園(かねこくんえん)》さん。

《尾上柴舟(おのえさいしゅう)》さん。

これらの歌人たちだ。いずれの人も、それぞれの個性に基づいて才能を発揮して、新しい、自由な歌材と表現方法で、近代短歌の扉を開いたねえ。

その中でも特に、与謝野鉄幹さんの活躍は目覚ましいものだったよ。
与謝野鉄幹さんは、京都府出身だ。お父さんも歌人で、若いころから短歌の鑑賞や歌作には親しんでいたわけだ。
だけど、本格的に文学活動を始めたのは、上京して、落合直文さんの門下に入ってからなんだねえ。

代表的な詩歌集は、明治29年(1896)に刊行された、

『東西南北』これだ。さらに、明治30年(1897)刊行された、

『天地玄黄(てんちげんこう)』これもだ。
 
『東西南北』『天地玄黄』ともに、男性的で勇ましい歌が多いねえ。例えば、

『韓(から)にして いかでか死なむ
 あだに死なば 家の宝の 太刀ぞ泣くべき』

『駒(こま)ながら 笛ふく人や 
 誰ならむ おぼろ月夜の 梅の下道』

こんなもんだねぇ。勢いがいいので、《虎の鉄幹・虎剣(こけん)調》などと言われたねえ。
当時の戦争の機運に乗って、特に男性の青年層に人気が広がっていったよ。

その後、与謝野鉄幹さんは、あさ香社から、のれん分けして、詩歌結社《新詩社》を設立したんだよ。今で言えば、本社から支社を出したようなものだね。
翌年、明治33年(1900)、新詩社の機関誌として、かの有名な、

『明星』これを刊行したんだ。

明星のことは、詩の項目でも話をしたよねえ。
この頃、与謝野鉄幹さんは、与謝野晶子(あきこ)さんと知り合ったんだ。そして、与謝野晶子さんは、大阪の家や故郷を捨てて、東京の与謝野鉄幹さんのもとへ走ったんだ。

当時は、結婚相手は両方の親が決めるのが当たり前のことだった訳だから、与謝野晶子さんは、恋のために社会の掟を破った形になった訳だねえ。

その後、与謝野鉄幹さん、晶子さんは夫婦で、明星を興隆させ、浪漫主義詩歌の黄金時代を築いたんだよ。

与謝野鉄幹さんの歌風は、結婚を機に徐々に変わっていったね。それは、明治43年(1910)発刊した歌集、

『相聞(あいぎこえ・そうもん)』にいたって、結実したねえ。

勇壮な虎剣調から《星菫(せいきん)調》といわれる歌風に変わっていったよ。
星菫調というのは、《星や菫(すみれ)に心情を託して、甘い感傷に浸る浪漫主義》というくらいの意味だねえ。

与謝野鉄幹さんも活躍したけれど、それ以上にもっと重要な活躍をしたのは、与謝野晶子さんだったんだよ。
与謝野晶子さんは、社会のしきたりを破って、与謝野鉄幹さんと結婚するという、自らの行動で示したように、女性の解放を短歌で歌い上げたわけだねえ。

最初の歌集は、明治34年(1901)に刊行された、

『みだれ髪』これだ。

『みだれ髪』は、世の中の人に、大変な衝撃を与えたよ。それと共に、新しい歌風、《明星調》といわれる短歌の1大ブームを引き起こすきっかけになったねえ。
それじゃ、『みだれ髪』から、超有名な歌を3首、紹介しておくよ。


『やは肌の あつき血潮に 触れも見で
 さびしからずや 道を説く君』

『その子二十歳(はたち) 櫛(くし)にながるる黒髪の
 おごりの春の うつくしきかな』

『なにとなく 君に待るる ここちして 
 出(い)でし花野の 夕月夜かな』

こんなところだねえ。
与謝野晶子さんは、古い体質の社会が抑圧している女性の人権を、恋愛への情熱と官能を自由に表現することによって、開放しようとしたんだねえ。
それは、社会に対する、挑発的な挑戦であったわけだよ。

『みだれ髪』は、当時の女性に、圧倒的な支持と人気を得ることになったよ。逆に言えば、それほど日常的に、女性の基本的人権が抑圧されていたわけだ。

与謝野晶子さんは、当時の人たちに限らず、この頃でも、最初の歌などは、テレビCMに出ているくらい、今も人気のある歌人なんだよ。

与謝野晶子さんは、『みだれ髪』以降も多くの歌集を出したねえ。その中で、明治38年(1905)に発刊した作品が、

『恋衣(こいごろも)』これだ。

『恋衣』は共著で、与謝野晶子さんは、詩と短歌の両方を載せているねえ。その中で、特に有名になった長詩があるよ。それを1部、紹介しておこう。

『君死にたまふこと勿(なか)れ』
 旅順口(りょじゅんこう)包囲軍の
 中に在る弟を歎(なげ)きて
     与謝野晶子

『あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。

君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戦ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獣の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されむ。』

この詩は、日露戦争で旅順口に出兵している弟さんへの思いを表現したものだよ。同時に、勇気ある反戦詩にもなっているね。
天皇に対する無礼な表現が見えるとして、1部の人の批判も浴びたけれど、弟を思う姉の心情は、多くの人々に感動を与えたねえ。
 
やがて、多くの歌人、詩人たちが、与謝野晶子さんにも引かれ、『明星』のもとに集まるようになったねえ。それで、『明星』を中心に活躍する歌人を《明星派》と呼ぶようになったんだ。

明星派の中には、高村光太郎、窪田空穂(くぼたうつほ)、吉井勇(いさむ)、石川啄木、木下杢太郎(もくたろう)、北原白秋さんたちが出てきて、歌壇の1大勢力となって、浪漫主義短歌の全盛時代を築いたね。

ところで、与謝野晶子さんの出身地の大阪府堺市には、駅前に銅像が建っていたり、生家跡には、歌碑も建立されているよ。
また、毎年、誕生日などには、様々な団体が行事を行っているねえ。
与謝野晶子さんは、現在も、多くの人々の心の中に生きている歌人なんだね。

やがて、浪漫的な明星派の流れは、同人であった北原白秋さんや吉井勇さんに引き継がれていったねえ。
明治の終わりから大正にかけて、北原白秋さんや吉井勇さんなどが中心になって起こした歌風が、

《耽美派》これだ。

『近現代文学編Ⅰ』で話をしたけれど、森鴎外さんが中心となって発刊した、文芸雑誌《スバル》を発表の場として、活躍をしたねえ。
北原白秋さんの代表的歌集は、大正2年(1913 )に発刊した、

『桐の花』これだ。

『桐の花』の中から、よく教科書にも載る2首を紹介しておこう。

『春の鳥 な鳴きそ鳴きそ あかあかと 
 外(と)の面(も)の草に 日の入る夕』

『ゆく水に 赤き日のさし 水ぐるま
 春の川瀬(かわせ)に やまずめぐるも』

こんなところだねえ。
最初の歌は、『桐の花』の序文の後に出てくる最初の短歌だよ。北原白秋さん自身の思い入れも強いものがあるだろうねえ。
《な~そ》は、禁止を表す語法だったねえ。「悲しくなるから、もう、鳴かないないでおくれ」というのだ。

この2首の歌を読んでも分かると思うけれど、たいへん、色彩感覚豊かな、絵画的、叙情的な歌だねえ。まるで、西欧の印象派の絵画を見ているような気持ちにさせてくれるねえ。
この歌風は、『桐の花』の全体に通じることだよ。どの歌にも、色彩を意識した歌材が、読み込まれているよ。

文語自由詩で活躍し、異国情緒漂う詩集『邪宗門』を発表した北原白秋さんらしさが、短歌の世界でも、見事に発揮されているということだね。
 
もう1人の、耽美派の吉井勇さんは、明治43年(1910 )に歌集、

『酒ほがひ』を発刊しているねえ。

『酒ほがひ』は、京都の祇園を、少々、退廃的に歌っているけれど、分かりやすく、共感を呼ぶものが多いねえ。
その中から1首。

『恋ざめの 男よあはれ 秋風に
 吹かれて今日も 何処(いずこ)さまよう』

こんなところだねえ。

ところで、同じ《あさ香社》の出身であった金子勲園さんと尾上柴舟さんは、明星派には批判的な立場で活躍をしたんだよ。

明星派が、華やかで浪漫的なのに対して、金子勲園さん、尾上柴舟さんは、叙景を重んじ、優れた自然描写の歌を残しているねえ。
また、尾上柴舟さんの門下からは、有名な歌人、若山牧水さんが育ったことは、特筆されるべきだろうねえ。

さあ、これで、《あさ香社》関連の事項については終わりにしておくよ。

続いて、短歌革新の一翼を担った、

《竹柏(ちくはく)会》について簡単に見ておこう。

竹柏というのは、葉が竹の葉に似ている常緑喬木の名前だよ。木の名前をとって、短歌結社に付けたんだね。
竹柏会は、

《佐々木信綱(のぶつな)》さんを中心に結成されたよ

明治31年(1898)には、機関誌『心の花(華)』を発刊して、短歌革新運動に参加したねえ。有名な1首だけを取り上げておくよ。

『ゆく秋の 大和の国の 薬師寺の
 塔の上なる一ひらの雲』

この歌を見ると、佐々木信綱さんは、国文学者であるだけに、古典にも造詣(ぞうけい)が深く、それが歌風にもにじみ出ているのがよく分かるね。
清新で、澄み切った歌だ。

竹柏会の活動は、あさ香社や明星派のように、華々しく人気を博するようなものではなかった。だけど、短歌革新の一翼を担ったことは確かだね。

なにより、非常に、息の長い活動を続けているんだよ。
発足から100年以上たった現在も、竹柏会は続いているよ。その機関誌の『心の花』も継続発刊されているねえ。今も、誰でも申し込めば読むことができるよ。
息の長い文芸活動には、頭が下がるような思いだよ。