オチケン風『日本文学史』近現代Ⅱ【明治】(詩歌)【はじめに】

前座【ABCヤングリクエスト】

オーッ!なんと、もう、8月になってしまったよ。
いつも言っているけどさぁ、どうして、こんなに月日がたつのが早いのかねえ。この調子でいけば、人生の終わりも目の前にきているような気さえするねぇ。

君も、夏休みがヤマ場にさしかかり、受験勉強に悩んだり、逆に自信を持ったりと、交錯(こうさく)した感情で、不安になったりすることがあるかもしれないねえ。
そんな時は、自分で、自分の弱気な心を励まして、「私はこれでいいんだ」と迷う心をはねのけて、頑張って行こうね。

僕が受験生から大学生のころ、ずいぶん、人気のあったラジオ番組があったねえ。
〝ABCヤングリクエスト〟という深夜番組だ。略して〝ヤンリク〟と呼んでいた。
朝、登校し、教室で友達と顔を合わせた時、深夜のヤンリクの内容が、よく、話題などになるほど、人気のある番組だったんだよ。

多くの受験生や大学生が、小さなトランジスターラジオで、ヤンリクを聞き流しながら、勉強をしていたねえ。

〝深夜番組〟といわれる放送ジャンルの草分(くさわけ)的存在で、非常に多くの若者に、圧倒的な支持を受けたものだったよ。

結局、20年間も続く長寿番組になったねえ。
君のお父さんやお母さんに、
「ラジオの深夜番組のヤンリクって知ってる?」
と尋ねてごらん。多くの父母が、懐かしそうに、うなずくだろうね。

その番組の1つのコーナーに、
『心の旅・遠くへ行きたい』というのがあったよ。これは、聴取者からの便りを朗読するものだった。

ちょうど、深夜0時になると、
「ポォー、シュッ、シュッ・・・」
と蒸気機関車の汽笛と走る音が聞こえてくるんだよ。それからBGMが流れて、
「心の旅・遠くへ行きたい」
とゆったりとしたアナウンサーの声が響くんだねえ。実に、望郷の念に駆(か)られるような雰囲気になったよ。

僕は、大学1年の初夏のころ、このコーナーに便りを出したんだ。そうすると、それが採用されて放送されたんだよ。
内容は次のようなものだった。

『僕は、今年の4月、愛媛県の南端、南宇和郡というところから大学入学のために、大阪にやってきた。古里は、高知県境に近いところで、線路も通っていない、黒潮の押し寄せる、のどかな漁村だ。
僕は、その豊かな、海や山の自然の中で、幼いころから育った。

大学進学のとき、中学、高校のころから好きだった理系の科目を生かそうと思い、工学部に入学した。
生まれて初めて、愛媛県を離れて、大阪で1人住まいを始めた。新しい生活に、ドキドキしながらも、希望に胸を膨らませていた。

ところが、大学の講義は、僕が期待したものとはまったく違っていた。決して好きになれるようなものではなかった。苦痛以外の何物でもなかった。この調子では、おそらく、留年するに違いないと思った。
それでも我慢して、1日も休まずに通学した。

僕はたいへん、気が弱い。
周囲の学生が、ベラベラと大阪弁で楽しそうにしゃべっているのを聞くと、気後(おく)れがして、とても、南宇和郡の方言で、話の仲間に入ることなどできなかった。
時には、話しかけられた時もあったけれど、恥ずかしくなって逃げた。

「この1週間、誰かと話をしただろうか」
と振り返ってみると、1度も会話をしたことがない週が、何週も続いていた。
毎日の生活が、少しずつ息苦しくなってきた。耐えられなくなってきていた。

よく晴れた6月の始めのある日、僕は入学以来、初めて講義をさぼった。
昼過ぎになって、後ろめたい思いを引きずりながら、電車を乗り継いで、兵庫県の西明石に行った。
そこからフェリーに乗って、淡路島に渡った。

さらにバスに乗り、四国に最も近い停留所まで行った。

バスを降りると、近くに、小高い山の頂上に続いている細い道があった。僕はその道を、期待と急な坂に、息を弾(はず)まぜながら、急いで上った。

頂上に着いて振り返って見た。島々が、ほんとうに、海面に浮かんでいるように、点々と続いていた。さらにその先に、青空の下、四国の陸地が、少しかすんで見えた。

・・・ああ、あれが四国だ。あの陸地をたどっていけば、南宇和郡に行き着くんだ

こう思うと、幼いころ、無邪気に、何の心配もなく、なんの不安もなく、楽しく遊び回った古里の山や海を思い出した。
そうすると、急に、涙がこぼれてきて、止まらなくなった。

僕は、座り込んで、四国の大地に目をやり、長い間、泣いていた。

やがて涙が枯れた頃、好きだった詩が心の中に浮かんできた。

《ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたうもの
   ・・・》       
(室生犀星『抒情小曲集』)

何度も何度も読んで、暗記している詩だ。僕は心の中で、繰り返し繰り返し、この詩をつぶやいた。
それから、今度は大きな声を出して暗唱した。

なにか、元気が出てくるような気がした。
何度も声に出していると、もう1度、頑張ってみようか、という気になってきた。

太陽が傾いてきていた。
僕は立ち上がり、吹い始めた、たばこに火をつけた。』

こんな内容だったよ。朗読した男性のアナウンサーがうまくてねぇ、僕の気持ちを十分に表現してくれていたねえ。

君も、もしかすると、希望の大学に通れば、生まれて初めて親元を離れて、1人住まいをすることになるかもしれないねえ。
そんな時、ホームシックやノスタルジーな気持ちになることがあるかもしれないけれど、それも、かけがえのない青春の思い出だよ。

〝詩〟って、いいねぇ。人生の花だね。

ところで、僕がまだ現職で教えていたとき、短歌の授業になると、いつも教科書に出てきていた歌があったねえ。

『東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹(かに)とたわむる』
 (石川啄木『一握の砂』)

この歌だよ。
石川啄木さんは、僕の、悩み多い青春の心中を、ありのままに表現してくれる歌人だと思えたねえ。まるで、心の中は僕と同じではないのかとさえ思えたよ。

僕には、そんな弱い心を他人の前に広げてみせるほど勇気はなかったけれど、石川啄木さんは、素晴らしい短歌として結晶させてくれたんだと思ったねぇ。

その石川啄木さんの歌に共感する人が多く、たいへん人気があるということが、僕の気持ちをずいぶん慰めてくれたよ。

僕のように、他人にも言えない弱い心で苦しんでいる人が、実は、世の中にはたくさん居るんだ、とね。

ある日の授業で、この歌を教材に取り上げていた。
一応、石川啄木さんや歌の背景について説明した後、生徒に質問をしたんだ。
「作者は、何が悲しくて泣いていたんだろうか?」
僕はこの質問の答えとして、思い通りにいかない若い人生の苦悩、そんな内容を期待していたんだよ。

1人の男子生徒が軽く手を挙げた。その生徒を見て、「これはうまく授業が進められる」と思ったねえ。彼は、おとなしくて、まじめで、たいへん勉強のできる生徒だったんだ。彼の優秀さは、他の生徒も皆、認めているところだったよ。

この生徒なら、僕の期待通りの答えを出してくれると確信できたねぇ。

僕は少々、得意になって、その生徒を指さした。

彼は、落ち着いた、よく響く声で答えたねえ。
「横にしか走れないカニが、悲しかったからです」
この答えを聞いた時、教室の空気は、一瞬、時が止まったように固まり、静まり返ったよ。

その異様な教室の空気を感じた彼は、今度は、少々あわてたように話を付け足した。
「ほとんどの生き物は、まっすぐ前に走ることができるのに、どうしてカニだけが、横にしか走れないのかと思うと、かわいそうになって泣けてきたのです」

誰か1人の生徒が、プッと噴き出して笑った。そうすると教室が、校舎中に響くような大きな笑い声に包まれたねぇ。中には、机の上を両手でドンドンと叩きながら大笑いする生徒もいたよ。

彼のおかげで、教材は予定通り進められなかったけれど、実に楽しい授業になったねえ。
今でもあの光景は、ありありと思い出すことができるよ。

〝短歌〟って、いいねぇ。人生の花だね。

石川啄木さんは、結核のために若死したねえ。なんと26歳で亡くなったよ。当時、結核というのは、不治の病に近く、多くの文学者もこの病気で亡くなっているねえ。
ここで、思いつくまま、年代順に挙(あ)げてみるよ。

樋口一葉(ひぐちいちよう) 24歳
正岡子規 34歳
国木田独歩(くにきだどっぽ) 36歳
二葉亭四迷(ふたばていしめい) 44歳
石川啄木 26歳
長塚節(ながつかたかし) 35歳
宮沢賢治 37歳
中原中也(なかはらちゅうや) 30歳
織田作之助(おださくのすけ) 32歳
堀辰雄(ほりたつお) 48歳

ちょっと考えただけでも、こんなにたくさんの人がいるよ。結核という病気は、多くの人材を失わせることになったねえ。

この中でも、正岡子規さんは、近代の短歌、俳句の革新運動に人生をかけて取り組み、成果もあげた人だったけれど、結核には勝てなかったんだねぇ。
晩年には、脊椎カリエスを併発(へいはつ)して、自由に歩くことさえできなくなったんだよ。それでも、病床で、優れた作品を多く書き残しているねえ。
そんな中の1句。

『いくたびも 雪の深さを 尋ねけり』

結核菌は、体のいろいろなところに病巣(びょうそう)を作るけれど、たいてい、発熱を伴うんだよね。
当時は、結核菌を殺す抗生物質は無かったわけだから、できるだけ、体力を消耗させないように静かに寝かせているしかなかったんだねえ。

日に当たると、体力が落ちるので、できるだけ奥の部屋で寝かせた。また、発熱するので、冷たい外気などに当たらないように、障子を絞めたり屏風(びょうぶ)を立てたりしたんだね。

そんな暗い部屋の中で正岡子規さんが寝ているとき、障子のすき間からチラッと、外では雪が降っているのが見えたんだねえ。

すぐにでも起きて、障子を開け、ガラス戸のところに行って、外の雪の降る様子を見たいのだけれど、体も動かないし、熱で悪寒もするので、寒い所には行けない。

それで何度も何度も家人に
「今、雪はどのくらい積もっているたんだい?降り方はどんな様子だい?」
と尋ねたんだねえ。

僕は小学生のころ、よく、熱を出して学校を休んだよ。
布団の中で、ただ、時間が経っていくのに身を任せているのは退屈だった。
やがて、下校時間が過ぎると、家の前を、三々五々に子供たちが、にぎやかに帰って行く話し声や笑い声が聞こえてきたねぇ。

僕は母に、
「お母ちゃん、今、何年生が帰って行ったのかなあ?ぼくのクラスの子ではないのかなあ?」
と子供たちが通るたびに、聞いたものだよ。

元気な友達の様子を聞くことで、僕は、病気で学校に行けなかったことが少し慰められる気がした。また、元気をもらったような気にもなったねえ。
そして、明日は、友達と一緒に学校へ行こう、という気になったよ。

ところで、子供にとっては、雪が降るのは楽しみだよね。それこそ、何度も窓から顔をのぞかせては、
「アッ、屋根が真白だ。もう、道路にも積もっている」
などと、見る度にうれしくなったものだねぇ。

雪だけではないねえ。子供のみずみずしい命にとっては、自然現象は、驚きであり、喜びであり、ワクワクするような希望なんだねえ。

正岡子規さんも、雪の様子を聞くたびに、少しなりとも、子供のような新鮮な心と慰めの気持ちを感じることができたのだろうねえ。

それにしても、わずかに、
「何度も雪の深さを尋ねた」
という、ただ、これだけの言葉の中に、どれほど多くの心が表現されているのだろうかと思うと、驚きだねえ。

自然の営みに接して、驚きを感じたいという気持ち。不治の病で動けなくなった自分の体とこれからの人生。成し遂げようとしている短歌、俳句の革新と今後の行く末。

これらの無量の思いが、17文字の中に見事に、また、確実に表現されていることを思うと、正岡子規さんは、言葉の魔術師と言わざるを得ないねえ。

〝俳句〟って、いいねぇ。人生の花だね。

〝詩歌(しいか)〟って、いいねぇ。人生の花だね。

その〝花〟がなくても、飢え死するようなこともなければ、生きて行けないこともない。でも、花の無い人生になってしまうよね。

ここで、韻文と散文の基本的な、言葉の意味するものの違いを頭に入れておこうかねえ。

いちばん大きな違いは、韻文は、文字そのものにも意味を持たせるのに対して、散文は、文字を記号化するところにあるんだよ。

どういうことかというと、韻文においては、表記の違い、例えば、漢字で書くのか、仮名で書くのか、カタカナで書くのか、句読点はどのように打つのか、ということは重要な表現技法になるんだ。

また、何文字にするのか、何行にするのか、どこで改行するのか、どこに空白を入れるのか、という、文章の外形も、表現する世界に、大きな影響を及ぼす要因になるんだねえ。

ちょうど、先に取り上げた、石川啄木さんの短歌は、3行で書かれているよね。
短歌の伝統としては、1行で書くのが当たり前だったんだけれど、石川啄木さんが表現しようとしていた世界は、1行書きではうまくできず、3行書きにしたときに、ぴったりと作者の心にあったものが表現できたというわけだね。

石川啄木さんにとっては、1行で書くのか、3行で書くのかということは非常に重要な違いだったわけだよ。

さらに、言葉のリズムというものにも、表現される世界は大きく影響されてくるよね。韻文の作者は、同じ意味でも、複数の言葉の中から、リズム的に最もふさわしいものを選ぶ必要があるんだね。
そうして、全体を読んだときに醸(かも)し出される雰囲気に、繊細な注意を払って言葉をつづっていったわけだねぇ。

このように韻文の言葉というものは、言葉そのものが表現世界に直接、影響を与えるということだねえ。

一方、散文においては、言葉は、表現される世界への橋渡しの役割をするということだね。だから、入り口である言葉は、できるだけ、摩擦や抵抗をなくして、すんなりと読者を表現世界の中へ入らせていくことが最も大切な役割となるわけだよ。

そのためには、韻文とは違って、言葉自体の、表現世界への直接の係わりをなくするために、言葉を単なる記号にすることが必要になるわけだね。そうすると、読者は記号化された言葉には、気をとられずに、記号を通して表現された文学世界を集中的に鑑賞することができるんだねえ。

『小僧の神様』という小説を書いてから《小説の神様》と呼ばれるようになった志賀直哉さんの文体を見ると、言葉の記号化、ということがよく分かるよ。

今、君は、受験勉強で忙しいと思うけれど、志賀直哉さんの小説の書き出しだけでもいいから読んでごらん。おそらく、
「なんて、面白くない文章だろう」
と思うだろうねえ。

そうなんだよ、志賀直哉さんは、表現される世界が、読者の心の中で、最も正確に再構築されるように、文章は、徹底して無味無臭、無色透明にしたわけだねえ。
ここに、《小説の神様》と讃(たた)えられる理由のひとつがあるんだよ。

韻文と散文の、言葉の働きの違いを、分かりやすい例えで頭に入れておこう。

それは、長方形の、少々大きめの水槽に水を満たした状態を想像すればいい。そして、君は水槽に顔を近づけて、水を通して、向こう側の情景を見ているんだ。

水は、言葉に例えているんだよ。向こう側の情景は、表現された文学世界を例えている。

韻文の場合は、水にさまざまな美しい色を付けているんだ。時には、水中をキラキラと輝くような、小さな星型の浮遊物も動いていたりするんだねえ。

君は、それらの添加された色彩や浮遊物を通して、向こう側の情景を見ることになるんだよねぇ。
そこに見えるものは、作者の、言葉によって飾られた、魅力的な世界ということになるね。

散文の場合は、水を限りなく無色透明にして、向こう側の情景が、曇りなく、ありのままに見えるようにするんだよねぇ。
だから、水が、まるで存在していないくらい透明になったとき、向こう側の情景は、作者の意図した通りの文学世界となるわけだよ。
この韻文と散文の違いを頭の中に入れておいて、本題に入っていこうかね。

さあ、それじゃあ、素晴らしい詩歌の世界の歴史を、オチケン風『日本文学史・近現代文学編Ⅰ』(小説・評論)に続いて、しっかりと見ていくことにしよう。

なお、この後の、第1次世界大戦以降から現代までの文学史は、オチケン風『日本文学史・近現代文学編Ⅲ』になるので、よろしくね。