オチケン風『日本文学史』近現代Ⅰ【明治後期】(小説・評論)〈8〉【浪漫主義文学】②文学界
 
森鴎外さんは、評論雑誌《しがらみ草紙》を刊行したり、また、『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』『即興詩人』を書いて、浪漫主義を大いに啓蒙したね。
 
森鴎外さんを先駆として、やがて、本格的な浪漫主義文学の文芸雑誌が出て来ることになるよ。それが、明治26年(1893)に、創刊された、
 
《文学界》これだ。
 
浪漫主義文学を語る時には、この文芸雑誌《文学界》を外すことはできないねえ。そのくらい、《文学界》は、浪漫主義文学の発展に大きな役割を果たしたんだねえ。
《文学界》は、廃刊や再刊をしながらも、現在の月刊文芸雑誌《文学界》まで、ほぼ、その流れが続いているといっていいだろうね。
 
現在の《文学界》は、数少ない純文学中心の雑誌で、文学界新人賞の受賞者が、芥川賞受賞につながった作家はずいぶん多くいるねえ。
 
明治の浪漫主義の牙城となった《文学界》を中心的に発展させたのは、
 
《北村透谷(とうこく)》さん。この人だ。
 
北村透谷さん以外に、《文学界》で活躍した文学者を挙げておくと、
 
《島崎藤村》さん。
 
《上田敏(びん)》さん。
 
《田山花袋(たやまかたい)》さん。
 
《樋口一葉》さん。
 
《柳田国男(やなぎだくにお)》さん。
 
などの人々だ。どの人をとっても、後の日本の文学に大きく影響を与えた人ばかりだねえ。
偽擬古典主義の樋口一葉さんも、浪漫的な内容の作品を《文学界》に発表していたんだよ。
 
柳田国男さんなんて、後に超有名な民俗学者となったけれど、この人も学生時代には、《文学界》に詩などを発表していたんだよ。
これ以外にも、本当に多くの優れた文学者が、《文学界》に関係をしていたねえ。

こうして、こんなに多くの人材が《文学界》に集まってきたか。それは、中心人物の北村透谷さんの情熱に引き寄せられたといえるだろうね。
北村透谷さんは、《文学界》創刊までには、詩集として、
 
『楚囚之詩(そしゅうのし)』
 
『蓬莱曲(ほうらいきょく)』などを発表していたね。
 
どちらも場面設定が異色な詩で、特異な詩人としての才能を伸ばすことができるように思えたねえ。
だけど、《文学界》が発刊されてからは、強烈な評論文で、浪漫主義文芸理論の指導的な役割を果たすようになったんだ。代表作は、
 
『人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ』これだ。
 
長い題名で、どんな意味なのか分かりにくいねえ。この評論は、山路愛山(やまじあいざん)さんという論敵との論争として書かれたものなんだよ。
「文学が人生にかかわるというのはどのような意味か」
というくらいのことだねぇ。
 
愛山さんは、文学は、文章を通して世の中に、生活に直接役に立つものだ、と主張している。それに対して、北村透谷さんは、文学はそんな現実の生活に直接役立つものではなく、人間の永遠の生命に到達させるものである、と反論しているんだね。
 
この論争も、森鴎外さんと坪内逍遥さんが行った《没理想論争》と同じように長期間にわたっているよ。
 
さらに、北村透谷さんは、浪漫主義文学の哲学的バックボーンになるような評論を書いたねえ。それが、有名な、
 
『内部生命論』これだ。
 
内容を少しだけ説明しておくよ。
人間の存在の根本には内部生命がある。それは、単なる個人的なものではなく、宇宙や神に通じるものだ。哲学や文学や宗教も行き着くところは、内部生命にほかならない。
だから、哲学や宗教は内部生命の観察である。
 
文学上の写実派とは、内部生命を客観的に観察するものだ。浪漫派とは、内部生命を主観的に観察するものだ。この内部生命を指向しないものは、真の文学ではない。
 
こういうところがあるねえ。
ここで北村透谷さんは、写実主義の坪内逍遥さんと浪漫主義の森鴎外さんが論争した没理想論についての解決の道を示しているわけだね。2人の立場をアウフヘーベン(止揚)した方向が示されているところなどは、北村透谷さんの思索の深さがうかがえるよね。

ここまで見てくると、同じ浪漫主義だけれど、森鴎外さんと北村透谷さんでは、その内容に違いがあることがわかるね。
入試には出てくることはないけれど、2人の違いに少しだけ触れておくよ。
 
森鴎外さんは、ドイツ美学をもとに、日本の低レベルと思える文学界に確固たる浪漫主義文学を確立しようとしたんだねえ。
それに対してして、北村透谷さんは、イギリス浪漫主義の影響を受けながらも独自の哲学性から新たな浪漫主義文学を創造しようとしたんだよ。
 
こんな違いがあるところから、北村透谷さんの方を〝文学界派浪漫主義〟と言ったりすることもあるんだよ。
 
また、文学運動として見た場合、森鴎外さんの方は、医者として働くかたわら、1人の優れた知性を持った文学者として、個人的な活動として浪漫主義を啓蒙したといえるだろうね。
それに対して、北村透谷さんの方は、浪漫主義運動に人生のすべてをささげて、多くの同志とともに世の中に広く、運動を展開しようとしたんだね。
 
北村透谷さんの生き方には、多くの文学者が敬意を表したけれど、あまりにも過激過ぎて、部外者からは、冷たく見られていたねえ。
また、北村透谷さんは、自らの現実の生活や生き方にまで、自己の信念を修行のごとく、貫き通したので、体も精神も衰弱していかざるを得なかったんだよねぇ。
 
北村透谷さんが、亡くなったときの新聞記事は次のように書いているね。
 
北村透谷氏・神経病の果ての縊死(いし)
 (明治27年5月17日付)
女学雑誌及び文学界等にて才筆家の名を博したる透谷北村門太郎氏、昨冬より神経病にかかり、芝公園第20号第3号地の僑居(きょうきょ)にありて、養生中なりしところ、ついに、一昨夜、病のために変死せり。享年二十七、氏は神奈川県の士族にいて、性質純潔、学識宏博(こうはく)なりしに、一朝、病のために夭折(ようせつ)す。嗚呼(あゝ)、惜むべし。
 
こんな記述になっているねえ。
明治27年5月といえば、2カ月後には日清戦争の開戦となる時期だね。北村透谷さんは、平和主義者として日清戦争には反対をし続けていたんだよ。
 
縊死というのは、首つり自殺のことだ。享年二十七というのは、葬儀用の数え方で、実際には25歳で亡くなっているんだね。
まさに夭折、若死だったけれど、北村透谷さんの精神は、後続の島崎藤村さんなど多くの文学者に大きな影響を残したねえ。

さてと、これで一応、《文学界》についての話は終わりにしておくよ。
続いては、浪漫主義文学の運動というような、組織だった流れの中には入らずに、個人的な創作活動を通じて、浪漫的な作品を書いた作家の人を見ていこうね。
 
いつの時代も同じだけどさぁ、世の中の文化の流れというものは、ひとつの主流の流れがあれば、それに対する反主流の流れが出てくるものだねぇ。そしてまた、主流や反主流とは関係なく、独自の立場に立って活躍する人もいるものだね。
 
この3つの流れが、時にはバランスを保ちながら、時には激しくぶつかり合いながら、時の経過と共に変化していくというのが、文化の流れだねえ。
 
独自の立場で浪漫的な歴史小説を書いた人がいるよ。それは、
 
《高山樗牛(ちょぎゅう)》さん。この人だ。代表作品が、
 
『滝口入道(たきぐちにゅうどう)』これだ。
 
『滝口入道』は、新聞に連載された悲恋物語りで、恋を捨てて出家した滝口入道の、入水自殺するまでの物語が書かれているねえ。全体的に浪漫的香の高い作品になっているよ。
 
高山樗牛さんは、小説家としては『滝口入道』、これ1作を書いただけなんだよ。逆に、後には文学博士にもなった評論家として、大活躍をし、多くの評論を書いたね。それで、明治30年代の論壇で、指導的立場を築いたよ。
その浪漫的評論は、後の文学者に多くの影響を与えたんだねえ。
 
将来の活躍が期待される新進気鋭の論客だったけれど、樋口一葉さんと同じように、肺結核で、31歳の若さで亡くなってしまったねえ。
 
次に独自の立場で活躍をした作家として挙げる人は、
 
《泉鏡花(いずみきょうか)》さん。この人だ。
 
泉鏡花さんは、前にも話をしたけれど、擬古典主義の硯友社で活躍した尾崎紅葉さんの弟子だね。泉鏡花さんは、紅葉門下の出ではあったけれど、擬古典主義ではないよ。むしろ、それを批判する立場から出発しているんだね。
 
泉鏡花さんが初期に活躍したのは、日清戦争後のことだね。
日清戦争は、文学状況に、一つの変化をもたらしたことは間違いないねえ。
それは、日清戦争勝利によって国民が自信を持ち、資本主義が大きく発展する中で、貧富の格差などさまざまな社会問題が出てきたことだ。それが、深刻な問題として文学にも取り入れられようとされたことだね。
 
それまでの小説といえば、どちらがといえば、社会問題をテーマとするのではなく、個人の生き方や、恋愛を取り上げていたねえ。ある意味で、小さな感動を呼ぶようなものだったわけだ。
日清戦後の社会の変化とともに、小説は、男女や個人的な人々の、狭い世界を書いているだけでは、時代の要求に応えられなくなっていったんだねえ。
そこで出てきたのが、
 
《深刻小説・悲惨小説・観念小説》これだ。
 
これらのジャンルの小説は、小説界の現状への厳しい批判から出発しているねえ。
 
「小説を女子中学生の恋愛ごっこや、遊び道具、お笑い芸能にしておいてよいのか。もっと、社会や人間の根本の矛盾を見据(みす)えて、物事の本質を表現するところに、真実の小説の使命があるのではないか」
 
というわけだ。それで、テーマを社会的なもの、人間の存在の本質的なものにまで拡大し、小説の可能性を追及したんだね。
 
この深刻・悲惨小説の旗を掲げたのが、
 
《広津柳浪(ひろつりゅうろう)》さん。この人だ。代表作は、
 
『黒蜥蜴(くろとかげ)』これだ。
 
さらに、観念小説として出できたのが、
 
《川上眉山(かわかみびざん)》さん。この人だ。代表作は、
 
『書記官』これだ。
 
そして、泉鏡花はさんも、観念小説作家としてここに顔を出しているね。代表作は、
 
『夜行巡査』これだ。さらに、
 
『外科室』これもだ。
 
これらの作品に共通することは、作り上げた物語は深刻で悲惨だということだね。その中で、同じ悲惨で深刻な内容をだけれども、川上眉山さんと泉鏡花さんの作品には、作者の、テーマに対する問題提起が付け加えられていることだねえ。
 
その表現方法は、付け焼き刃のような気もしないではないけれど、少なくとも、それまでの小説のテーマとは比べものにならないくらい深刻なものであることが分かるよ。
この、筆者の思いが作品に書かれているところから〝観念小説〟と名称をつけたんだね。

余談になるけれどさあ。この〝観念小説〟という分類名称の付け方は、なんていうのか、呆れてしまうほど、単純だねぇ。
それでも、難関大学の入試には出てくるから、覚えておこうね。
 
広津柳浪さんの『黒蜥蜴』、川上眉山さんの『書記官』、泉鏡花さんの『夜行巡査』・『外科室』、これらの作品は、どれもたいへん面白い小説だよ。君も時間があれば読んでごらん。十分に満足できると思うよ。
 
ここでは、『外科室』の粗筋(あらすじ)だけ話しておこうかね。
 
泉鏡花『外科室』(梗概)
ある日、ある男とある女が、植物園を散歩しているときに偶然すれ違う。男は一目で女に心をひかれ、忘れられない人となる。男は、1度すれ違っただけの女に恋いをして、その後も結婚せずに暮らして、医者となる。
 
数年後、その男の勤務する病院に、その女が胸の病気のために入院してきた。そして、男の執刀で、胸の切開手術を受けることになる。男も女も、あの時、植物園で顔を合わせたもの同士だということに気がつく。
 
女はすでに結婚もして子供がいた。女は、自分への思いから、その医師になった男が、結婚もせずに独身を通していることを知る。
 
女は、男が自分を治療してくれているときに、夫やその他の付き添いの人のいる前で、メスを持っている男の手に、自分の手を添えて自殺を図る。
 
男は、それに感動して、女が息を引き取った日に、自分も毒薬を飲んで自殺をする。
 
まあ、こんな筋だなあ。それまでの小説には無かったような深刻なテーマが提起されているわけだねえ。
 
僕は、広津柳浪さん、川上眉山さん、泉鏡花さんたちが、当時の、浅薄で娯楽のみを目的にした小説界に対して、怒りにも似た反発心を抱いていた気持ちがよく分かるんだよ。
 
それはちょうど、現在の日本の小説界の状況と合致するところが多いからなんだ。
 
今、出版業界は、不況のどん底だよ。要するに、本が売れないんだねぇ。その中でも特に、小説は売れない。
どうして、これほど売れなくなったのか。その理由は簡単だよ。お金を出して買うほどの値打ちのある小説が少なくなってしまったからだねえ。
 
さらにそれじゃあ、どうして良い作品が少なくなったのか。これも答えは簡単だ。出版社が金儲(もう)けばかりに走って、良い作品を出版しなかったからだよ。
 
とにかく、今すぐに、売れる作品とはどんな小説か、と言えば、軽薄で、面白く、おかしく読める小説だよね。ちょうど、漫才を聴いているように何の苦労もなく楽しめるものだ。
出版社は、読者のこのような傾向に合った小説を出版するために、レベルの低い作家に、レベルの低い小説を書いてもらって、売り出したわけだね。しかも、華々しく宣伝をしてねえ。
 
甘いお菓子を食べたがる幼児に、好きなように、いくらでもお菓子を食べさせていたなら、やがて、若年性糖尿病のような、病気になってしまうよね。これと同じだ。出版社は読者を金儲けのために病気にしてしまったわけだ。
 
現在の状況は、好きな甘いものばかりを食べていた幼児に、甘くはないが栄養になる食物を口に持っていっても、まったく、口をつけようとしない、という状態だね。読者は、優れた小説に見向きもしなくなっているんだよ。
だから、出版不況は、出版社の自業自得(じごうじとく)と言えるよねぇ。
 
例えてみれば、今、生きている人間の楽な生活のために、環境破壊をして、未来の人のために負の遺産を残すようなものだよ。出版社は、将来の日本の文化のために、人々の心の財産となるような小説を育(はぐく)むどころか、目先の金儲けのために切り捨ててしまったわけだよ。
 
僕は、今の日本の小説界に文学主義を当てはめるとすれば、
 
《漫才主義文学》の時代と呼ぶよ。
 
漫才は僕は大好きだけれど、当然ながら、漫才と小説は違うだろう。それを今は、漫才と区別ができない状況になってしまっているんだよ。
広津柳浪さん、川上眉山さん、泉鏡花さんたちが、当時の小説界に歯がゆい思いを抱いていたと同じような思いを、現在の小説界に対して持っている心ある人々が、実は意外に多いということを出版関係者は知るべきだろうね。

愚痴(ぐち)はこのくらいにして話を戻すけれど、こんなふうに、泉鏡花さんは、初期のころは観念小説の作家として活躍したんだね。
その後、泉鏡花さんは、創作活動を続ける中で、独自の文学世界を完成することになるねえ。その作品が、明治29年(1896)から明治43年(1910)の間に書かれた、
 
『照葉狂言(てりはきょうげん)』
 
『高野聖(こうやひじり)』
 
『婦系図(おんなけいず)』
 
『歌行燈(うたあんどん)』これらの作品だ。
 
この4つの作品は、いずれも、女性美を描くことに優れているね。年上の女性に対する恋慕、芸者など虐げられた女性の美化と理想化、さらには、女性の超現実的な魔性までも見事に描いているよ。
そして、泉鏡花さん独自の神秘的、浪漫的な文学世界を作り上げているねえ。これが、泉鏡花さんを浪漫主義の中に入れる根拠だね。
 
これらの作品は、たいへん面白いので、受験生の君には余裕などないかもしれないけれど、気分転換くらいのつもりで読んでごらん。独自の世界の完成度の高さに驚かされると思うよ。
だからこそ、前にも言ったけれど、泉鏡花文学賞として、現在までも記念碑的に名前が残されているわけだね。

さてと、浪漫主義文学の最後として、自然美を浪漫的に表現した2人の作家を紹介しておこう。まず1人は、
 
《徳富蘆花(くとみろか)》さん。この人だ。代表作は、
 
『不如帰(ほととぎす)』これだ。さらに、
 
『自然と人生』これもだ。
 
徳富蘆花さんは、かの有名な、徳富蘇峰さんの弟だね。
『不如帰』は、実話にヒントを得て書いた、家族制度の欠陥をテーマにしているね。『自然と人生』は、随筆集と言えるものだけれど、その浪漫的な自然描写は、読者を引き付け、心のふるさとを思い出させるような魅力的なものだね。この作品は、大変よく売れたよ。
 
次の作家は、
 
《国木田独歩(くにきだどつぽ)》さん。この人だ。代表作は、
 
『武蔵野』
 
『源をぢ(叔父)』
 
『忘れえぬ人々』
 
『春の鳥』これらだ。
 
どの作品も、浪漫的な名文で書かれているねえ。特に『武蔵野』は、随筆だけれど、まるで、散文詩のように自然美を描いているよ。何度でも読みたくなるような作品だね。
他の『源をぢ』『忘れえぬ人々』『春の鳥』も、実に印象深い作品で、青春時代に1度読むと、一生涯忘れられないような名作だよ。
 
国木田独歩さんの作品は、教科書にもよく掲載されるねえ。入試には出ないけれど短編小説『鹿狩』は、中学の教科書に載っているし、『武蔵野』は高校の教科書に載っているよね。
 
国木田独歩さんの作品は、次に学ぶ、自然主義の文学者に少なからず影響を与えたねえ。
 
さあ、これで、浪漫主義文学は終了だ。