オチケン風『日本文学史』近現代Ⅲ【大正・昭和】(詩歌)〈16〉【戦後詩・短歌俳句】
 
いやあ、あったかくなったねえ。
大阪では、今日にも、春1番が吹くのではないかと予報されているよ。
僕の故郷の愛媛県では、桜の開花宣言が出されたよ。
 
今、京都文化博物館で、『光の賛歌・印象派展』が開催されている。世界8カ国、35美術館の名作が展示されているねえ。
 
その中の目玉は、アメリカ・ボストン美術館蔵のルノワール作『ブージヴァルのダンス』とベルギー・トゥルネー美術館蔵のマネ作『アルジャントゥイユ』の2作品が、同時に出展されているということだねえ。
これは奇跡に近いことではないのかねぇ。
早速、僕も行ってきたけれど、素晴らしい、の一言だったよ。
 
僕の教員時代の同僚で、定年後、兵庫県の丹波篠山に移り住んで、ひたすら、絵を描いている友人がいるんだよ。
この美術展のことを知っているのかどうか気になり、連絡を取ろうと思って、電話番号を調べだけれど、分からなかった。
 
それで、昨日、車でその友人の家まで行ってきたよ。
あいにく留守だったので、美術展のチラシを玄関ドアのすき間に挟んでおいた。
もともと、丹波篠山は雪も多く寒い所なんだけれど、昨日はよく晴れて暖かかったねぇ。コートなど全く要らなかったよ。
「春はすぐ近くだ」と思えたねえ。
 
ところで、長かった「オチケン風『日本文学史』」シリーズも、いよいよ、この項目で、すべて終了ということになるよ。
ここまで付き合ってくれた君に感謝しながら、本題に入っていくことにしよう。
 
これから出てくる文学者の人は、皆、死後50年以内の著作権保護期間内の方たちばかりなので、作品を引用することができないね。
だから、作者と作品だけの、面白くない話になるけどさあ、最後だから、我慢して聞いてよね。
 
戦後詩の1つの流れは、小説の分野と同じように、プロレタリア詩人たちの復活による活動があげられるねえ。
それは、詩の創作と同時に、戦争責任の追及という運動にもなったんだよ。
旧プロレタリア詩人たちが、戦前戦中に戦争賛美の詩を書いた者に対して、戦争遂行の責任を追及したわけだ。
 
この流れは、詩壇の一翼にはなったけれど、世の中に広がりを見せて、本流になるようなことはなかったね。
詩壇の中心的な位置を占めたのは、
 
『荒地(あれち)』だったねえ。代表的な詩人は、
 
《鮎川(あゆかわ)信夫》さん。この人だ。
 
鮎川信夫さんは、『荒地』の創刊の中心人物でもあるんだよ。鮎川信夫さんは、
「僕らは現代の荒地に立ち向かってゆかなければならない」
と書いているけれど、当時の社会状況を荒地と捉えて、機関誌の名称をつけたわけだねえ。と書いているけれど、当時の社会状況を荒地と捉えて、機関誌の名称をつけたわけだねえ。
 
詩風は、現実から遊離した戦前のモダニズムを批判して、現実への不安と危機意識が表現されて、思想詩のようなものになっているねえ。
 
続いての機関誌は、『列島』だけど、その前に、『歴程』の復刊を頭に入れておこう。
『歴程』は、戦時中は休刊になっていたけれど、昭和22年(1947 )に草野心平さんを中心に復刊されたよ。これを第2次『歴程』と呼んでいるねえ。
代表的な詩人は、教科書にもよく出てくる、
 
《石垣りん》さん。この人だねぇ。
 
戦後詩においても『歴程』は、多くの詩人を育成する重要な役割を果たしたわけだ。
 
さあ、それじゃあ次は、
 
『列島』だ。
 
『列島』は、『荒地』と競い合う形で活動したねえ。中心的な詩人は、
 
《関根弘(ひろし)》さん。この人だ。
 
関根弘さんの書いた『なんでも一番』は実に面白い詩だよ。『なんでも一番』と思っているアメリカの優越感をブラックユーモア的に批判しているんだ。
この詩は、『列島』の性格をよく表しているともいえるねえ。
 
『列島』は、『荒地』が思想詩の性格を帯びていたのに対して、社会詩の性格を持っていたと言えるだろうねえ。
ただ、社会詩にありがちな文学性の低下はなく、前衛的な芸術性を深めた作品であったことは、高く評価されたねえ。
次の機関誌は、
 
『櫂(かい)』これだ。創刊の中心人物は、
 
《茨木のり子》さん。この人だ。
 
茨木のり子さんの『わたしが一番きれいだったとき』は、よく教科書に掲載されているねえ。君も習ったのではないかい。
他の代表的な詩人は、
 
《谷川俊太郎》さん。さらに、
 
《大岡信(まこと)》さん。この人だ。
 
谷川俊太郎さんも大岡信さんも日本の詩壇を代表する方で、現在もたいへん活躍をされていて、多くの詩人たちの尊敬を集めている人だね。
 
『櫂』は、わずか2年で中断したりして、『歴程』や『荒地』のように目立ちはしなかったけれど、現在までも、詩の世界に大きな影響と業績を残こすことになったねえ。
 
さてと、これで、詩についてはすべて終了ということになったよ。
 
最後に、短歌俳句だけどさあ。
この時期の短歌界、俳句界というのは、大きな動きがほとんどないんだよねぇ。
 
新しい流れとして、プロレタリア短歌や自由律短歌などが出てきたけれど、政治的傾向が強まったり、未完成であったりして、人々の中に広がることもなく消えていってしまったねえ。
歌壇は伝統的な『アララギ』派を中心に、保守的な活動が続いていたに過ぎなかったねえ。
 
それに追い打ちを掛けるように、昭和21年(1946)に、当時、京都大学教授だった桑原武夫さんが、『第二芸術論』と題する論文を雑誌に発表したんだよ。
 
この論文には、次のような趣旨の事を書いているよ。
『俳句などのような短文形式は、現代のような複雑な社会の中で生きる人々の状況を表現するには、不適切であり、散文芸術に比べて1ランク落ちる形式で、『第二芸術』と呼ぶべきものだ』
こんなふうに厳しく俳句形式を批判しているんだよ。
 
この論文は、たいへん大きな反響を呼んだねえ。そして当然ながら、短歌否定論にも繋(つな)がったわけだ。
 
戦後は、短歌俳句界にとっては、厳しい時代だったということが言えるねえ。
ただ、それとは裏腹に、俳句人口、短歌人口という、大衆が気軽に短文系の創作を楽しむという流れは、大きく広がり、現在まで続いてきているねえ。
 
こんな状況は、短歌俳句界に限ったことではなく、小説界も詩界も全く同じだね。
小説のところでも話したように、要するに、現代文学は、文学史として系統的、体系的に捉えられるような状況ではないということだねえ。
 
近現代文学の歴史は、すべてのジャンルに渡って、結局は個別に解体し、崩壊してゆく過程であったんだよ。
それを価値観の多様化という言葉で、美化するのはあまりにも無責任だと思うねえ。
解体し崩壊した根底に尋ね入り、そこに新しい人間観に基づいた文学の萌芽を見出そうとするのが、文学研究者の使命ではないのかねえ。
 
やれやれ、どうにかこれで、やっと、「オチケン風『日本文学史』」シリーズのすべてを書き終えることができたよ。
ずいぶん、長い期間がかかってしまったよ。
君には、申し訳なかったね。早めに書き上げておけば、もっと入試に役立っただろうにねえ。
 
月日の経つのは本当に早いねぇ。
受験期間などと言ったって、長い人生から見れば、ほんのわずかのことでしかないよ。
だけど、その一瞬を、どう迎えるかによって、人生が変わるのも事実だねえ。
 
一瞬の勝利を目指して、一瞬のために生きてゆくから、人生は面白いのじゃないの。そこにドラマも生まれるよね。
 
人生は劇だねえ。
君はまだ、始まって少しのところを演技している。
僕は、間もなくフィナーレを迎えるんじゃないのかなぁ。
どちらにしても、どうせ演じるのであれば、共々に、勝利劇にしようよ。途中、さまざまな困難はあるけれど、それは劇をよりドラマティックにするための必要条件なんだよね。
 
山があれば、登ればいい。谷があれば、下ればいい。
だけど最後には、必ず勝利の山を登攀(とうはん)しよう。
 
ここまで付き合ってくれたら君なら、きっと、きっと、できるよ。
君の大勝利の人生を祈っているよ。