オチケン風『日本文学史』近現代Ⅰ【明治後期】(小説・評論)〈7〉【浪漫主義文学】①森鴎外
 
いよいよ、新年度が始まったねえ。
君は高3生になったのだろうか、それとも、浪人生になったのだろうか。どちらでも、いいじゃないか。
 
いずれにしても、あと、半年と少しすれば、早い大学では推薦入試などが始まるということは、既定の事実だね。あっという間に入試時期を迎えることになるよ。
だから、あっという間に、入試勉強すればいいわけだ。
 
日本文学史、今から勉強すれば、充分だ。頑張ってやっていこう。
そこで、今回の文学主義は、
 
『浪漫(ろうまん)主義文学』これだ。
 
浪漫主義文学の流れが出てきたのは、ちょうど、明治27年(1894)日清戦争が起こった前後のことなんだね。
日本は、非常に勢いよく、調子に乗っていた時代だね。
 
朝鮮王朝を完全な支配下に収めるために、中国の清国と戦ったわけだ。海軍も陸軍も勝利していって、日清講和条約を結ばせたわけだね。これで、日本は朝鮮はもちろん台湾までも領土にしたんだね。
 
社会に自信と活気が出てきたなかで、浪漫主義は人々の支持を得ることになるねえ。紅露時代といわれるような大流行にはならなかったけれど、地味ながらも、ひとつの文学の流れを確実にしていったねえ。
 
『浪漫主義文学』とは一体どんなものか。キーワードになりそうなは言葉を連ねてみると、
 
自由を求め
自我を主張し
理想の世界を描き
無限を求める
音楽的抒情主義
 
というくらいのところかな。なんとなく分かるような気がするね。
別の面からいえば、日清戦争頃には、明治維新という近代化への大変革期が過ぎて、近代化の意味が少しずつ消化できるようになった。そして、心理的にも余裕ができ、近代文学のあるべき姿を思索するところから出てきたものだともいえるね。
 
浪漫主義が、個人、個性、美意識の尊重という観点が、重要視されたことを考えれば、擬古典主義よりも、近代文学へ一歩深まった文学主義であることは間違いないね。
 
浪漫主義の先駆けとなったのは、
 
《森鴎外(おうがい)》さん。この人だ。
 
森鴎外さんは、本業は軍医だったけれど、ドイツ留学などを通じて吸収した近代の海外文学を日本に広く知らしめた文学者でもあったんだねえ。
 
森鴎外さん自身の書いた作品は、多くのジャンルに渡っているねえ。小説、史伝、評論、翻訳など、近代思想をもとにした作品は、いずれも秀作で、文学史上特筆すべきものが多いねえ。
 
何よりも、これらの作品を、国家公務員としての勤めを果たしながら、空いた時間で書いたのだから、驚異的と言えるよね。
 
だから、森鴎外さんは、サラリーマンの人々から、文学者とは別の意味でも、尊敬され、今でもよく読まれている作家だね。世の中のサラリーマンの人たちは、仕事だけの人生ではなく、プラス何かを人生に残したいという思いがあるんだよね。
 
森鴎外さんは、20歳で東大医学部を卒業しているねえ。そしてドイツに、官費留学生として留学した後、明治21年(1888)帰国している。それから、本業の軍医としての仕事は人一倍努力して、軍医総監という高い役職を得るまでになったねえ。
 
それにも増して、文学面でも、ドイツ留学で得た近代文学論の啓蒙に大活躍をしたんだよ。
森鴎外さんが主張した、文学論とは、ごく簡単に言えば、
 
文学は芸術であり、芸術とは美的表現をするものである。だから文学も美意識に基づいて書かれなければならない。
 
というものだね。まさに、浪漫主義だね。
この理念を広く啓蒙するために創刊した評論雑誌が、
 
《しがらみ草紙(そうし)》これだ。
 
この、しがらみ草紙は、明治22年(1889)に発刊されて、森鴎外さんが、日清戦争に出征する明治27年(1894)まで出版されたねえ。
しがらみ草紙は、単に、啓蒙思想を多く掲載したというだけにとどまらず、文学上大きな意義を持つものになったんだよ。
 
それは、〝文学評論〟というジャンルを確立したということなんだ。現在では、文学評論といえば、立派な学問分野になっているけれど、しがらみ草紙が出版されるまでは、文学評論などというものは、学問分野として市民権を得ていなかったんだよ。
それが、しがらみ草紙によって、文学評論の重要性が社会に認められる契機になったわけだ。
 
しがらみ草紙を通して森鴎外さんが主張した文学理論に、真っ向から反論する人が出てきたねえ。
その人は、『小説神髄』を発表して写実主義を唱えた坪内逍遥さんだ。
確かにこの2人の主張は、相反しているよね。
 
坪内逍遥さんは、近代小説とは、現実の人間をありのままの姿で描くことが主眼である、と主張しているね。それに対して、森鴎外さんは、現実の人間の中に、美的な芸術性を持たせて描くべきだと主張しているよ。
 
簡単に考えてみても、この2人の主張は相容れないよね。
当然のように2人の論争は、永遠と続いたねえ。誌上論争は約半年も続いたよ。
結果的に、勝敗は決まらずに、終わったね。
 
この2人の論争は、当時、大変な注目を集めたんだよ。日本文学史上、初めての本格的な文学論争とまで言われたね。それで、
 
《没理想論争》という名称までつけられたよ。
 
文学論争とは別に、森鴎外さんは、浪漫主義の理念に基づいて優れた作品を書いているねえ。それが、
 
『舞姫(まいひめ)』
 
『うたかたの記』
 
『文づかひ』これらだ。
 
いずれも、ドイツ留学での生活をヒントに書いたものだよ。この3つの作品を、森鴎外さんの、初期の三部作と呼んでいるねえ。3作とも、浪漫的香りの高い悲恋物語りだねぇ。
君も読めば、甘酸っぱい夢見心地になり、時代の壁を忘れて感動するだろうね。
 
特に、鴎外さんにとって小説の処女作であった『舞姫』は、圧倒的な人気を博したねえ。
『舞姫』のテーマに据えられたのは、明治時代における、近代知識人の自我の目覚めと、それによって発生してくる、古い官僚制度との摩擦で、苦悩する人間の姿だねえ。
 
『舞姫』は、現代文の教科書の定番のように、よく掲載されているねえ。僕は、もう何十回、授業で『舞姫』をやったことだろうか。本文を見ずに、生徒に読ませても、間違った読み方をすると、すぐに分かるくらいに覚えているよ。
冒頭文は次のようなものだね。
 
石炭を早や積み果てつ。中等室の卓(つくえ)のほとりはいと静にて、熾熱燈(しねつとう)の光の晴れがましきも徒(いたずら)なり。今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌(かるた)仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば。
 
『舞姫』の授業を最初にしたのは、今から40年ほども前だよ。その時の生徒は、この作品の文体について、特に文句を言ってきたような記憶はないねえ。
ところが、定年前ごろに『舞姫』の授業をやると、必ずといっていいほど、
「現代文に、どうして、古文が載っているのですか?」
という質問を受けたねえ。
 
確かに、その通りだねぇ。生徒にとっては『舞姫』は古文なんだね。だけど、明治の近代文学に他ならないんだから、浪漫主義文学の代表作品としてしっかり覚えておこう。

森鴎外さんは、自作のもの以外にも、ヨーロッパの浪漫主義小説を翻訳して発表もしたんだよ。前にも話をしたけれど、アンデルセンの原作、
 
『即興詩人』がその代表作だね。
 
原作以上の翻訳文学になったと高い評価を得たものだね。
これらの作品は、当時の人々に大きな影響を与えて、浪漫主義の流れを確かなものにしていったんだよ。
 
ところで、ここまで話をしてくると、
「森鴎外さんは浪漫主義の作家である」
と思いがちだけれど、単純にそうはいかないんだよ。
それで、ここで、文学主義と作家の関係に簡単に触れておくよ。
 
森鴎外さんは、マルチ人間だ。医者として、国家公務員として、業績を残し出世すると同時に、文学者として、それ以上の働きを為しているねえ。
森鴎外さんの代表作をジャンル別にあげると、次のようになるねえ。
 
(小説)
   『雁(がん)』
   『青年』
 
(史伝)
   『渋江抽斎(しぶえちゅうさい)』
 
(歴史小説)
   『高瀬舟(たかせぶね)』
   『大塩平八郎』
   『山椒大夫(さんしょうだゆう)』
   『阿部一族』
 
(評論)
   『しがらみ草紙』
 
(翻訳)
   『於母影(おもかげ)』
 
これ以外にも多くの作品があるけれど、入試にあまり関係ないものは省いているよ。それでも、ずいぶん広い分野に渡って、文学的な活動をしたことがよくわかるだろう。
 
この中で浪漫主義として位置づけられる作品が、『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』『即興詩人』となるんだよ。
それ以外の作品は、もう少し後で話をするけれど、反自然主義としての位置付けが正しいものだねえ。
 
だから、〇〇主義文学というのは、作品について言っていることなんだねぇ。もちろん、1人の作家が、一貫して1つの文学主義の作品を書き続けたならば、その作者は、〇〇主義文学の作家と言えるよね。
 
だけど、森鴎外さんのように、書いた作品が、さまざまな文学主義に位置づけられるときは、1人の作家が複数の文学主義に属すことは、実に当たり前のことなので、注意をしておこうね。

そんな作家の、もう1人の例として
《島崎藤村》さん。この人を挙げておくよ。
 
島崎藤村さんは、初めは、詩人として出発したんだね。詩の内容は、非常に浪漫的なものだったよ。
その後、小説家に転じたねえ。そして小説の内容は、自然主義の代表的なものだったわけだ。
だから、島崎藤村さんは、詩人としては浪漫主義文学者。小説家としては自然主義文学者。となるわけだね。
 
とにかく、森鴎外さんは、多才であったので、簡単に1つの文学主義などではくくることはできないわけだ。
ただ、当時の小説界に対する立場としては、写実主義や擬古典主義が大流行する中で、近代小説の本質は、そんなものではないというアンチテーゼの立場だったわけだよ。
 
坪内逍遥さんや二葉亭四迷さんを中心にした写実主義は、人間をありのままの姿として描こうとするものだったね。また、尾崎紅葉さんや幸田露伴さんを中心にした擬古典主義は、江戸戯作文学の中に日本文学の優秀性を見いだしたわけだったね。
 
森鴎外さんは、小説を創作するなかで、人間をありのままに描いて、いったい何が面白いんだ。また、小説を戯作すなわち遊びものとして書いたのでは、芸術性など無くなってくるではないか。と考えたわけだ。写実や擬古典主義では、小説の優れた文学性が発揮できないと思ったんだね。
 
小説は芸術であり、美意識を具体的に表現するところに本来の文学としての素晴らしさがあり、そこに、存在意義があると主張したわけだね。
そしてそれが、浪漫主義文学の流れを作っていったわけだ。