オチケン風『日本文学史』近現代Ⅰ【明治中期】(小説・評論)〈5〉【擬古典主義文学】①尾崎紅葉
 
世の中の〝流れ〟というのは面白いねえ。ひとつの流れができると、必ずといっていいほど、その逆の流れも出てくるんだよね。
右に向かう流れができると、左に向かう流れが生まれる。上にのぼる流れができると、下に沈む流れもできてくる。
 
この2つの違った流れは、相交わると、お互いが消し合って、+-ゼロになるような気がするね。ところが、文芸といったような文化の流れにおいては、2つの流れがお互いによい刺激を与えて、さらに高いレベルに達していくということがあるんだよ。
 
これをアウフヘーベンという。日本語訳では〝止揚(しよう)〟と言うんだね。相反する矛盾した概念を、より次元の高い概念で統一し解決することだね。
 
擬古典主義文学は、アウフヘーベンの傾向性を持っているよ。
〝擬〟というのは模擬試験の擬だよね。〝まねをする〟とか〝実物によく似ている〟とかいう意味だ。だから、擬古典主義というのは、古典主義に似ているけれども、少し違う文学主義という意味になるねえ。
 
それにしてもサア、いちいち、ケチをつける気はないけどさぁ。この、擬古典主義という名称は、誰が言い出しっぺか知らないけれど、本当にまずいよね。
だって、古典主義というのは、17世紀ごろ、ヨーロッパを中心に広がっていた芸術様式だよ。日本の擬古典主義の文学者が、それを特に意識して創作したという気配はあまり無いねえ。
 
まあ、もし、研究者が、この時期の作家の発表した作品が、西欧の古典主義の形態に似ていると判断して、擬古典主義と名前をつけたにしても、いかにも唐突(とうとつ)だよね。
 
それじゃあ、古典というのは日本の古典なのかと考えてみる。そうすると、当然、古典文学の隆盛期の平安時代の作品かと思うよね。ところが、これから話していくけれど、擬古典主義の文学者が参考にしたのは、近世の浮世草子(うきよぞうし)作家、井原西鶴さんなんだよね。
 
擬古典主義と言うけれど、西洋の古典主義とも直接的な関係はなく、日本の模範的な古典文学とも離れているというわけだ。
そうすると、擬古典主義と名付けることが不適格だよね。
 
もともと、〇〇主義文学という名称が、旗頭(はたがしら)としてあって、
「われわれは、これから、〇〇主義文学の作品を世に送り出して、文学の新しい流れをつくり出そう」
などと公言してから創作活動に励んだものではないよ。
 
〇〇主義なんていう名称は、後世の研究者が、都合のいいように勝手につけただけであって、当然、その当時の実際の文学状況とは、ずれていることがあるわけだ。
 
それでも入試には、あたかも不変な真実のごとく、擬古典主義なんて出てくるからさあ、覚えておこうよ。
大学入試のレベルなんて、この程度のものなんだよ。子供だましのようなものだ。そんな、ちっぽけなことのために、あくせく勉強しているわけだ。
 
君は、高い山の頂きから、低いレベルの入試を見下すような気持ちで、悠々と勉強すればいいんだ。そうすれば、実際の点数も上がってくるようになるよ。
入試に飲まれてはいけない。飲み込んでやるんだよ。

明治20年(1887 )ごろまでは、西洋の物質的、文化的なものを、まるで神様を崇拝するように移入し、逆に、日本の古来からあったものをゴミのように捨てていったわけだ。
 
そして、その風潮の頂点に達したのは、鹿鳴館(ろくめいかん)仮装舞踏会の連日連夜の大騒ぎだったわけだ。さすがにこれに対しては、反省、反動の流れが出てきたねえ。それが擬古典主義発生の土壌になっているわけだよ。
 
西欧一辺倒の〝流れ〟に対して、反動として、日本の古来のものの中に西欧よりも優れたものがあるとする国粋的な〝流れ〟が出てきたわけだ。
当然ながらこの流れが、社会運動として出できたのは、政治の世界だったね。国粋主義思想家が集まって、政教社という思想結社が旗揚げをしたねえ。結社というのは、目的を同じくした人たちの団体というくらいの意味だよ。
 
そして、文学の面においても、この流れは大きく広がることになった。その中心になった文学結社が、明治18年(1885)に設立された、
 
《硯友社(けんゆうしゃ)》これだ。機関誌は、
 
《我楽多(がらくた)文庫》この雑誌だ。おもしろい名前だから、しっかり覚えておこう。
中心人物は、
 
《尾崎紅葉(こうよう)》さん。この人だ。
 
それ以外に、硯友社で活躍した作家には、
 
《山田美妙(びみょう)》さんがいるよ。言文一致体の『夏木立(こだち)』を書いた人だったねえ。さらに、
《広津柳波(ひろつりゅうろう)》さん。
 
《川上眉山(びざん)》さん、などという人が、尾崎紅葉さんとともに活躍をしたねえ。
 
尾崎紅葉さんは、外国文学の輸入によって、近代文学とはどのようなものかを理解したうえで、逆に日本の古典文学を見直したとき、外国文学を超える優秀性のあることを発見したんだねえ。
古典の中でも特に井原西鶴さんに注目をしたんだよ。西鶴文学の中に出てくる人物像に、外国文学を超える優れたものがあることに注目したんだ。
 
そして、西鶴文学の優秀さを取り入れながら、近代文学としても耐えられるものを創作したんだね。いわば、アウフヘーベンすることによって、より優れた文学作品を世に送り出したわけだ。
これは、世の中の人々に歓迎され、大ヒットしたねえ。
尾崎紅葉さんの出世作は、
 
『二人比丘尼色懺悔(ににんびくにいろざんげ)』これだ。
 
この小説の梗概(こうがい)は、次のようなものだ。梗概というのは、あらすじということだね。
 
戦で夫を失った若い妻は、生涯、夫を弔(とむら)おうと、出家して尼になる。そして、世を逃れて山中の庵で静かに暮らしていた。
そこへ、ある日、同じ年頃の尼が、旅の途中で道に迷って泊めてほしいとやってきた。快く承諾して、2人で夜遅くまで語り合った。
 
お互いが身の上話をしたところ、戦で亡くした夫が、旅の尼の若いころの許婚(いいなずけ・婚約者)であったことが分かる。
2人の尼は、奇遇(きぐう)に驚くとともに、亡くなった夫の運命をお互いに嘆き、一晩中、語り明かした。
 
まあ、こんなところだね。『二人比丘尼色懺悔』は、大変な人気が出て、作家としての尾崎紅葉さんの地位を不動のものにした作品になったねえ。
『二人比丘尼色懺悔』以後、次々と人気作品を出したねえ。代表作は、
 
『伽羅枕(きゃらまくら)』
 
『二人女房(ににんにょうぼう)』
 
『三人妻』
 
『多情多恨(たじょうたこん)』
 
などがあるね。『多情多恨』は、同居させてもらっていた友人の妻に恋慕を募(つの)らせるという物語りだ。それ以外の作品は、題名から想像できるような内容になっているね。いずれも、どちらかといえば、風俗小説と言っていいものだよ。
 
さらに、次の作品で小説界の頂点に立つほどのベストセラー作家となったねえ。その作品は、
 
『金色夜叉(こんじきやしゃ)』これだ。
 
(梗概)
主人公の貫一(かんいち)は、父親が亡くなって一人ぼっちになる。その父親を尊敬し、慕っていた者に鴫沢(しぎさわ)という男がいた。彼は貫一を哀れに思い、引き取り育てる。貫一は勉強がよくでき、東大の予備科に進学し、将来が期待されている。
 
鴫沢には、宮(みや)という娘がいた。貫一と宮は相思相愛の仲で、婚約する。
ところが、宮は正月のカルタ会で、大金持ちの銀行家の息子、富山(とみやま)に見染められ、結婚を申し込まれる。富山家の莫大な財産に目がくらんだ宮の両親は求婚を受け入れるように宮を説得し、宮も貫一を外遊させることとひきかえに承知する。
 
諦められない貫一は、1月17日、熱海まで宮を追いかけて、海岸に呼び出し、彼女に真情を伝え、考え直すように訴える。しかし意外にも、彼女の気持ちは変わらない。そこで、彼は次のように言う。
 
「よいか、宮さん、1月の17日だ。来年の今月今夜になったならば、僕の涙で必ず月は曇らせて見せるから、月が・・・曇ったならば、宮さん、貫一はどこかでお前を恨んで、今夜のように泣いていると思ってくれ」
 
と叫び、取りすがる宮を蹴って姿を消す。
 
貫一は、金の力に惑わされた宮に復讐を計ろうとする。その方法は、自分が、宮の結婚相手の富山家よりも、さらに大金持ちになって見返してやろうと強く決意する。
 
貫一は、鴫沢の家を出て、学校もやめる。そして、金=金色を儲けるためなら何でもする亡者(もうじゃ)=夜叉となって、生きる。彼は、高利の金融業者になって、非情に、冷血に金を取り立てて、大金を蓄える。
 
一方、宮は、富山と結婚したものの、冷たく残酷な性格に苦しめられる。他の女と関係を持っていることも分かり、打ちひしがれる。後悔した宮は、許しを乞う手紙を何度も貫一に送る。しかし、貫一は開封もしない。
ある日、宮は、思い余って貫一をたずねる・・・
 
長くなるのでこのくらいにしておくよ。明治30年(1897)から5年間ほど新聞に連載されたものだよ。
『金色夜叉』は、当時の大ヒット小説になったねえ。日本全国、『金色夜叉』を知らない人はいないくらいだったね。それで、俳優が変わりながら、数多くの映画や演劇やドラマにもなったね。主題歌も作られて、これもヒットしたねえ。
 
君のおじいさん、おばあさんに『金色夜叉』を知っているかい?と聞いてごらん。皆、知っているよ。今でも、DVDが売られているから、暇があったら観てごらん。鑑賞しているうちに、自分が、貫一になったような気持ちになって、もし、自分だったらどうしただろう、なんてねえ、考えてさあ、ロマンチックになるよ。
 
これほど人気のあった尾崎紅葉さんだったけれど、残念ながら、連載途中で完結せずに亡くなってしまったよ。
その時の新聞記事には、次のように書いているねえ。
 
《尾崎紅葉氏
     作家としては最初の胃がん》
 
現代写実派小説の指導者として、名声を世の中に馳(は)せたりし紅葉山人(さんじん)尾崎徳太郎氏は、今春以来、胃がんを患いて病床にあり、あるいは、都会を離れて療養し、あるいは、名医の診療を受けて摂生(せっせい)怠りなかりしが、不治の病症とて、薬石(やくせき)効なく、ついに、一昨30日の夜11時15分、わずかに37歳の壮齢をもって、牛込区横寺町47番地の自邸に逝(ゆ)きけり。
      (中略)
ついに、自ら不起を悟り、友人および門下生一同を枕頭(ちんとう)に集め、平素の親交を謝し、門生には、今後ますます一致して文学に尽くすべき旨(むね)を諭(さと)し、かつ、遺言していわく、葬式はもちろん質素にせよ。
      (中略)
氏の著書は、明治文壇の花として、名篇佳作すこぶる多く、いちいち挙ぐるに、いとまなけれども、金色夜叉をはじめとして、多情多恨、三人妻、二人女房、伽羅枕・・・
 
まあ、こんなふうな記事になっているねえ。文中《現代写実派小説》とあるのは、当時の尾崎紅葉さんの立場なんだ。前にも言ったけれど、文学史の〇〇主義という名称は、後世の学者が都合よく付けたものだから、当時の現実とは合わないこともあるねえ。
入試においては、《尾崎紅葉さんは擬古典主義文学者》であることに変わりはないよ。
 
尾崎紅葉さんは、《名声を世の中に馳(は)せ・明治文壇の花として、名篇佳作すこぶる多く》と記事中にあるように、名実ともに、国民的作家であったことは間違いないねえ。

ところがだ、ここで、実に不思議なことがあるんだよ。
それは、尾崎紅葉さんの文学的評価についてなんだ。
文学評論家や学者は、尾崎紅葉さんの評価を、国民的な作家として多くの人々に親しまれたことは確かだけれど、文学的レベルは低い、と言うんだねえ。
 
「近代文学、近代思想への理解が浅く、結局、近代文学の担い手とはなり得なかった」
 
というわけだ。
これは、おかしいねえ。こんな評価を下す背景には、実は、評論家や学者の偏見があるんだよ。
 
その偏見とは、純文学は、文学的レベルが高く、大衆文学は文学的レベルが低い、という考え方だよ。尾崎紅葉さんなんて、大衆文学者の代表だからねえ。
 
前のところにも出しておいたけれど、『人間失格』を書いた純文学の太宰治さんと『宮本武蔵』を書いた大衆文学の吉川英治さんを比較しても分かるよ。
文学史の入試問題で、太宰治さんは当然のごとく、よく出てくるよね。それに対して、吉川英治さんは、ほとんど出てこないね。年齢からいえば、吉川英治さんの方が20歳近くも年上なんだけれどねえ。
 
これから考えても、文学研究者の中に、多かれ少なかれ、純文学に対して、大衆文学を見下す偏見があることは間違いないねえ。
 
僕は、高校の教師をしながら必死で小説を書いたよ。そして、『ある殺人者の告白』という小説で、徳間書店《問題小説新人賞》を受賞したよ。
この小説を僕は純文学として書いたんだ。ところが、受賞を伝える月刊文芸誌《問題小説》を読んでも、授賞式に参加したときの雰囲気においても、『ある殺人者の告白』が、どうやら、純文学ではなくポルノ小説ととらえられているらしいというのが分かったんだ。
 
さらに、授賞式の様子が、一部の週刊誌や新聞にも報道されたけれど、どちらもポルノ小説であり、ポルノ作家であるというイメージを抱かせるものだったんだねぇ。
同じころに、純文学の新人賞として有名な賞を受賞した人の報道を見ると、明らかに、僕に対する記述とは違って、将来が嘱望(しょくぼう)されるような記述になっているんだよ。
 
そのうえ、追い打ちをかけるように、数社の出版社から依頼してくる小説原稿は、すべて、ポルノ小説だったんだ。
僕は腹立たしくなったねえ。編集者の要望通りのポルノ小説を書くことは、僕の自尊心が許さなかったよ。それで僕は、
「それじゃあ、ポルノ小説のなかに、深い哲学性を持たせてやる」
と反抗心のようなものを燃やして書いたねえ。
 
そうして書いた小説が、意外と人気が出たんだよ。
《ポルノ哲学小説》という新しい分野を開拓する作家として、期待をされるようにもなったね。
だけど、やはり、ポルノ小説を書き続ける意欲は、すぐに無くなってしまったね。僕は、数編を書いただけで、ペンを折ったよ。
 
純文学と大衆小説の境界なんて、作者からすればあるわけがないよ。尾崎紅葉さんも、当時、自分が、純文学ではなく大衆小説を書いているなどと意識しているわけがないよね。まして、その頃は、純文学とか、大衆小説とかいう区分さえもないんだからさあ。
 
それなのに、頭から、尾崎紅葉さんの作品に、文学レベルの低い大衆小説だというレッテルを張るというのは、いかにも失礼だよね。正当な文学評価とはいえないねえ。特に、『多情多恨』などを読めば、近代小説の1つの特徴でもある、心理描写が見事に描かれているよね。これをもって考えても、偏見としか言いようがないね。
 
僕も、この偏見に嫌な思いをしたけれど、もし、尾崎紅葉さんが37歳で死なずに長生きしていたとしたら、自身に対する文学評価に怒ったのではないだろうかねぇ。
 
これから言う事は、ここだけの話にしておいて欲しいんだけどさぁ。
多くの文学評論家や学者が、このような偏見を持つようになったのには、実は、極めて低レベルな背景があるんだよ。
 
それは、文学評論家や学者には、純文学の小説家をめざしていた者が多いんだよ。ところが、才能がなくて、挫折してしまったんだねえ。それで、1度は作家の立場に立とうとしたことがあるから、他人と違って、一歩踏み込んだ文芸評論ができると思い込んで、評論家や学者になったんだなあ。
 
そして、心の中に、
「私は、純文学作家になることには挫折したけれど、大衆小説くらいなら、いつでも書けるんだ。だけど、そんな文学レベルの低い作品は書かない」
という、〝負け犬の遠吠え〟のような自尊心を持っているんだね。それが、大衆小説を卑下する偏見の正体なんだよ。
 
ここで、現代文読解の心得を1つ。
作品の場面の中で、ある心理状況が描きだされたときは、必ず、そうなった背景、原因を押さえる事だね。文芸評論家の〝偏見の正体〟のようなものは、何なのかをしっかりと把握することが大事だね。そうすると、問題文の正確な読解ができるよ。
 
ただまあ、もちろん、文芸評論家の〝偏見〟に一理がないわけではないんだよ。
それは、尾崎紅葉さんの作品を全体的にみれば、近代小説を意識しているとは言いながらも、西鶴文学に傾いていることは間違いないからねぇ。
アウフヘーベンのレベルが、浅かったことは確かだね。だから、
「近代文学の担い手とはなれなかった」
という評価になるんだね。

さあ、それでは、話を先へ進めよう。
尾崎紅葉さん自身は、「近代文学の担い手とはなれなかった」かもしれないけれど、弟子たちの中から素晴らしい近代的作家がたくさん出てきたねえ。逝去(せいきょ)を伝えた新聞記事にも、
 
友人および門下生一同を枕頭に集め、平素の親交を謝し、門生には、今後ますます一致して文学に尽くすべき旨を諭し
 
とあったように、尾崎紅葉さんは、弟子たちの育成にも大変な力を入れていたんだよ。
その弟子たちのうち、代表的な3人を紹介しておこう。
 
《泉鏡花(いずみきょうか)》さん。
 
《小栗風葉(おぐりふうよう)》さん。
 
《徳田秋声(とくだしゅうせい)》さん。これらの人たちだ。
 
泉鏡花さんは、現在、金沢市が主催している〝泉鏡花文学賞〟としても名前が残っている特異な作風の作家だねぇ。
小栗風葉さんは、紅葉門下生の中で、最も師匠の文学を理解していると言われた弟子だね。師匠が逝去のため、中断になった『金色夜叉』の続きを『続編金色夜叉』として完結させた人だよ。
徳田秋声さんは、昭和18年(1943)に死去するまで、長年にわたり名作を多く残した文学者だよ。
 
この3人以外にも、尾崎紅葉さんに影響を受けて、文学界で活躍をした作家は大変に多いんだよ。そのくらい、尾崎紅葉さんは若死ではあったけれども、功績を残した人だったんだねえ。