オチケン風『日本文学史』近現代Ⅱ【明治】(詩)〈1〉【新体詩】①新体詩抄
日本は、明治維新により、近代国家として出発したわけだね。その社会変革に伴って、文化、文学にも大きな変化が出できたんだったねえ。
それは、言うまでもなく、詩の分野にも、大きな変革をもたらすことになったわけだよ。
それまでの、日本の文学において、詩や歌といえば、和歌・俳句・漢詩を意味していたわけだねぇ。
世の中が変化すれば、人々の心も変化する。詩も、伝統的な詩歌の形式から、その心の変化を表現するのにふさわしい形式に変わろうとしたんだね。
明治の初めは、特に西欧文学の影響が大きかったよね。日本の近代詩の形式も、西欧から移入されるさまざまな外国詩を参考に発達していったんだねえ。
このあたりは、近代小説が外国小説によって刺激を受けて発達していくのと同じだね。
西欧の詩と日本の伝統的な詩歌とを比べた時、大きな相違があった。もっとも違っていたのは言葉の分量だったよ。
特に西欧の叙事詩などは、それまでの日本の詩歌の常識からは、とても考えられないほど長いものだったねえ。
和歌は、五七五の短歌形式が中心だったし、俳句は、17文字だ。漢詩も長いもの、例えば七言律詩でも、56文字しかないよね。
当時の人々は、近世封建時代と違って、近代人の複雑で自由な心を表現するには、伝統的な短詩形は、ふさわしくないではないか、と思い始めていた。
そこにに、西欧詩の、言葉数の多い作品を目にして、これこそ、近代にふさわしい新しい形式の詩だと確信したんだね。
もうひとつの大きな違いは、伝統的詩歌が、細かい規則で表現の制限がなされているのに対して、西欧詩は、書き方に規制がなく、自由に表現しているというところだったねえ。
短歌、俳句は、5音7音の組み合わせで音数も制限され、俳句などは季語というものまで規定されているねえ。漢詩も、1句の文字数が数種類に決められているし、句数も定められているだろう。
それに対して西欧詩は全く違ったわけだ。文字数、行数、分量など、すべて自由に書けばよかったんだよ。
これは、日本の詩歌の概念を全く変えてしまうものだったねえ。
このような《自由詩》といわれる新しい詩の形が、明治初期の人々を驚かせたわけだね。
そこで、新しい近代詩の流れを創造しようとして、明治15年(1882)に出て来たのが、
『新体詩抄(しょう)』これだ。
これが、わが国初の、近代詩の詩集というわけだねえ。ここから、詩歌の近代化が始まったんだねえ。
題名の《新体詩》という言葉の中には、新しい時代の新しい形式の詩、という意味が込められているんだよ。
中心人物は、
《外山正一(とやままさかず)》さん。
《矢田部良吉(やたべりょうきち)》さん。
《井上哲次郎(てつじろう)》さん。
これらの3人だね。
『新体詩抄』が刊行される前年の明治14年には、板垣退助(いたがきたいすけ)さんが、帝国議会の開設をにらんで、《自由党》を結成しているね。
そして、自由民権運動の推進に大いに活躍をしている。
板垣さんは、岐阜県で遊説中に、暴漢に襲われて負傷した。その時、
「板垣死すとも自由は死せず」
と言って、血まみれになりながら起き上がったというのは有名なエピソードだねえ。
このように、世の中全体も、個人の自由を尊重した近代市民社会へと変革しようとするエネルギーに満ちていたんだよ。
その中で、伝統的な規則に縛られた詩歌から、新時代の精神を、平明な日常語による長詩で表現しようとする『新体詩抄』は、当時の人々の支持を大きく集めることになったねえ。
『新体詩抄』の始めには、外山正一さん、矢田部良吉さん、井上哲次郎さん、の3人がそれぞれ序文を書いているよ。
その中で、外山正一さんは、次のように述べているねえ。
『見識高き人たちは、可咲(おか)しなものと笑わば笑え。
諺(ことわざ)に言う、「蓼(たで)食う虫も好き好き」なれば、多くの人の其中(そのうち)には、自分極(きわみ)の我等の美挙(びきょ)を賛成する馬鹿なし、とせず。
安(いずく)んぞ知らん、我等のちんぷんかんの寝言とても、遂(つい)には今日の唐詩の如く、人にもてはやさるることなきを。
穴賢(あなかしこ)。
明治15年5月 外山正一 識(しるす)』
これを読むと、『新体詩抄』を見て、
「これはいったい何だい?こんなのは詩歌とは言えないよ」
というような批判も多くあったことがうかがえるね。
だけど、外山正一さんが、
「結局、今、流行っている唐詩のように、人にもてはやされる」ようになると確信したように、新体詩が、近代の詩歌の主流になったわけだね。
今、君が好きで歌っている歌詞は、明治15年(1882)の『新体詩抄』の流れを受け継いでいると言えるんだよ。
『新体詩抄』の内容は、外国の翻訳詩が14編、創作詩は5編だよ。いずれも、それまでの短歌や俳句とは、全く違った日常語の長詩だね。
当時の人々は、『新体詩抄』を見て、全く新しい詩形として、《新体詩》という言葉を新鮮に受け止めたことだろうね。
『新体詩抄』に収められている詩の数は、それほど多くはないので、1時間もあれば十分、全編が読めるほどだねえ。
その中で矢田部良吉さんの作品を1つ、紹介しておこうかね。
春夏秋冬
矢田部良吉
『春は物事よろこばし 吹く風とても暖かし
庭の桜や桃のはな よに美しく見ゆるかな
野辺の雲雀(ひばり)はいと高く 雲井はるかに舞ひて鳴く』
これは、春の部分だけ引用したけれど、後、夏秋冬と同じように続くんだよ。
俳句や、短歌と比べると圧倒的に長いわけだ。
読めば分かるけれど、現在の僕らの感覚からすれば、楽しいものでも、それほど感動的なものでもないねえ。
そうなんだよ。『新体詩抄』は、内容の文学的な高さよりも、新体詩運動を起こさせる最大の契機になったという歴史的意義の方が、はるかに高いということが言えるねぇ。
ところで、外山正一さん、矢田部良吉さん、井上哲次郎さん、この3人は、東京帝国大学の教授仲間だったんだよ。外山正一さんは、その後、東京帝国大学総長にもなったり、国の文化政策推進の役割も果たしたりしているんだよ。
この、平易な日常語の長詩形式の新体詩は、その後、多くの詩人たちや、世の中の人々に、広く支持されることになったよ。
そして、この後、新体詩の詩集が、多く出版されていったねえ。そうする中で、文学的な内容も形式も、ずいぶん、深化し、発展していったんだよ。
その中で、当時、大変な人気を博した新体詩が出できたねぇ。
それは、
《落合直文(おちあいなおぶみ)》さんの、
『孝女白菊(こうじょしらぎく)の歌』これだ。
『孝女白菊の歌』は、井上哲次郎さんの漢詩を落合直文さんが、和訳したものだね。非常に長い詩だよ。
最初の部分は次のようなものだよ。
『阿蘇の山里秋深(ふ)けて
眺(ながめ)寂しき夕まぐれ
いずこの寺の鐘ならん
諸行無常と告げわたる
折(おり)しも一人門(かど)に出で
父を待つなる少女(おとめ)あり』
というものだよ。七五調の哀愁に満ちた訳し方になっているねえ。
この部分を1番とすれば、全編では91番まで続いているんだよねぇ。1大叙事詩と言えるような物語になっているよ。
『孝女白菊の歌』は、新体詩として多くの人々の心を捉えたねえ。
その後、ドイツ語にも、英語にも翻訳されたよ。
また、映画にもなったり、ゆかりの地である阿蘇には、歌碑も建てられたねえ。
作者の落合直文さんは、近代詩の発展に活躍をした人だけれど、『孝女白菊の歌』のような、一般の人々の支持を受ける作品も多く創作しているね。
その中で特に有名なのは、『大楠公の歌』ともいわれる『桜井の決別』の歌だねえ。
『青葉茂れる桜井の・・・」
この歌は超有名だよ。君のおじいさんかおばあさんに尋ねてごらん。ほとんどの人が知っているよ。
どんなに文学的に優れた詩であったとしても、一般大衆の支持を得られなければ、結局、世の中から消えていってしまうことになるね。
近代日本の新しい詩形である新体詩は、分かりやすくて感動的な作品が出てきて、それを多くの人々が支持することによって、詩歌の中心的な形式となっていったわけだね。