オチケン風『日本文学史』近現代Ⅱ【大正】(詩)〈7〉【口語自由詩】
さあ、それじゃあ、いよいよ、現代詩への流れとなる口語自由詩を見ていくことにしよう。
口語自由詩の形式は、前述の川路柳虹さんが先駆的な役割を果たしたね。ただ、あまりにも先取(せんしゅ)的過ぎて、世の中の人々に受け入れられるところとはならなかったねえ。
だけど、大正期に入ると、口語自由詩は、文語自由詩に取って代わって、詩壇の主流になっていくんだよ。
その中心となった詩人が、
『高村光太郎(たかむらこうたろう)』さん。この人だ。
高村光太郎さんは、君も知っているように、彫刻家だ。だから本業は彫刻で、詩の創作は趣味だったわけだ。だから、作品の量はそれほど多くはないよ。
でも、口語自由詩を川路柳虹さんのような試作の段階から、文学的に完成度の高いものにまで発展させたねえ。
高村光太郎さんは、武者小路実篤さんや志賀直哉さんが中心になって創刊した文芸雑誌『白樺』に影響を受けながら、詩風を確立していったんだ。
だから、人道主義的であり、理想主義的な詩風だね。
代表的な詩集は、大正3年(1914)発刊の、
『道程』これだ。
『道程』は、多くの人々に愛読されて、当時の代表的な詩集になったよ。
その中から、詩集の題名にもなった、最も有名な詩を紹介しておくよ。
『道程』
高村光太郎
『僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄(きはく)を僕に充(み)たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため』
たいへん、読みやすくて感動的な詩だねぇ。
この詩は、多くの人に親しまれて、国民的な人気を博したねえ。
高村光太郎さんは、『道程』発刊後も、優れた詩を発表しているねえ。
よく、教科書にも載る『ぼろぼろな駝鳥』という社会批評的な詩も書いているね。
さらに、高村光太郎さんの人気を決定的に高めたのは、昭和16年(1941 )に発刊された詩集、
『智恵子抄』これだね。
『智恵子』というのは、高村光太郎さんの奥さんのことだよ。高村光太郎さんは、奥さんのことを、次のように書いているよ。
《妻智恵子が南品川ゼームス坂病院の十五号室で精神分裂症患者として粟粒(ぞくりゅう)性肺結核で死んでから旬日(じゅんじつ)で満二年になる。
私はこの世で智恵子にめぐりあつたため、彼女の純愛によつて清浄にされ、以前の廃頽(たいはい)生活から救ひ出される事が出来た経歴を持つて居り、私の精神は一にかかつて彼女の存在そのものの上にあつた》(『智恵子の半生』より)
精神分裂症という病名は、語弊(ごへい)があるので使用を避けようということになっているけれど、ここでは原文のまま引用したよ。
これでも分かるように、知恵子さんは、高村光太郎さんが精神的にズタズタになっているときに結婚して、彼を立ち直らせたんだねえ。
しかし、やがて、精神疾患にかかってしまった。
それで今度は、高村光太郎さんが、病気の知恵子さんを亡くなるまで深い愛情で看病するんだね。
『智恵子抄』は、2人の結婚、智恵子さんの発病、看病、智恵子さんの死、残された高村光太郎の思い、が感動的に書かれているね。
『智恵子抄』は、君にもぜひとも読んでほしい詩集だね。
ここでは、3編、書き出しておくよ。
『あどけない話』
高村光太郎
『智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。』
『風にのる智恵子』
高村光太郎
『狂つた智恵子は口をきかない
ただ尾長(おなが)や千鳥と相図(あいず)する
防風林の丘つづき
いちめんの松の花粉は黄いろく流れ
五月晴(さつきばれ)の風に九十九里の浜はけむる
智恵子の浴衣(ゆかた)が松にかくれ又あらはれ
白い砂には松露(しょうろ)がある
わたしは松露をひろひながら
ゆつくり智恵子のあとをおふ
尾長や千鳥が智恵子の友だち
もう人間であることをやめた智恵子に
恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場
智恵子飛ぶ』
(松露というのは、キノコのことだよ)
『値ひがたき智恵子』
高村光太郎
『智恵子は見えないものを見、
聞えないものを聞く。
智恵子は行けないところへ行き、
出来ないことを為(す)る。
智恵子は現身(うつしみ)のわたしを見ず、
わたしのうしろのわたしに焦(こ)がれる。
智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。
わたしをよぶ声をしきりにきくが、
智恵子はもう人間界の切符を持たない。』
こんなところだねえ。
『智恵子抄』は、始めから終わりまで読むと、感動的な物語りなるねえ。それで、何度か、映画化もされているよ。
僕の母も精神疾患だったよ。僕は3人兄弟だけれど、母は僕といちばん気が合ったので、結局、僕が母の世話をすることになった。
長年にわたり、入退院を繰り返さなければならない母の面倒を見ることは、大変な負担と苦痛だったねえ。
決して、きれいごとではないよ。あまりの苦しさに、
「この母を殺して、俺も死ぬ」
と思ったことは、数え切れないほどあったよ。いつまで続くか分からない地獄のような日々だったねえ。
精神疾患の家族を看病しなければならない人の苦しみが、いやというほど分かったねえ。
その上、僕自身も、高校1年の夏休みから精神の不調を来たしていたんだよ。
甲状腺亢進症(こうじょうせんこうしんしょう)をともなって、本当に、身も心もボロボロになったねえ。
青春の真っ只中の時に、運動は一切禁止されたよ。高1の2学期から卒業するまで、体育の実技はすべて見学だ。
友達が、グランドを生き生きと気持ちよさそうに走る姿、プールで勢いよく泳ぐ姿、僕は顔をそむけて、網膜に映らないようにしたよ。
病状は、大学に進学してからは、ますます、ひどくなっていったねえ。もちろん、一般教養で必須の体育実技は、レポートで単位をもらった。
毎日、飲む薬の量は、食欲がなくなるほど多かったねえ。そして、1日飲まなければ、夜は全く眠れなくなった。2、3日、飲まないと、発狂と死への恐怖が、すさまじい勢いで頭の中を渦巻いたねえ。
僕は、精神疾患の患者自身の苦しみも、看病する家族の苦しみも、両方とも身にしみて感じているよ。
だから、『智恵子抄』を読むと、高村光太郎さんの、愛情深い人間性を保つことのできる精神力の強さに感服するんだよ。
何より、こんな厳しい現実を、こんな美しい文学に昇華(しょうか)させた崇高な信念には、頭が下がるねえ。
まさに、人道主義、理想主義の真骨頂(しんこっちょう)を見るような気がするねえ。
高村光太郎さん以外に、人道主義的、理想主義的な詩風を見せた詩人は、
《山村暮鳥(やまむらぼちょう)》さん。この人だ。
さらに本書の前座で登場させた、
《室生犀星(むろうさいせい)》さんがいるねえ。代表作は、
『抒情(じょじょう)小曲集』これだ。
『抒情小曲集』は、大正7年(1918)に刊行されているよ。
室生犀星さんは、小説家としても活躍しているね。『幼年時代』『性に眼覚めるころ』『あにいもうと』『杏(あんず)っ子』など、創作意欲のおう盛な方だねえ。
山村暮鳥さん、室生犀星さん共に、暖かい人間性にあふれた作品を発表して、多くの人々の共感を得たねえ。
大正時代といえば、大正デモクラシーだ。
民主主義、自由主義を求める風潮は、政治、社会、文化など多くの方面に浸透していったねえ。
当然ながら、詩の分野にも、デモクラシーの流れは、少なからず影響を及ぼしたよ。
その中で出てきたのが、
《民衆詩派》と呼ばれる詩人たちだねえ。
象徴詩が、ヨーロッパのボードレールさんやヴェルレーヌさんなどの詩人に影響されて発達したのに対して、民衆詩は、アメリカの民衆詩人、ホイットマンさんに大きく影響を受けて、創作されていったねえ。
代表的な詩人は、
《白鳥省吾(しらとりせいご)》さん。この人だ。
白鳥省吾さんがホイットマンさんの詩を訳した作品を見てみよう。
『開拓者よ!おお開拓者よ!』
ワォルト・ホイットマン
『来れ吾が日に焦(や)けた顔の子等よ、
隊伍(たいご)堂々とついて来い、汝の武器を用意せよ、
ピストルを持ったか、鋭い刃のついた斧を持ったか、
開拓者よ!おお開拓者よ!
吾(われ)らはここに躊躇(ちゅうちょ)しては居られない、
吾が愛する人達よ、吾らは進まねばならない、吾らは危険を顧みない。
吾ら少壮の強き民族よ、吾らに他の総てはたよる。
開拓者よ!おお開拓者よ!』
(詩集『草の葉』より)
これは、元気の出てくる詩だねぇ。難解な箇所などなくて、ストレートに詩の心が伝わってくるね。民衆詩は分かりやすい言葉で、日常生活を詠い、現実の人生を詠うんだ。
だから当然、口語自由詩の表現になっていったわけだねえ。
この詩は、たいへん多くの人に口ずさまれたよ。
民衆こそ主体者であり、自由主義の体現者があると考えていた大正デモクラシーの大きな流れに、ホイットマンさんの詩は見事に合致したわけだ。
その影響のもとに、日本でも民衆詩派の詩人といわれる人が出てきたねえ。
白鳥省吾さん以外には、白樺派の、
《千家元麿(せんけもとまろ)》さん。さらに、
《福士幸次郎(ふくしこうじろう)》さん。そして、
《百田宗治(ももたそうじ)》さんなどが出てきたねえ。
これらの詩人が、分かりやすくて明るい作品を多く、世の中に送り出してくれたね。
ただ、世の常として、何度か言っているけれどさあ、大衆的な文学というのは、文学的価値が低いと見られがちなんだよねぇ。だから、これらの詩が教科書に取り上げられることはないねえ。
おかしな話だ。
同じ時期に、大衆派路線をとった民衆派詩人とは全く別に、口語自由詩で、独自の芸術的な詩の世界を確立した詩人がいたよ。
その人の名は、
《萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)》さん。この人だ。代表詩集は、
『月に吠(ほ)える』これだ。
『月に吠える』は、大正6年(1917)に出版されているねえ。
詩風はどのようなものなのか。まず何より、『月に吠える』の中から、代表的な2編を書き出してみよう。
『地面の底の病気の顔』
萩原朔太郎
『地面の底に顔があらはれ、
さみしい病人の顔があらはれ。
地面の底のくらやみに、
うらうら草の茎が萌(も)えそめ、
鼠の巣が萌えそめ、
巣にこんがらかつてゐる、
かずしれぬ髪の毛がふるえ出し、
冬至のころの、
さびしい病気の地面から、
ほそい青竹の根が生えそめ、
生えそめ、
それがじつにあはれふかくみえ、
けぶれるごとくに視え、
じつに、じつに、あはれふかげに視え。
地面の底のくらやみに、
さみしい病人の顔があらはれ。』
続いて、もうひとつ、紹介しよう。
『竹』
萩原作太郎
『光る地面に竹が生え、
青竹が生え、
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より繊毛(せんもう)が生え、
かすかにけぶる繊毛が生え、
かすかにふるえ。
かたき地面に竹が生え、
地上にするどく竹が生え、
まつしぐらに竹が生え、
凍れる節節りんりんと、
青空のもとに竹が生え、
竹、竹、竹が生え。』
始めの詩を読んで分かるように、たいへん異常で鋭い感覚を持って、幻想的な世界を表現しているねえ。
次の詩は、言葉に見事に音楽性を持たせているよね。
どちらの詩も、民衆詩派と呼ばれる詩人のものとは、全く別の次元の詩になっているねえ。
『月に吠える』が発表された時、世の中の人々は、大変な衝撃を受けたよ。もちろんすぐに、両手(もろて)を挙げて賛同者が出てきたわけではないねえ。
『月に吠える』が世の中に出てきてから、時が経つとともに、どのように受け入れられたかということについて、萩原朔太郎さん自身が、『月に吠える』再販の序で、次のように書いているよ。
『再販の序』
萩原作太郎
『この詩集の初版は大正6年に出版された。自費の負担で僅かに500部ほど印刷し、内400部ほど市場に出した。
当時の文壇において「詩」は文芸の仲間に入れられなかつた。稿料を払つて詩を掲載するような雑誌はどこにもなかつた。
当時の詩壇はかやうな薄命の状態にあつた。詩は公衆から顧(かえり)みられず、文壇は詩を犬小舎の隅に廃棄してしまつた。
されば私の詩集『月に吠える』は、正に今日の詩壇を予感した最初の黎明(れいめい)であつたにちがひない。およそ、この詩集以前にかうしたスタイルの口語詩は一つもなく、この詩集以前に今日の如き溌剌(はつらつ)たる詩壇の気運は感じられなかつた。
すべての新しき詩のスタイルは、ここから発生されて来た。すべての時代的な叙情詩のリズムは、ここから生まれて来た。即(すなわ)ちこの詩集によつて、正に時代は一つのエポックを作つたのである。』
こんなところだねぇ。この文章は、『再販の序』を僕が適当に削除、変更してまとめているので了解しておいてね。
この文章を読むと、萩原朔太郎さんは、『月に吠える』の世の中に与えた影響について、自分のことだから、ずいぶん、高く評価にしている、と思えるかもしれないねえ。
だけど、実際に、萩原作太郎さんの詩の業績は、詩壇に大きな影響を与えたんだよ。
それは、口語自由詩と、象徴詩を見事に融合させたところに最大の特徴があるねえ。だから、口語自由詩の真の完成者であるとまで評価はされているんだよ。
『月に吠える』に続いて出版された詩集は、大正12年(1923 )に出版された、
『青猫(あおねこ)』これだ。さらに、昭和9年(1934 )には、
『氷島(ひょうとう)』を発刊しているねえ。
『青猫』『氷島』ともに、優れた作品で、後に続く詩人に、本当に、大きな影響与えたよ。
《すべての新しき詩のスタイルは、ここから発生されて来た。すべての時代的な叙情詩のリズムは、ここから生まれて来た》
と書いているのは、決して誇張ではないんだよ。
さあこれで、詩についての記述は終えることにするよ。
続いて、短歌、俳句について見ていこう。