オチケン風『日本文学史』近現代Ⅰ【明治〈終〉大正〈始〉】(小説・評論)〈13〉【反自然主義文学】④理知派・新現実派
 
いやあ、暑いねえ。
昨日なんか、この原稿を書いていると、汗が噴き出してきたよ。
 
僕の部屋のクーラーがさあ、去年、故障したんだよ。それで、少しでも安く買おうと思って、電気製品の量販店の新聞チラシを見比べながら、もう少し安くなるんではないかと思っているうちに、夏が終わってしまったよ。
 
今年こそは、安く買おうと思っているんだけれど、果たして、買えるのかなぁ?チラシを見ると、暑さの為か、もう、値上がりしてきているじゃないかい。
 
「イダイな文学者が、クーラーさえ買えないの?」
僕の文才のレベルを知り尽くしている妻の言葉だよ。
「もともと、小説家というのは、貧乏と決まっていたものなんだ。貧乏だから小説が書けたんだよ。貧乏こそ、偉大な小説家の勲章だ」
僕のいつもの答えだ。やれやれ。
 
君は、どんな環境で勉強しているのかねえ?大変だと思うけれど、いろいろと工夫をして、勉強に集中できるようにやっていこう。
 
さてと、それじゃ話を元に戻すよ。
夏目漱石さんの影響を受けた人は、門下生はもちろん、それ以外の私淑(ししゅく)した人も含めると、たいへん多くの人に上るねえ。
私淑というのは、直接の弟子にはならなかったけれど、個人的に心で師匠と仰ぐ、という意味だよ。
ここで、代表的な人だけ挙げてみるよ。
 
学者としては、
阿部次郎さん。この人は、『三太郎の日記』という哲学的著書を出版して、当時の大学生には、この本を読まない者は恥ずかしいと言われるくらい圧倒的な人気のあった方だ。
和辻哲朗さん。この人は、その業績がたたえられて、出身地の姫路市が、和辻哲朗文化賞という賞を制定しているくらいだよ。
 
この2人は、その後の日本の思想界に計り知れない影響を与えたといっても過言ではないねえ。
また、門下生のなかには、戦後、文部大臣になった人もいたよ。

続いて、文学者を見てみよう。
 
《野上弥生子(のがみやえこ)》さん。
 
《鈴木三重吉(みえきち)》さん。
 
《長塚節(ながつかたかし)》さん。
 
《芥川龍之介》さん。
 
これ以外にも、夏目漱石さんに影響を受けた人は多くいるけれども、入試には関係ないので省略しておくよ。
 
野上弥生子さんは、夏目漱石さんの取り計らいで俳句雑誌《ホトトギス》に最初の小説を発表して以来、漱石門下生の作家として活躍することになるね。代表作は、
 
『真知子(まちこ)』昭和6年(1931)これだ。
 
『真知子』は、社会変革のために活動する人の、非人間的な面を追求した作品だね。これは、これまでの小説が取り上げたテーマとしては珍しく、画期的なものだったねえ。だから、当時の社会の〝記念碑的作品〟として評価が高いよ。
野上弥生子さんは、長生きで、明治18年(1885)に生まれて、昭和60年(1985)に亡くなったよ。実に99歳没だねぇ。

次の鈴木三重吉さんは、日本の児童文学の発展に大きく寄与した人だ。
わが国の児童文学の出発は、明治24(1891 )に巌谷小波(いわやさざなみ)さんが発刊した『黄金丸』という雑誌から始まったと言われているんだよ。
 
巌谷小波さんは、擬古典主義のところでは煩雑(はんざつ)になるので話さなかったけれど、《硯友社》の創立当時からかかわっていた同人なんだよ。
 
巌谷小波さんによって出発した児童文学を、鈴木三重吉さんは文学的に飛躍的な発展をさせたねえ。その原動力となった児童文学雑誌が、
 
『赤い鳥』大正7年(1918 )これだ。
 
鈴木三重吉さんは、〝児童文学〟といっても、決して軽く見ずに、一級の文学者の、一流の作品を子供たちに与えようとしたんだね。だから、『赤い鳥』には、当時の有名な作家が、子供たちの心の栄養になるような作品をたいへん多く書き残してくれているね。
 
『赤い鳥』に作品を掲載した代表的な文学者をあげてみるよ。
小説家には、
有島武郎(ありしまたけお)、菊池寛(きくちひろし)、徳田秋声、谷崎潤一郎、佐藤春夫、芥川龍之介さんなど。
 
童謡では、
北原白秋(はくしゅう)、西條八十(さいじょうやそ)さんなど。
 
ほんとうに、素晴らしい顔ぶれだねえ。それぞれ、文学主義や主張があるにしても、未来を担う子供たちを育成するという1点においては、協力して創作していることについては、頭が下がるね。
また、このように、気難しい文学者に児童文学を書かせた、鈴木三重吉さんの信念の強さに感動するね。
 
さらに、『赤い鳥』においては、子供たちに、一方的に作品を与えるだけではなくて、子供たちの創作の指導や添削にも力を注いだんだよ。
これによって児童文学の量と質ともに大きく伸びてゆくことになったねえ。鈴木三重吉さんは、間違いなく、児童文学における功労者と言えるねえ。
 
次の長塚節さんは、漱石門下ではなくして、21歳のとき、正岡子規さんの門をたたいて、子規門下生になった人だよ。
ただ、夏目漱石さんが正岡子規さんから学び取った《写生文》という小説の基本的な書き方を、長塚節さんも継承(けいしょう)したんだ。
そういう意味から言えば、長塚節さんも夏目漱石さんと同列の文学者であると言えるよね。代表作は、
 
『土』これだ。
 
『土』が単行本として刊行され時、夏目漱石さんは、序文を寄せているよ。その中に次のようなところがあるねえ。
 
『「土」が「東京朝日」に連載されたのは一昨年の事である。そうして、その責任者は余(よ)であった。ところが、不幸にも余は「土」の完結を見ないうちに病氣にかかって、新聞を手にする自由を失ったきり、また、「土」の作者を思ひ出す機会を持たなかった。
   (中略)
もしまた、名の知れない人の書いたものだから読む義務はないというなら、その人は、ただ、名前だけで小説を読む、内容などには頓着(とんちゃく)しない、門外漢(もんがいかん)と一般である。文士ならば、同業の人に対して、たとえ無名氏にせよ、今少しの同情と尊敬があって然(しか)るべきだと思う。余は『土』の作者が病氣だから、この場合には、なおさら、そう言いたいのである』
  (明治45年5月)
 
この序文の〝その責任者は余であった〟というのは、夏目漱石さんが、新聞社の専属作家として勤めていたので、『土』を新聞に連載するように推薦したことを指しているんだねぇ。
『土』は、連載しているうちに、かなりの長編小説になったよ。
 
そして評判としては、意外に、批判が多かったんだよ。それに対する夏目漱石さんの擁護が後半に書いてあるねえ。
12歳年下の長塚節さんを、夏目漱石さんが、まるで兄貴のように温かく守っている心がよく伝わってくるねえ。
 
〝作者が病氣だから〟と言っているように、長塚節さんは喉頭(こうとう)結核にかかり、苦しんでいたんだよ。結局、旅先の病院で35歳で亡くなったねえ。
 
『土』は、人気があまり無かったというけれど、僕は、骨のある優れた作品だと思うよ。もちろん、このごろの漫才主義文学のように、小手先で読者を引き付けて、読者にへつらうような小説とは全く違うけれどね。
硬い写生文で書かれ、しかも方言の多い長編だからねぇ。今、君に、『土』を読みなさい、とは言えないけどさぁ。
 
僕は長塚節さんの『土』のことを考えると、いつも、二重写しになって思い出される作品があるんだ。
それは、パール・バックさんの『大地』(1931年)という小説なんだよ。彼女はアメリカ人だけれど、幼いころ、宣教師の両親と一緒に中国に渡り、そこで成長して小説を書き続けたんだねえ。
後にノーベル文学賞も受賞している。
 
僕は『土』と『大地』を大昔に読んだけれど、両作品から受けた感覚が共通していたことを今でも覚えているよ。
2作品とも、日本と中国という国の違いはあれ、貧しい農民の現実の生活を土台にして描かれているね。話の途中で、豊かになったりはするけれど、結局、幸せにはなれない。
 
こんな、小説の筋の共通部分はあるにしても、特に僕が同じような感覚を受けたのは、2つの作品の終わり方なんだ。
どちらも、一面、苦労して読まなければならない長編だから、読み終えるときには、それなりの感慨が読者には出てくるよね。普通の作品なら、その気持ちを十分に満足させ、納得させるような終わり方をするよね。
 
ところが、『土』も『大地』も、力の抜けるような、肩透かしを食らったような終わり方をしているんだよ。
たとえて言えば、長い交響曲の終楽章で、聴衆が期待するような十分に盛り上がった演奏で終わるのではなくて、むしろ、興奮を静めるような形で終わるようなものだねえ。
 
読み終えたときは、空しさのようなものさえ感じたけれど、何十年も経った今でもなお、読者の僕が、その感覚を覚えているということは、作者の意図は的中したということだろうねえ。
まあ、君も進路が決まったなら、この『土』と『大地』を読んでごらん。骨が折れるよ。

さてと、漱石門下生の最後に、最もよく知られている作家をやっておこう。それは、
 
《芥川龍之介》さん。この人だ。
 
芥川龍之介さんは、東京出身で、大学は東京大学だね。夏目漱石さんと同じ英文学科だよ。
 
東京の当時の大学事情は、現在と同じようなもので、早稲田、慶応、東大が、張り合っていたような状態だね。それぞれの大学が文学の面においても競い合ったわけだ。
 
早稲田は、『小説神髄』の坪内逍遥さんが、中心となって、雑誌、
 
《早稲田文学》を創刊したねえ。
 
早稲田文学は、写実主義文学、自然主義文学の拠点となったねえ。
実は、前に話をした、森鴎外さんと坪内逍遥さんの論争、《没理想論争》は、坪内逍遥さんが早稲田文学の創刊号に論文、『没理想論』を掲載したことから始まったんだよ。
森鴎外さんは、反論を自分の創刊した『しがらみ草紙』に掲載して応戦したわけだ。
 
余談だけど、坪内逍遥さんは、東大出身なんだよ。だけど、卒業後は、早稲田大学の発展に尽くし、その基礎を築いた1人になっているよ。
ちなみに、早稲田中学の校長にもなっているね。
 
慶応義塾の方は、前にも言ったように、永井荷風さんが中心となって、発刊した、
 
《三田文学》があったねえ。
 
三田文学は、早稲田文学に対して浪漫主義、耽美派の牙城となったねえ。
そして東大文科系の同人誌として出されたのが、
 
《新思潮》これだ。
 
芥川龍之介さんは、新思潮に、かの有名な、
 
『鼻』大正5年(1916)を発表するんだよ。
 
夏目漱石さんは、『鼻』を読んで、激賞したねえ。それが契機で、芥川龍之介さんは、漱石門下生となったわけだ。
『鼻』は、芥川龍之介さんのデビュー作となったね。君も読んだと思うけれど面白いね。
 
「主人公の男の鼻は、異常に長い。皆から笑いものにされる。それで短く治療した。ところが今度は、短いのが異常だと笑われる。短くしたのを後悔し始めたある日、鼻が以前のように長くなる。男は安心する」
 
というような話だね。ユーモアの中に、人間の心の利己的な働きの微妙な心理を見事に表現しているね。
 
『鼻』もそうだけれど、芥川龍之介さんの作品には、古典、特に『今昔物語集』や『宇治拾遺(しゅうい)物語』などから素材をとって、書いたものが多いねえ。同じような作品に、
 
『羅生門』死人の髪を盗む老婆の論理を逆利用する盗賊。
 
『戯作三昧(げさくざんまい)』物語作者、滝沢馬琴の心境。
 
『枯野抄(かれのしょう)』松尾芭蕉の臨終時の弟子たちの心境。
 
『地獄変』高名な絵師が娘を焼き殺して描く絵。
 
などがあるねえ。これらはいずれも一見、歴史小説だけれど、テーマは、現代社会に生きる人々の心理をえぐり出したものだねえ。これが、芥川龍之介さんの歴史ものの最大の特徴だよ。
歴史的な素材を使いながらも、現実を知性、理知によって再構築していったわけだねえ。だから、芥川龍之介さんの文学流派は、
 
《理知派》(または、新理知派)
 
《新現実派》などと呼ばれるんだねえ。さらに機関誌名をとって、
 
《新思潮派》ともいわれているねえ。
 
まあ、文学史における、○○主義とか、○○派などという名称は、研究者によって微妙に違うからさあ、入試に出たときには柔軟に対応すればいいんだよ。

芥川龍之介さんは、長編よりも短編が得意だったんだよ。また、少年少女向けの童話も書いているねえ。前に出てきた、児童文学者、鈴木三重吉さん主宰(しゅさい)の『赤い鳥』にも、
 
『蜘蛛(くも)の糸』仏が地獄の罪人救済のため蜘蛛の糸をたらす。
 
『杜子春(とししゅん)』遊び暮らす息子が仙人から反省させられる。
 
などを発表しているね。
これらの作品は、面白い童話といっても、芥川龍之介さんらしいテーマは、しっかりと押さえられているね。現代や現実の話ではない素材だけれども、描かれているテーマは、まさに、現代人の心理分析にほかならないねえ。
 
こういう主観的意図のある古典もの以外にも、客観的な現代小説も書いているよ。よく、中学の教科書にも載ったりする作品に、
 
『トロッコ』少年がトロッコで不本意な冒険をしてしまう。
 
というのがあるねえ。
僕も中学で『トロッコ』を習ったよ。当時、愛媛県の南宇和郡に住んでいたけれど、ちょうど、工事現場にトロッコが置いてあって、乗って遊んだものだった。
 
その体験と小説が重なって、
「小説というのは、文字を読んでいるだけなのに、こんなにも実際に体験しているような気持ちになるものなんだなぁ」
と驚いたねえ。その新鮮な感覚は今でも心の底に残っているよ。
 
『トロッコ』を読んで、小説の魅力を初めて体験した、という少年少女たちが、非常に多いねえ。それ以来、小説を読み始めたという人もたくさんいるねえ。
 
多くの短編の名作を書いた芥川龍之介さんだったけれど、とにかく神経質なんだよ。師匠の夏目漱石さんも神経質だったけれど、弟子の芥川龍之介さんは、それに輪(わ)を掛けたような性格なんだよねぇ。
 
どの作品を読んでもそれがよく分かるねえ。完璧に近く計算された隙(すき)のない構成は、まるで数学の問題を説いているような気持ちにさえさせられるねえ。
また、文章も全く無駄のない、ぜい肉を削り取って、必要十分条件を満たしているような書き方だねえ。
こんな小説を書こうと思えば、極度に神経を研ぎ澄ましていなければできないよね。
 
10数年前だったと思うけれど、『羅生門』の下書き原稿が、発見されたんだよ。それを見ると、書き出し部分を4回以上も書き直しているのが分かるね。中には、どちらの書き方でも大差ないようなものもあるよ。それでも、芥川龍之介さんにとっては、どの書き出しにするかは大問題だったんだろうねえ。
 
夏目漱石さんのように、『吾輩は猫である』や『坊っちやん』のような作品を書いて、精神の慰めや安定を保っていればよかったんだけれどさあ、芥川龍之介さんは、そんな作品を書く性格ではなかったんだねぇ。
 
芥川龍之介さんにとって小説を書くことは、精神をすり減らし、命を削るようなものだったんだ。
創作活動を続けているうちに、胃かいよう、腸カタル、神経衰弱、不眠症などに悩まされ続けることになるんだよ。
 
そして、年を追うごとに、精神も肉体もボロボロになっていってしまうんだ。
結局、多量の睡眠薬を飲み、自らの人生を自らの意志で終わらせてしまったねえ。
最後になった次の2作品は、自殺する前の精神状況が、見事に表現されているよ。1つは、
 
『河童(かっぱ)』昭和2年(1927)これだ。もう1つは、
 
『歯車』これだ。
 
『河童』は、カッパの世界を描くことによって、人間社会を厳しく批判したものだよ。
『歯車』は、死後、3カ月ほどして、遺稿として発表されたものだ。死を目前にした心の風景が、筋もなく新鮮に描かれた小説だねえ。研究者の中には、芥川龍之介さんの最高傑作という人もいるねえ。

芥川龍之介さんは文学者らしく、自らの自殺を、どのように考えていたのかということを明確に書き残しているよ。
それは、入試には出ないけれど、遺書として書かれた、『或旧友へ送る手記』という作品だよ。これは、芥川龍之介さんが自らの死を、理性と感情で正当化し、肯定した内容になっているねえ。
 
まあ、受験生の君は、『歯車』や『或旧友へ送る手記』は、読まない方がいいよ。死にたくなったら困るもの。
いやいや、君は、賢明な受験生だから、そんなことはないと思うけど・・・
 
気が重くなるけれど、芥川龍之介さんの自殺をしたときの様子を、新聞記事を通して見てみようかねえ。
 
《芥川龍之介氏・劇薬自殺を遂(と)ぐ・昨晩滝野川の自宅で・遺書4通を残す》
 
《その日は一日中、書斎にこもり、氏が文壇生活の絶筆として、雑誌『改造』執筆の『西方の人』、『文芸的なあまりに文芸的な』を書き、さらに、諸氏にあてた遺書を書き、夕食の卓では、ふみ子夫人や3児とも楽しく談笑したる後、またも、書斎に引きこもったのであった。
 
書斎で氏は、聖書を読みふけっていたもののごとく、午前1時ごろ、劇薬を飲み、足音静かに階下の寝室に入り、寝衣(ねまき)に着替え、床につかんとした際、すでに3児とともに熟睡していたふみ子夫人は、ふと、目を覚まして声をかけると氏は、
「いつもの睡眠薬を飲んだ」
と低い声で答え、床の上に横たわった。
         (中略)
翌24日は午前6時ごろ、夫人が目を覚ましてみると、夫の呼吸が非常に切迫し、顔色は鉛のごとく青く沈んで、容易ならぬ状態らしいので、驚いて、下島医師を迎え、直ちにカンフル注射、その他の手当てを加えたが、すでに及ばず、同7時、ついに永眠したのであった》
 
こんなところだね。35歳のことだよ。
記事中にある、『文芸的なあまりに文芸的な』は、教科書に掲載されたり、入試にも時々顔を出しているねえ。この評論は、谷崎潤一郎さんとの文学論争なんだよ。
 
よく知られていることだけれど、芥川龍之介さんの母親は、彼が生後7カ月のころに、精神に異常をきたして、彼を育てることができなくなるんだよ。そして、11歳のとき、亡くなってしまうんだね。
芥川龍之介さんは、この母親の精神の異常さを自分も遺伝として引き継いでいると思っていたんだねえ。
そして、いつか、母のようになるに違いないという不安に、生涯、さいなまれていたんだよ。
 
芥川龍之介さんは、非常に優秀な新進気鋭の作家として、当時の人々からから大きな期待をされていたねえ。
だけど、1人の人間の人生として見て、幸せだったのか、不幸だったのかというと、答えは、不幸としか言いようがないねえ。
 
また、自殺は、本人も不幸だけれど、残された遺族は、もっと長期間にわたって、心に深いしこりを残すことになるねぇ。
 
僕も親しい人を4人も自殺で亡くしたよ。
その中の1人は、妻のお母さんだよ。
当時は、妻の実家の近くに僕たち一家も住んでいたんだ。息子が、おばあちゃんの家に遊びに行って、ベランダで首を吊っているおばちゃんを発見したんだよ。
 
息子の叫び声のような電話を受けて、僕も急いで実家へ行ったよ。そして、ぶら下がっている義母を下ろして、部屋の中に寝かせた。
すでに、体は冷たくなっていたけれど、僕は人工呼吸を施(ほどこ)そうと思って、心臓のあたりを両手で強く押したんだ。
その時だったよ。義母の鼻の穴から2つの白いものが飛び出したんだ。
 
よく見るとそれは、脱脂綿を丸めて鼻の穴の中に詰めていたものだったよ。
義母は気丈(きじょう)な人だった。首を吊ったあと、鼻汁などが出たりして見苦しくならないように準備をしていたんだねえ。
 
もう、20年近くも前のことだけれど、このことが話題になりかけると、妻は口をつぐんでうつむき、息子は、顔をこわばらせて、困惑した表情になるよ。
 
深い悲しみを、この世に残る人に与え続けるような行為は、絶対にしてはいけないねえ。
 
芥川龍之介さんの自殺は、マスコミでも大きく取り上げられ、世の中に大変な衝撃を与えたよ。その中でも特に、同じ仲間である『新思潮』の同人にとっては、親友の死であっただけに計り知れない衝撃だった。
 
この新思潮派の中は、芥川龍之介さん以外にも優れた作家がいたねえ。例えば、
 
《菊池寛(ひろし)》さん。代表作は、
 
『恩讐(おんしゅう)の彼方(かなた)に』これだ。次の作家は、
 
《久米正雄(くめまさお)》さん。代表作は、
 
『破船(はせん)』これだ。さらに次の作家は、
 
《山本有三(ゆうぞう)》さん。代表作は、
 
『女の一生』これだ。
 
『恩讐の彼方に』『破船』『女の一生』これらの作品は、いずれも読者を十分に満足させ、感動させてくれる小説だよ。
まあ、受験でも終われば、のんびりと読んでごらん、面白いよ。
特に僕は、山本有三さんの『女の一生』には感動したねえ。フランスの作家モーパッサンさんの『女の一生』とダブって、若い僕の心に新鮮な女性観が生まれたねえ。
 
また、『恩讐の彼方に』の菊池寛さんは、戯曲『父帰る』の作者としても有名だったけれど、芥川龍之介さんとは、写真などにもよく一緒に写っている親友中の親友だったねえ。
自殺記事に《遺書4通を残す》とあるけれど、このうちの1通は、菊池寛さんに当てられたものなんだよ。

菊池寛さんは、文学者であると同時に、出版社などを経営する事業家でもあったんだ。
それで、若い無二の親友、芥川龍之介さんが自殺したのを悼(いた)んで、なんとか、後世に彼の名前を残そうと考えたんだよ。
 
そこで創設されたのが、〝芥川賞〟という文学賞なんだよ。昭和10年(1935)のことだ。芥川龍之介さんが亡くなってから8年後のことだね。
 
芥川賞についてはいまさら説明するまでもないけれど、わが国の最も権威ある文学賞のひとつとして、現在も続いているねえ。
芥川賞は、芥川龍之介さんと菊池寛さんとの友情の結晶だったんだねえ。
 
僕の知り合いの中で、これまでに2人の方が、芥川賞を受賞しているよ。
ひとりの方は、学歴が中学卒業なんだよ。中学を卒業して、新聞配達をしながら、必死になって小説を書いたんだねえ。そして、地方の新聞の文学賞を受賞して、それが芥川賞につながったんだよ。
受賞作は、映画化もされたね。
 
20年ほど前までは、毎年、会って、いろいろと話をする機会があったんだけれど、このところ、まったく、会うことも連絡を取り合うこともなくなっているよ。
タバコが好きな人で、話をしているうちでも、一本、吸い終えると、すぐにまた、次の新しいものに火をつけるといった具合いだったねえ。
あんなにタバコを吸って、今も健康でいるんだろうか心配だよ。
 
もう1人の方は、今も何カ月かごとに、お会いするよ。精神的な弱さと戦いながら、次々と名作を発表しているねえ。優しい表情や言葉遣いからは想像がつかないけれど、内面での葛藤は、すさまじいものがあると思うねえ。
その見えない自己との苦闘に打ち勝っているからこそ、優れた見える作品として創造されるんだろうねえ。
 
やれやれ、これで、理知派・新現実派は終了だ。
 
次は、反自然主義として、最後の流派をやろうね。
それは、白樺派だよ。