オチケン風『日本文学史』近現代Ⅰ【大正】(小説・評論)〈14〉【反自然主義文学】⑤白樺派

エーッ、今日から、もう、6月だッ!
早いねぇ。アッ、という間に、月日は流れてしまう。
本稿を書き始めたのが、新年が明けてからだから、もう、半年たったことになるねえ。
 
君の受験勉強の進み具合いはどうだい?
初めは、少し他人事のように思えていただろうけれど、ここまで来ると、いよいよ、我が身に迫って考えられるだろう。
間もなく、最大のヤマ場の夏休みもやってくるし、迷ったり、不安になったりせずに、自分の決めた道を、自信を持って進もうね。
 
さてと、それじゃ、
 
《白樺派》の話に入っていこう。
 
まずは、白樺派という名称の由来から見ていこう。
前に、東京の各大学が、文芸雑誌を発行して競い合ったということを話したねえ。
 
早稲田大学は、《早稲田文学》
慶応義塾は、《三田文学》
東大は、《新思潮》
 
これらだったねえ。ここでもう1つ、一般の大学ではないけれども、文学競争に加わった学校があったんだよ。それが学習院だ。学習院といえば、いわゆる、貴族や上流階級の子弟が通っていた学校だよね。
その機関誌の名前が、
 
《白樺》明治43年(1910)発刊。これだ。
 
《白樺》を中心に多くの作家が活躍したので、その人達のことを《白樺派》と呼んだわけだね。同人のほとんど全員が、学習院出身だったねえ。
白樺派の特徴は、次のようなものだ。
 
①理想主義
②人道主義
③個性の尊重
④自我の尊重
⑤人間の尊厳性
 
こんなところだねえ。これらの項目は、そのまま、自然主義との対立軸になっているんだよ。自然主義が、暗くうっとうしいものであるのに対して、白樺派は、明るく理想的な作風を基本にしているものだね。
特徴を簡単な文章にすると、
 
個性や自我を尊重し、人間の尊厳を回復する、理想的な人道主義。
 
というくらいの説明になるかね。
それでは、その中心人物は誰か。
 
《武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)》さん。この人だ。
 
武者小路実篤さんは、聖書やトルストイなどから思想的な基盤を学び、白樺派の理論的な指導者の立場になった人だよ。
著作を読めば分かるけれど、ずいぶん、良識的で温厚な方だねぇ。代表作は、
 
『お目出(めで)たき人』これだ。さらに、
 
『幸福者』があるねえ。
 
『お目出たき人』は、主人公の男性が何度も求婚して断られた女性が、結局、他の男性と結婚してしまうんだ。そのことを主人公は、
「彼女は、本当は僕を愛しているんだけれど、周囲の者の圧力で仕方なく、他の男と結婚したんだ」
と思うようになり、人生に失望せずに、明るく生きるという話だね。
 
『幸福者』は、どんな悪い運命に対しても、それを逆に、よりよく生きるチャンスにして、明るく自由に生きていく、という内容だ。
 
両作品とも、人生において、運命的な困難があったとしても、明るく前向きに、楽天的に生きてゆく中に、人生の喜びがあるというものだねぇ。まさに、人生肯定の思想だよ。
この思想は、『お目出たき人』『幸福者』だけのものではなくて、武者小路実篤さんの作品全体に通じることなんだよ。
 
武者小路実篤さんは、他に次のような小説や戯曲を書いているね。年代順に挙げておくよ。
 
『その妹』大正4年(1915 )
 
『友情』
 
『人間万歳』
 
『愛と死』
 
『真理先生』(第2次大戦後)
 
など多数あるよ。いずれも気持ちよく読める作品で、ほのぼのとした温かさが感じられるねえ。
 
武者小路実篤さんの人生に対する名言を集めた書物として『人生論』が出版されているね。これは、隠れたベストセラーじゃないのかなぁ。今でもよく読まれているよ。

野菜の絵を描いたところに、
《仲良きことは美しきかな》
なんて書いてあったりするのを1度や2度は、君も見たことがあるだろう。あれだよ。
 
僕も学生時代の一時期、この『人生論』を常に持ち歩いて、何度も読み返していたことがあったよ。
そして、感動した箇所には、赤線を引いていったんだ。そうすると、初めから終わりまで赤線だらけになったよ。
 
ある日、空いた電車に乗っていた時のことだ。隣には小学低学年の女の子を連れた若い母親が座っていた。
 
僕はいつものように、心酔(しんすい)していた『人生論』を取り出して読んでいた。開けていたページは、性欲について書いているところだった。
僕はその箇所にずいぶん感動していたので、何重にも赤線が引いてあった。
 
しばらく電車に揺られていると、隣の母親が僕の開いている『人生論』を覗き見しているのを感じた。僕は、偉大な文学者、武者小路実篤さんの本なので、少々、自慢顔になり、本を母親が読みやすいように心持ち傾けた。
すると、母親が視線を紙面から、僕の横顔の方に移動させたのを感じた。
 
それは、優れた『人生論』を読んでいるのに感心して、どんな学生なのか、顔の様子を見ている、と僕は思った。
それで、僕も、チラッと母親の方を見た。
 
その顔の表情は、僕の思いとは全く違っていた。
「この学生は、卑猥(ひわい)な本に、いっぱい赤線を引いて読んでいる。変質者で危険な人間に違いない」
僕のことをこのように捉(とら)えていることが、ありありと分かった。
 
確かに、僕の顔は、神経質で思い詰めたような表情をしており、どこか性格異常者のような雰囲気があった。
 
母親は、僕から目をそらすと、子供の手を取って、そそくさと隣の車両へ、小走りに移動して行った。
「学の無い母親だ。武者小路実篤先生を知らないのか」
僕は、心の中でつぶやいて自分を慰めた。
 
まあ、ずいぶん昔のことだけど、こんなことがあったねえ。
 
武者小路実篤さんは、理想主義を、単に文学作品上に表現しただけではなくて、実際の生活に実現しようともしたんだよ。その理想生活を求めて作った共同生活体が、
 
《新しき村》大正7年(1918)設立。これだ。
 
《新しき村》は、労働と芸術精神を調和させて、農業を中心に共同作業をし、お互いが尊重して合って、幸福な人生を送ろうというものだよ。経済的には、原始共同社会のようなものだね。
 
《新しき村》は、初めは九州で開村されたけれど、その後、さまざまな紆余曲折(うよきょくせつ)がありながらも、現在も、埼玉県で存続しているよ。
 
武者小路実篤さんは、長生きだったねえ。明治18年(1885)に生まれて、昭和51年(1976)、90歳で亡くなったよ。その間、人類愛、人間尊重の文学を創作し続け、人々の心の明るい灯となったねえ。

ただ残念なことは、第2次世界大戦の時には、戦争協力の立場に立ってしまい、戦後一時期、公職追放されたことだねえ。
 
さあ、それでは次に、白樺派の中心的人物の、もう1人の作家をやっていこう。その人の名前は、
 
《志賀直哉(なおや)》さん。この人だ。
 
漱石の〝漱〟と同じように、直哉の〝哉〟が、なかなか書きにくいようなので、しっかり覚えておこうね。
志賀直哉さんは、学習院時代に、武者小路実篤さんと出会い、共に、文芸誌《白樺》の創刊に力を尽くした人なんだよ。
 
世の中には、あることに優れた人物に対して、〝○○の神様〟という表現をするよね。
志賀直哉さんにつけられた尊称が、
 
《小説の神様》これだよ。
 
《小説の神様》と言われるだけあって、作品は教科書にもよく載るねえ。代表的なものは、君も知っていると思うけど、
 
『清兵衛(せいべえ)と瓢箪(ひょうたん)』
 
『小僧の神様』

これらは、よく中学の教科書に載ったね。僕も『清兵衛と瓢箪』を授業で習ったよ。ひょうたんの行方を思うと、悔しさを伴う感動が尾を引いたのを覚えているね。
芥川龍之介さんの『トロッコ』と同じように、小説の楽しさというものを充分に体験させてくれたねえ。
また、高校の教科書には、
 
『城(き)の崎にて』
 
『網走まで』
 
などがよく出ていたねえ。特に、『城の崎にて』は、数え切れないほど授業の教材に使ったよ。
『城の崎にて』では、志賀直哉さんは、冷静に、心境を淡々とつづりながらも、生と死について考えさせる内容にしていたねえ。
その他の作品としては、次のようなものがあるよ。
 
『大津順吉(おおつじゅんきち)』
 
『和解』
 
『赤西蠣太(あかにしかきた)』
 
『暗夜行路』作者唯一の長編
 
などだねぇ。
志賀直哉さんは、明治34年(1901)、18歳の時、父親と衝突して以来、長い間、父との不仲が続くことになるねえ。それを小説の1つのモチーフにしているよ。
 
『大津順吉』は、父と不仲になった状況を小説にしたものであり、『和解』は、父と和解していく様子が描かれているねえ。『和解』が発表されたのが、大正6年(1917)、34歳のときだ。
実際に父と和解をした年に『和解』を発表しているから、16年間も不仲が続いていたんだねえ。
 
『赤西蠣太』は、これは面白い小説だよ。映画やドラマにもなったねえ。もし、気分転換でもしたければ、読んでごらん。中編程度のものだから、気楽に読めて、楽しいよ。
 
志賀直哉さんの小説の特徴は、簡潔すぎるほどの文体で、冷静で客観的に、時には冷徹に、事物の本質を描き出していくところだね。これはどの作品にも共通していることだよ。
一見すると、無味乾燥のように思えたりするけれど、これこそ、言葉の働きを究極まで研ぎ澄ました結果だろうねえ。
そして構成は、小説の模範のように整然として、迷いがないねえ。
まさに、《小説の神様》だ。

僕はまた、学生時代の一時期、志賀直哉さんに心酔したことがあったんだ。志賀直哉さんのような小説を僕も、何としても書けるようになりたいと思ったんだよ。
思いが高(こう)じて、私淑では耐えられなくなり、実際に、志賀直哉さんの自宅に弟子として住ませてもらって、小説の書き方を教えてもらおうと思ったんだ。
 
そのためには大学を中退しなければならなかったけれど、それがむしろ誇り思えたんだよ。当時の僕は、
「本当に実力と自信のある者は、大学を中退するものだ。実力もなければ自信もない者は、大学を卒業して、その資格に頼って生きるしかないんだ」
と思っていたんだよ。
 
武者小路実篤さんも志賀直哉さんも、学習院から、当時は学習院大学はなかったので、東大に進学をしていた。そこで2人とも大学を中退しているんだよねぇ。
尊敬していた2人が、中退をしていたものだから、僕は、中退をすることが優れた小説を書くための条件のようにさえ思えていたんだ。
 
僕は意を決して、志賀直哉さんに手紙を書くことにしたよ。
それで、住所を必死になって調べた。ところが、武者小路実篤さんの住所は、「新しき村」の関係から分かったけれど、志賀直哉さんの住所はどうしても分からなかったんだ。
 
僕は仕方なく、武者小路実篤さんに、
「僕を志賀先生の自宅に、弟子として住まわせていただけるように、親友の武者小路先生から、勧めていただけないでしょうか」
という趣旨の手紙を書いて郵送したんだよ。
もし、了解という返事が来れば、僕は本当に大学を中退して志賀直哉さんの家に行ったことだろうね。
 
ところが、当然かもしれないけれど、返事はなかったねえ。それで、今の僕があるわけだ。
はるか昔の、若き日の思い出だよ。
 
白樺派は、武者小路実篤さんと志賀直哉さんの中心的な活躍で、1つの文学流派の流れとして、確固たるものになっていったねえ。

そうしたなか、2人以外にも、白樺派として力を発揮した作家がいるねえ。
そのうちの1人が、
 
《有島武郎(ありしまたけお)》さん。この人だ。代表作は、
 
『カインの末裔(まつえい)』大正6年(1917 )
 
『生れ出(い)づる悩み』
 
『或(あ)る女』(長編)
 
『惜(おし)みなく愛は奪ふ』(評論)
 
『宣言一つ』(評論)
 
年代順に並べると、こんなところだね。
『生れ出づる悩み』は、中学や高校の教科書に載っていたねえ。僕も習って、ずいぶん感動したものだよ。実に、白樺派らしい作品だ。
ただ、楽観的人道主義の武者小路実篤さんとは少々違うよ。
 
『カインの末裔』や代表作といえる『或る女』を読んでみても、単純な個性尊重や理想主義とは違う要素があるねえ。もっと、ドロドロとした人間の本性のようなものを基底に置きながら書いているのが分かるねえ。
 
さらに、『宣言一つ』を読むと、有島武郎さんが、社会主義にひかれながらも、自らは、〝支配階級者の所産〟(本文)であり続けるしかないことを、悩んでいたのがわかるね。
また、『惜みなく愛は奪ふ』には、厳格で突き詰めていく思考傾向がよく表れているよ。
 
作品の性質の違いが、人生の違いとなっても現れているね。
武者小路実篤さんや志賀直哉さんは、人生に紆余曲折はあったにしても、温厚な晩年を過ごして、共に長生きをしているよ。
それに対して、有島武郎さんの人生の終わりは、なんとも言えないよ。
 
有島武郎さんは、妻や子もいる一家の主人だった。それが、15歳以上も年下の人妻と不倫に陥ってしまったんだよ。
結果として、軽井沢の別荘に逃げて、心中をしてしまったんだねえ。
応接室の天井の梁(はり)に、2人で並んで、帯をひっかけて首を吊ったんだね。足元の床には、踏み台にした椅子が置かれていた。
 
大正12年(1923)の今月、6月のことだ。45歳だった。
管理者によって発見されたのは、1カ月ほど後の7月7日のことだったねえ。
クーラーのない僕の部屋は、今も暑いけどさぁ、涼しい軽井沢とはいえ、1カ月も放置されていた2人の遺体は、かなり腐乱が進んでいたんだ。
残された遺書で、当人であると確認できるほどだったんだねえ。
 
その遺書の中に次のような言葉があるよ。
「愛の前に、死が、かくまで、無力なものだとは、この瞬間まで思わなかった」
これだ。

本人確認ができないほど腐乱した2人の遺体と、この〝愛の言葉〟と冷静に並べて見た時、君は、何か言葉が出てくるかい?
 
さてと、話を先に進めるよ。次の白樺派の作家は、
 
《里見弴(さとみとん)》さん。この人だ。
 
里見弴さんは、有島武郎さんの実弟だよ。兄が自殺をした時、マスコミ関係への対応やさまざまな準備に、悲しみながらも奔走した人だよ。
代表作には、
 
『善心悪心』
 
『多情仏心』
 
などがあるね。2つの作品ともに、個性を尊重して自由に生きる、ということをテーマにしているね。これは、白樺派の特徴だね。
『善心悪心』も『多情仏心』も、面白くないよ。
小説の完成度から見れば、兄の有島武郎さんの方が優れていたねえ。
ただ、兄が45歳で自殺したのに対して、里見弴さんは、94歳まで長生きをしたよ。
 
最後に、武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎、里見弴さん以外の白樺派の作家2人と代表作を挙げておくよ。
 
《倉田百三(ひゃくぞう)》さん。代表作は、
 
『出家とその弟子』(戯曲)大正5年(1916)これだ。次の作家は、
 
《長与善郎(ながよよしろう)》さん。この人だ。代表作は、
 
『竹沢先生と云ふ人』大正13年(1924)これだね。
 
『出家とその弟子』と『竹沢先生と云ふ人』は、仏教的、思想的なテーマが取り上げられているよ。作り物語の面白さはないけれど、物事の考え方、捉えかたに興味のある人には、十分に満足のできる作品だね。
 
やれやれ、これで、反自然主義の項目は、すべて終了だ。
 
ところで、本稿も、ずいぶん分量が多くなったので、ここで、1つの区切りをつけることにするよ。そして、次からは、分冊にするよ。
 
何時を区切りにするのかというと、第1次世界大戦終了[大正7年(1918)]が社会的にも、文学的にも、大きな変革の時期になるので、この時をひとつの境界にするのが常識的だろうねえ。
ただ、【社会体制と文学】の項目で話をしたように、明確に分かれるものでもないので、おおよその区切りと考えればいいよ。
 
それで、本稿《オチケン風『日本文学史・近現代文学編Ⅰ』》は、近代の始まりである明治維新から第1次世界大戦終了までの、小説・評論の流れを中心にした説明ということになるね。
 
次の分冊、《オチケン風『日本文学史・近現代文学編Ⅱ』》では、主に、小説・評論以外のジャンルについて、話をすることにするよ。
 
ああ、そうそう。
本書は、間もなく、定価100円の有料本に変更するよ。

ここまで付き合ってくれた君への感謝の気持ちとして、少しの間だけ無料にしておくからね。無料の今のうちに、全文をしっかりと読んで、頭に入れておいてね。
 
なによりも、いよいよ暑さの本番を迎える中、君の勉強が、一歩でも前に進むことを祈っているよ。
 
体調に気をつけてね。不規則な生活にならないようにね。
 
それじゃ、次は、《オチケン風『日本文学史・近現代文学編Ⅱ』》で、お会いしよう。