オチケン風『日本文学史』近現代Ⅰ【明治後期】(小説・評論)〈9〉【自然主義文学】

 
やがて日本は、日露戦争(明治37年《1904》)へと突き進むことになるねえ。この戦争の前後に、文学界には自然主義の風が、大きく吹きまくることになったねえ。
 
ここで、日本の自然主義文学を勉強する上で、しっかりと押さえておかなければならないことを話しておくよ。
 
もちろん、日本の自然主義文学も、西洋の自然主義の影響を受けて
出てきたことは間違いないよ。特に、ほぼ同じ明治時代にフランスで活躍していた小説家、エミール・ゾラさんの影響が大きかったねえ。
ゾラさんの考えは、例えば、自然に対する見方で考えてみるよ。
 
自然というのは、本来、良い物とかは悪い物とか、美しい物とか醜い物とか、そんな価値判断をつけるものではない。それらは、自然に対して人間が感情移入して、人間の感情との関係性の中で、評価されたものだ。自然自体は、当然ながら、人間を意識して存在しているわけではない。あるがままの姿でしかないのだ。
 
小説もそれと同じく、自然でなければならない。人間が作為的に作った評価基準でものごとを見て、良いとか悪いとか、美しいとか醜いとか、という主観を入れて表現すべきではない。どこまでも、あるがままの自然の姿をそのまま表現することが、最も大切なことだ。
 
まあ、おおざっぱな話だけれど、こんなところだろう。
この見方からすれば、国木田独歩さんの自然描写などは、自然主義の先駆だったと言える訳だね。
 
人間に対する見方も、同じだ。
 
人間には本来、動物の側面がある。また、人間のあり方は、遺伝的な影響と、環境に影響されて形成される。その中には、暗い欲情や暴力なども、当然、存在している。それらも、客観的科学的に、事実をありのままに描写すべきである。
 
ということだね。
ゾラは、自然主義の理論書として『実験小説論』を書いているよ。その中でゾラは、小説を単なる、観察と記録の表現にとどめるのではなく、医学が厳密な実験的方法によって発展するように、作品の中の記述は、科学的な実験結果に基づくような記述であるべきだ、とも書いているね。
 
坪内逍遥さんや二葉亭四迷さんによって提唱された写実主義をさらに、科学的医学的な検証をしながら、深化させていったものだねえ。
 
この、フランスのゾラによって起こされた本来の自然主義の流れを日本で受け継いだ文学者が当然出てきたよ。
あまり、入試には出てこない作品名だけれど、記念碑的なものだから挙げておくよ。まず、
 
《小杉天外(こすぎてんがい)》さんの、
 
『はつ姿』『はやり唄』こんな作品だ。次に、
 
《永井荷風(かふう)》さんの、
 
『地獄の花』これだ。さらに、
 
《田山花袋(たやまかたい)》さんの、
 
『重右衛門(じゅうえもん)の最後』これだ。
 
これらの作品はいずれも、ゾライズムと言えるような流れの中に位置づけられる作品だね。どの作品も、
「ゾライズムは、きれいごとではない」
ということを納得させられるような作品だね。特に『地獄の花』『重右衛門の最後』は、読んでおもしろい小説だよ。いつものことだけど、暇があれば読んでごらん。
 
ところで、これらのゾライズムの流れを汲(く)んだ作品は、日本の自然主義の主流とはならなかったんだねえ。
やがて、ヨーロッパの自然主義と日本の自然主義とを衝撃的に分離してしまうような作家と作品が発表されることになったんだ。
それが、明治39年(1906)に出てきた、
 
《島崎藤村》さんの長編小説、
 
『破戒(はかい)』これだ。
 
簡単に粗筋(あらすじ)を書いておこう。
 
(梗概)
「主人公の小学校教員、瀬川丑松(うしまつ)は、被差別部落出身者だ。父親からは、そのことは絶対に誰にも言うなと口止めされていた。もし知られると、部落差別の激しい偏見から、社会的に抹殺されるからだ。
 
しかし、彼は、被差別部落出身者の開放運動家の友人と心が通じ合うに従って、自分が出自(しゅつじ)を隠して生きていることに対して、卑怯な恥ずべきことである、と悩み始める。
そしてついに、父親の戒(いまし)めを破って、教室の生徒の前で、自分の出自を告白する。
 
純粋で誠実な生き方をしようとして告白したのだが、世の中はそれほど甘くはなかった。根強く残る偏見の意識を持った地域の人々は、彼を受け入れようとはしなかった。
彼は、偏狭な土地を去り、潔く海外に向かって旅立ってゆく」
 
まあ、こんな内容だねぇ。《戒》というのは、仏道修行の中で決して、為してはいけない禁止事項のことだね。戒律というんだ。それを破れば、僧として、修行者としての資格を失うことになるんだよ。
『破戒』ではそれを被差別部落出身ということに相当させているわけだね。

被差別部落はどうしてできたのか。近世を中心にして、社会的、政治的に作られたものだねえ。言うまでもなく人為的なものだ。目的は、権力者が、自らの権力を維持するために考え出した非人道的な方法だよ。
 
それを成立させている根拠は、人間の愚かな心理作用だねぇ。
どのような作用かといえば、人は、自分よりも劣って惨めな人間を見ると、優越感、満足感、幸福感を感じるというものだね。
この心理をうまく利用して、為政者が民衆の不満を解消させて、自らの権力を守ろうとして、作り上げたのが被差別部落だね。
 
近世の身分制度で見れば、士農工商という強制的に決められた身分の中で生活するとさまざまな不満が出てくるよね。特に厳しく税を取り立てられる農民などは、為政者への不平不満が蓄積してくるわけだ。
 
そんな時、自分たちよりも、はるかに惨めな生活を強いられている、エタ非人という、四民の身分制度にも入らない被差別部落民を目(ま)の当たりにさせ、蔑(さげす)みの感情と同時に幸福感を感じさせたわけだ。それで結果的に、権力者への不満が薄れて、反権力の行動を抑えることができたわけだね。
被差別部落を作るということは、実に巧妙な心理作戦から出てきた保身の政策だったわけだ。
 
現在でも、某国などは、よくこの手を使うねえ。国の最高権力者は、国内で自分への批判が高まって地位が危うくなったりすると、意図的に外国に対して敵がい心をあおるようなキャンペーンを張るわけだ。さらに今にも、敵が攻めてきそうな情報を流したりするんだね。
そうすることによって、自分への批判の矛先を他国に向けて、立場を守ろうとするんだねえ。
 
日本の被差別部落の存在は、向けさせる目の方向を外国ではなく、自国の身分制度の外に設定することによって出てくる効果を狙ったものだったわけだ。
 
その効果を高めるためには、被差別部落民の生活をできうる限り、惨(みじ)めなものにする必要があったわけだね。そこで、さまざまな非人道的な人生を決定づけるような差別を強制したわけだよ。
 
その後、明治4年(1871)にエタ非人の呼称は廃止され、平民の中に入れられたんだねえ。
だけど、根強く植え付けられた偏見からくる差別意識と、差別事象は、現在まで続いているというのが現実だ。
 
まして、島崎藤村さんの『破戒』が出版された明治39年のころは、被差別部落出身者であるということが知れると、社会から抹殺されるほどの差別を受けることになったわけだねえ。
それを主人公に、あえて告白させるという小説の構成こそが、日本の自然主義文学の出発になったわけだ。
 
だから、島崎藤村さんの『破戒』の事を、
「日本における自然主義文学の最初の作品である」
と評価する考え方もあるんだよ。
 
もともと島崎藤村さんは、北村透谷さんが中心となって発刊していた浪漫主義文学の文芸誌『文学界』に浪漫的な詩を発表していたんだよ。詩集としても優れたもの多く出しているねえ。
だけど、詩作では生活費は稼(かせ)がれず、教員などをしながら生計を立てていたが、極貧の生活だったんだねえ。
この時期に、3人の娘さんが、栄養失調で亡くなっているよ。
 
それで、小説であればお金を稼げるだろうというのも一つの理由で、『破戒』を書いたわけだ。『破戒』は自費出版したんだけれど、評価はたいへん高く、すぐに完売になったねえ。さらに、これによって島崎藤村さんの自然主義小説家としての立場を世の中が認めることにもなったわけだね。
島崎藤村さんは、『破戒』を発表した後も、次々と長編小説を発刊したねえ。それが、
 
『春』
 
『家』
 
『新生』これらだ。
 
この3作は、日本の自然主義文学の代表作品になったよ。『春』『家』『新生』のことを、島崎藤村のさんの3部作というんだねえ。
いずれの作品も、作者自身の実際の人生を基本にしたもので、
 
《私(わたくし)小説》といわれる分野の幕開けにもなったよ。
 
特に『新生』は、島崎藤村さんの実体験をもとにしたものだったねえ。
藤村さんは、38歳の時、子供4人を残して妻を亡くしてしまうんだ。見かねた兄が娘を子育てや家事の手伝いに、藤村さんの自宅に住み込ませるんだね。ところが、その姪(めい)と肉体関係ができてしまって、子供まで孕(はら)ませてしまうんだよ。
 
この事実を告白する内容を小説化したわけだねえ。しかも、新聞の連載小説にしたものだから、世間の大変な注目を集めることになったわけだ。
 
これらの島崎藤村さんの小説によって、日本の自然主義の方向性が決まったといえるだろうねえ。
その最大の特徴は何かといえば、本来、他人には決して知られたくないこと、隠しておきたいことをあからさまに小説に書く、ということだねえ。

ここから日本の自然主義文学は、
 
《暴露小説》
 
《心境小説》といわれる性格を持つようになったわけだねえ。

さらに、書いている内容が、作者本人の自伝的な内容であったので、《私小説》の方向へと向いていったわけだよ。この方向性は、一時的な自然主義文学の流行にとどまらず、その後の日本の小説界の大きな流れとなってしまったねえ。
 
私小説の傾向性によって、日本の小説界には、社会や世界をテーマに据えたスケールの大きな作品が出現しづらい状況になったことは否(いな)めないねえ。
例えば、ロシアの作家、トルストイの長編小説『戦争と平和』(1869年)のような遠大なテーマと構成によって書かれるような小説が、日本では発達するのが難しい文学状況になったわけだねえ。
 
ところで、日本の自然主義文学・・・ああそうそう、煩雑(はんざつ)なので、これからは単に自然主義文学というように書くよ。
自然主義文学は、他の文学主義と同じように、その当時の文学界の状況に対峙(たいじ)する形で現れていることは間違いないねえ。
 
どういう事かというと、自然主義が出ようとしていた頃の文学界の状況は、浪漫主義文学が世の中の流行の先端を走り、もてはやされていた時だねぇ。それに対して、自然主義文学者は、
 
「そんな、きれいごとを書いたって、人間の真実の姿が表現できるわけがないだろう。人間には、汚い面が、いっぱいあるじゃないか。表に出したくない、汚い面を書いてこそ初めて、真実の姿が表現されるのだ。人間の自然の姿というもの中には、当然、醜悪な面があるわけだ。それを書かなければ、本当の人間を描いたことにはならないだろう」
 
というような批判的な立場に立ったわけだねえ。さらに、
 
「多くの信者の前で、理想的な人生の生き方を説法する、最高位の役職の僧侶が、実は、夜な夜な、公園で覗き見をするのが趣味だった。などということは、よくあることだ。この僧侶を描くのに、覗き見をする姿を描かなければ、真実の姿を描いたとはいえないじゃないか」
 
そしてまた、
 
「女神のような絶世(ぜっせい)の美人がいたとする。その女性が、いくら理想的な美しさをたたえていたとしても、朝起きたら、便所で臭いウンチをするではないか。それに、どんなに優れたプロポーションをしていたとしても、大腸の中には臭いウンチが大量に詰まっているではないか。臭いウンチのことを書かずして、その女性を描いたならば、それは、真実の自然な姿ではなく、偏頗(へんぱ)なとらえ方と言えるだろう」
 
まあ、基本的には、こんな考え方だねえ。
現在の文学状況では、こんな自然主義の主張は、特に珍しくも何ともないよね。ただ、この当時の小説の状況からすると、あっと驚くほどの新鮮さがあったわけだよ。
だから、明治40年(1907)代には、自然主義の全盛期を迎えることになるんだよ。
 
島崎藤村さんに続いて、自然主義文学の隆盛に大きな力となった作家に、
 
《田山花袋》さん。この人がいるよ。
 
田山花袋さんは、始めのころは、浪漫主義文学の牙城『文学界』に悲恋物語りの短編などを書いていたんだよ。だけど明治35年(1902)に『重右衛門の最後』を発表するあたりから、西洋のゾライズムに傾倒(けいとう)していったわけだ。
そしてさらに、日本の自然主義文学の推進役となったんだよ。
 
田山花袋さんは、小説作品を書くことに加えて、自然主義文学の理論家にもなったねえ。その代表的な評論が、『露骨なる描写』だ。この理論をもとに明治40年(1907 )に書いた作品が、
 
『蒲団(ふとん)』これだ。
 
『蒲団』は、田山花袋さんの実体験を素材にして書かれたものだねえ。
 
(梗概)
「妻子のある中年作家が、小説家志望の弟子として自宅に住まわせていた女子学生に、恋心を募らせる。しかし、彼女に恋人がいることを知り、破門にする。中年作家は、虚(むな)しい思いをその女子学生が寝ていた蒲団に顔を埋めて慰める」
 
まあ、こんな内容だね。現実暴露の告白小説というわけだ。『蒲団』は、社会に対して非常なショックを与えるとともに、田山花袋という作者を自然主義作家として世の中に、高い評価を持って、認めさせる作品となったねえ。
 
姪と近親相姦になったことを告白した島崎藤村さんの『新生』と田山花袋さんの『蒲団』は、自然主義文学の黄金時代をつくる先駆になったと同時に、自然主義文学の方向を確定してしまったとも言えるよ。
まあ、なにはともあれ、島崎藤村さんと田山花袋さんは、浪漫主義全盛時代に終わりを告げさせ、新たな自然主義文学の潮流を作り上げた偉大な作家と言えるだろうね。
 
田山花袋さんは、この後も多くの作品を発表するけれど、入試によく出てくる作品としては、
 
『田舎(いなか)教師』これだ。
 
『田舎教師』は、僕自身が教師だったせいかもしれないけれど、しみじみと味わい深く読ませられる作品だね。当時の〝教師〟というイメージに少なからず変化を与えただろうね。
主人公の教師が、絶望と孤独のなか、日露戦争会戦の遼陽(りょうよう)陥落祝賀会の日に、戦死者のことを思い出しながら、肺結核のために死んでゆく姿には、他人事とも思えぬ共感を呼ぶねえ。

さあ、それじゃ、後は、簡単に自然主義作家の代表的な人を2人見ておこう。
まず、その1人は、
 
《正宗白鳥(まさむねはくちょう)》さん。この人だ。代表作は、
 
『何処(どこ)へ』そして、
 
『泥人形』これだ。
 
もう1人は、尾崎紅葉さんの門下で育ち、やがて、自然主義作家として活躍した、
 
《徳田秋声(しゅうせい)》さん。この人だ。代表作は、
 
『新所帯(あらじょたい)』これだ。そして
 
『黴(かび)』さらに、
 
『あらくれ』だ。
 
これら5つの作品は、もし今、君が読んだとしたら、つまらなくて途中で止めてしまうだろうねえ。そんな小説だけれど、自然主義の隆盛期を飾った作者と作品なんだね。
しっかりと覚えておこう。