オチケン風『日本文学史』近現代Ⅱ【明治】(詩)〈4〉【浪漫詩】②土井晩翠
昨日の新聞(8月17日付)に、次のような見出しの記事が載っていたねえ。
《富田倫生さん死去「青空文庫」創設》
内容は、「青空文庫」を運営していた富田倫生(とみたみちお)さんが、61歳で、肝癌で亡くなったというものだね。
「青空文庫」というのは、インターネットで検索すればすぐに分かるけれど、著作権保護期間が終わった書物を、ボランティアの協力のもと、電子化して、無料で公開している電子図書館だよ。
日本の著作権は、作者の死後、50年間保護されているんだよ。だから僕のこの書籍も、僕が死んでから50年間、権利として相続されることになるんだねえ。
50年を過ぎると、誰でも自由に無料で使用することができるわけだね。
「青空文庫」は、作者の死後50年以上経った作品を、電子化して、誰でも利用できるようにしているんだね。
紙の書物を、電子化するというのは、大変な労作業だよ。業者に頼めばかなりの金額になるねえ。それを、非常に多くのボランティアの方々が、「青空文庫」の趣旨に賛同して、作業を行っていただいいているわけだね。
僕も、よく利用させてもらっているよ。
僕の作業部屋は、エアコンが故障して暑いうえに、狭いんだよ。書籍を置けるのは、今書いているのに必要な、わずかの数しかダメなんだ。
日本文学全集とか、古典文学大系とか、かさばるものは、ガレージの奥の薄暗いところに大きなスチールの物置をおいて、その中に、無造作に積み上げているんだよ。
僕は、老眼の上に緑内障にもなっている。視野の1部に、まるで、毛筆で太い線を引いたように欠ける部分があるんだ。
見えにくい目で、薄暗い物置の山積された本の中から、該当の本を取り出すのは、大変な苦労なんだよ。
さらに、その本を、遠い記憶をもとに、ページを1枚1枚めくって、必要な箇所を探すのは、うんざりするほどの労力だねぇ。
もしも、「青空文庫」のような電子図書館がなかったとしたら、この《オチケン風『日本文学史』》を書く気になったかどうかは、疑問だねぇ。
僕は本当に、「青空文庫」の関係者の方々に、感謝しているよ。今の時代に、このような人たちがいることを思うと、心が温まるような気がするねえ。
富田倫生さんのご冥福(めいふく)を心より祈っています。
それじゃ、話を戻そう。
島崎藤村さんは、当時の人気詩人として、名実ともに認められる人になったねえ。
もう1人、島崎藤村さんに肩を並べる詩人がいたんだよ。それが、
《土井晩翠(どいばんすい)》さん。この人だ。
名前の読み方だけどさあ。土井を、〝つちい〟というのは、本名の読み方なんだよ。まあ、どちらでもいいけどさぁ。
土井晩翠さんと島崎藤村さんは、当時の詩の世界では、2大流行詩人として、世の中にも認められ、大活躍をしたんだよ。
それで、明治30年(1897)の頃を、《藤晩時代》とさえ言われていたよ。
《藤晩時代》という言葉を聞くと思い出すことがあるねえ。
それは、擬古典主義の小説で活躍した2人の作家の呼び方だねえ。
明治20年代、あまりにも尾崎紅葉さんと幸田露伴さんの活躍が大きかったので、この時代のことを、《紅露(こうろ)時代》と呼んだのだったねぇ。
ところで、紅露時代という言葉は、入試によく出てくるけれど、藤晩時代というのは、全く出てこないので、覚える必要ないよ。
紅露時代の、2人の作家の特徴は、尾崎紅葉さんが女性的、幸田露伴さんが男性的、だったよねぇ。
同じように、藤晩時代の、島崎藤村さんと土井晩翠さんを比較するならば、島崎藤村さんは女性的で、土井晩翠さんは男性的なんだよ。
それではここで、明治32年(1899)に出版された、土井晩翠さんの第一詩集を見てみよう。詩集名は、
『天地有情(てんちうじょう)』これだ。
『天地有情』には民族意識を浪漫的に歌い上げたものが多くてねえ、非常な人気を得ることになったよ。
その中で特に、曲もつけられて人々の口に歌われた、大人気になった詩があるよ。それが次の詩だ。早速、「青空文庫」からのコピーだ。
『星落秋風五丈原』(ほしおつしゅうふうごじょうげん)
土井晩翠
『祁山悲秋の風更けて (きざんひしゅうのかぜふけて)
陣雲暗し五丈原 (じんうんくらしごじょうげん)
零露の文は繁くして (れいろのあやはしげくして)
草枯れ馬は肥ゆれども(くさかれうまはこゆれども)
蜀軍の旗光無く (しょくぐんのはたひかりなく)
鼓角の音も今しづか (こかくのおともいましずか)
* * *
丞相病篤かりき (じょうしょうやまいあつかりき)』
(通釈)
「戦場近くの祁山からは、悲しげな秋の風がさらに強く吹いてくる。
戦場となっているふもとの五丈原には、暗い雲が覆っている。
あたり一面には、秋の露がこぼれ落ち、光っている。
草は枯れ、馬はしっかりと肥えて、戦闘態勢は整っているのに、
蜀の国の軍隊の旗には、輝く威光(いこう)がない。
戦の士気をふるいたたせる、つづみや笛の音も今はしない。
大将である諸葛公明(しょかつこうめい)の病が重いのだ」
まあ、こんなところかなぁ。長い詩で、7章まで続くよ。
漢詩調で、勇壮な上に、悲壮感が漂っているねえ。
今でも、ある程度以上の年齢の人は、歌える人が多いよ。
『天地有情』は、もちろん、こんな勇壮な歌ばかりではないけれど、恋愛を中心に叙情的に詠った島崎藤村さんに対して、叙事詩・歴史詩を力強く綴(つづ)っているものが多かったので、男性的と対比されたわけだね。
『天地有情』が出版される5年前、明治27年(1894)には、日清戦争が始まったねえ。翌年には、大勝利をして、国全体が戦勝ムードに包まれた。
清国からの賠償金も入り、軍備拡張などの経済効果で、景気が飛躍的に良くなった時期だね。
そんな、戦争指向の強い雰囲気の中で、『星落秋風五丈原』は、日本人好みの悲壮感も伴って、一気に人気が上がったんだねえ。
この5年後、明治37年(1904)には日露戦争が起こっているよね。
土井晩翠さんについて、一つ付け加えておくと、君も知っている『荒城の月』の作詞者でもあるんだよ。
さあ、それじゃ、土井晩翠さんについては、このくらいにしておいて、次の詩人に進もう。その人の名前は、
《与謝野鉄幹(よさのてっかん)》さん。この人だ。
与謝野鉄幹さんといえば、浪漫的な歌人として、超有名な人だ。また、歌人としてほど有名にはならなかったけれど、詩人としても活躍した人なんだよ。
詩歌集も刊行しているねえ。
だけど、与謝野鉄幹さんの最大の功績は、多くの浪漫的詩人、歌人を育てたことだね。その創作発表の場となった文芸雑誌が、明治33年(1900)に創刊した、
『明星』これだ。
与謝野鉄幹さんは、妻の与謝野晶子さんと共に、『明星』を中心にして、浪漫的詩歌の人材育成と発展に大きな貢献をなしたねえ。
『明星』は、当時の詩歌の雑誌としては、圧倒的な人気を誇る文芸誌になったよ。
『明星』から出てきた詩人、歌人には、高村光太郎、北原白秋、石川啄木さんなど、後世に残る優れた人々が、たくさんいるよ。これらの人たちのことを、
《明星派》と呼ぶんだよ。
明星派の人たちによって、明治浪漫詩歌の大流行の流れが築きあげられたんだねえ。
だから、浪漫詩を語るとき、『明星』は決して、はずしてはいけない重要な文芸誌なんだよ。
それでは続いて、島崎藤村さんや、土井晩翠さんの活躍の後を受けて、浪漫詩の流れを中心的に推進した詩人を見ていこう。その人の名前は、
《薄田泣菫(すすきだきゅうきん)》さん。この人だ。作品は、
『暮笛集(ぼてきしゅう)』これだ。
『暮笛集』は、薄田泣菫さんが最初に出した詩集で、明治32年(1899 )に刊行しているね。
見開きのページには次のように書いてあるよ。
『われは牧童
夕暮 吹きすさぶ笛の音の
聴く人もなきを
恥 少なければと
自ら喜ぶのみ』
これは、『暮笛集』という名前をつけた由来が書いてあるねえ。もちろん、謙遜(けんそん)の意味で書いているのだろうけれど、実際に読んでみると、全く面白くないねえ。人気も出なかった。
薄田泣菫さんの名声を世の中に広く知らしめた詩集は、明治39年(1906 )に発刊した、
『白羊宮(はくようきゅう)』これだ。
『白羊宮』の詩の中で、特に人々に人気があった詩の、始めの部分だけ書いておくよ。
『ああ大和にしあらましかば』
薄田泣菫
『ああ、大和(ゆまと)にしあらましかば、
いま神無月、
うは葉散り透く神無備(かんなび)の森の小路を、
あかつき露に髪濡れて、往(ゆ)きこそかよへ、
斑鳩(いかるが)へ』
こんな書き出しの詩だよ。神無備も斑鳩も奈良にある地名だね。
「うは葉散り透く」というのは、秋になって、木々の上の方の葉が落ちて空が透けてみえる様子だねぇ。
奈良にいたならば、古都の風情を思いっきり楽しむだろう、という趣旨の詩だねぇ。
この詩は、大変な人気を博して、詩人としての薄田泣菫さんが高く評価される代表作となったねえ。
この時代に人気があった詩は、島崎藤村さんの『初恋』や土井晩翠さんの『星落秋風五丈原』、そして、薄田泣菫さんの『ああ大和にしあらましかば』などだけれど、
これらの詩を読むと、当時の人々の気持ちが分かるような気がして、楽しいねえ。