オチケン風『日本文学史』近現代Ⅲ【大正・昭和】(詩歌)〈15〉【現代詩】
 
さあ、それじゃいよいよ、文学史の勉強の最後の章、《大正・昭和(詩歌)》に入っていこう。
明治維新から第1次世界大戦までの詩歌については、『日本文学史・近現代文学編Ⅱ』で、話をしているので、そちらを見てね。
ここでは、第1次世界大戦以降の詩歌について話をしていくよ。
 
まず、詩の区分だけどさあ。
近代詩というのは、明治維新から大正末までのものだ。
現代詩というのは、昭和に入ってからのものだ。
戦後詩というのは、現代詩のなかで太平洋戦争後のものだ。
まあ、この程度に考えておけばいいよ。
 
なかには、太平洋戦争を近代詩と現代詩の境界とする人も多くいるよ。研究者によって違いがあって、はっきりしていないんだよ。
ただ、近代詩が、萩原朔太郎さんによって頂点に達し、それは同時に次代の詩への橋渡しでもあり、新たな詩の世界、現代詩へと進んでいったことは間違いないねえ。
 
現代詩に入って行く前に、1人だけ、特異な詩人を紹介しておくよ。その人の名は、童話作家としても有名な、
 
《宮沢賢治》さん。この人だ。
 
宮沢賢治さんは、東京で華々しく活躍する中央の詩壇とは無関係に、東北で農民の生活向上のために尽くしながら詩を作った人だね。
そして、生前にはほとんど詩の業績を認められることはなかったね。宮沢賢治さんの優れた詩の世界が称賛されるようになったのは、死後になってからのことだよ。
代表的な詩集は、大正13年(1924 )に出版した、
 
『春と修羅(しゅら)』これだ。
 
『春と修羅』は、千部を自費出版したんだよ。定価は2円40銭だ。ほとんど売れなくて、宮沢賢治さん自身が抱え込んだようだったねえ。
現在では、古書店でおそらく百万円くらいで売り買いされていると思うよ。
 
『春と修羅』の最初に載せられている詩が『序』と題されているものだよ。
最初の部分だけ引用するよ。
 
  『序』
    宮沢賢治
『わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
 
これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象(しんしょう)スケツチです(後略)』
 
こういう書き出しなんだよ。
この『序』には宮沢賢治さんの詩の本質論が書かれていて、非常に重要なものだよ。
だけど僕は、多くの研究者の『序』の解説を読んだけれど、まだ1人として、完全に理解している人には出会っていないねえ。
この難解さが、宮沢賢治さんが生前に文学界で認められなかった理由のひとつだねえ。
 
どうして誰も理解できないのか。答えは簡単だよ。宮沢賢治さんの仏教への造詣(ぞうけい)の深さに比べて、研究者の仏教理解が浅薄過ぎたということだね。
死後になってようやく、詩にしろ童話にしろ、深い仏教思想に貫かれた優れた作品であると評価が高まったわけだ。
 
ここで、僕が感動した作品の一部だけを引用しておくよ。これも『春と修羅』の中にある作品だ。
 
『稲作挿話』
    宮沢賢治
『(前略)反当(はんとう)三石(ごく)二斗(とう)ならもうきまったと云っていゝしっかりやるんだよ
これからの本当の勉強はねえ
テニスをしながら商売の先生から義理で教はることでないんだきみのやうにさ
吹雪やわづかの仕事のひまで泣きながら
からだに刻んで行く勉強が
まもなくぐんぐん強い芽を噴いてどこまでのびるかわからない
それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだではさやうなら
 ・・・雲からも風からも
    透明な力が
    そのこどもに
    うつれ・・・』
 
宮沢賢治さんも一時期、教員をしていたし、僕も教員だったので、特にこの部分には、感動したよ。
宮沢賢治さんは、37歳の若さで、肺結核のため亡くなったねえ。
 
それじゃあ、中央の文壇とは無縁ながら、信念の人生を歩み、優れた作品を残した文学者もいるんだということを頭に置きながら、現代詩へと進んでいこう。
 
近代詩から現代詩への転換を推進していったのは、主に2人の詩人だねぇ。1人は、
 
《高橋新吉(しんきち)》さん。この人だ。代表作は、
 
『ダダイスト新吉の詩』これだ。もう1人は、
 
《萩原恭次郎(はぎわらきょうじろう)》さん。この人だ。代表作は、
 
『死刑宣告』これだ。
 
高橋新吉さんは、自分のことをダダイストと言っているねえ。また、萩原恭次郎さんは、アナーキストと言われているよ。
ダダイストとは破壊主義者であり、アナーキストとは無政府主義者だねえ。
 
だから、この2人は、これまでの近代詩の詩形や韻律や秩序を徹底して否定し破壊する詩の創作をしたわけだねえ。
伝統の美意識や詩形美といったものを根本から覆(つがえ)させるものだったわけだ。
これは、ヨーロッパに起こった前衛芸術運動(アバンギャルド)の影響を強く受けて出てきたものなんだよ。
 
いったいどんな詩なのかということで、萩原恭次郎さんの『死刑宣告』の中から1編、書き出しておくよ。
 
『豚は一匹居ます』
   萩原恭次郎
『まつしぐらに走つてゐる
乗合自動車のやうな揺れる腰をして
女は幸福そのままに仕事を投げ出して居眠りだ!ブブウ!ブ!ブ!ブボウ!
 ボウ!ボ・ウ・ボウ———— アハハハハ・・・・・・・・・
 電信柱をぶつたおしてやれ!』
 
まあ、こんなところだね。うまく表記が変換できない箇所があるので、原文とは違っているところがあるけれど気にしないでね。
この詩を見ても分かるように、高橋新吉さん、萩原恭次郎さんの2人は、近代詩の変革というよりもむしろ破壊を行ったわけだねえ。
 
高橋新吉さん、萩原恭次郎さんの詩は、確かに、これまでの詩の概念を変えるものではあったけれど、破壊することに夢中になりすぎて、新しい現代詩の萌芽(ほうが)を見い出すことはできなかったねえ。
 
そんな中で、現代詩の進むべき方向性を指し示した詩人は、
 
《堀口大学(だいがく)》さん。この人だ。作品は訳詩集である、
 
『月下の一群(げっかのいちぐん)』これだ。
 
『月下の一群』は、大正14年(1925)に堀口大学さんが、フランス近代詩を翻訳して集めた詩集だよ。
これまでの詩の概念を超えた言語表現で、全く新しい超現実的な詩の世界を創造して見せたのだよ。
例えばこんな詩だ。
 
  シャボン玉
 ジャン・コクトオ(堀口大学訳)
『シャボン玉の中へは
庭は這入(はいれ)ません
まわりをくるくる廻(まわ)つてゐます』
 
この詩は短くて、今までにない、ハッとするような鋭い感覚で書かれているねえ。
『月下の一群』は、非常に大きな影響を詩壇に与えたよ。
「近代詩を現代詩へと跳躍させる方向性を示した」と称賛されているものだね。
 
ちょうど、明治38年(1905)上田敏さんが、フランス象徴派詩人の訳詩集『海潮音』を世に送り出して、日本の近代詩の方向を指し示したのとよく似ているよ。
 
『月下の一群』によって、現代詩の特徴である、知的な短詩形やシュール・レアリズム(超現実主義)の流れが大きく広がってゆくことになったね。
 
要領よく現代詩の流れを勉強するには、それぞれのグループが、機関誌を出して活動しているので、それを中心に見ていくのが分かりやすいよ。
それじゃ、発刊されたは機関誌を順番に挙げてみよう。
 
『詩と試論』昭和3年(1928)
 
『四季』昭和8年(1933)
 
『歴程(れきてい)』昭和10年(1935)
 
続いて、戦後派の機関誌だよ。
 
『荒地(あれち)』昭和22年(1947)
 
『列島』昭和27年(1952)
 
『櫂(かい)』昭和28年(1953)

これらの機関誌によって現代詩は、少しずつ市民権を得て、人々に定着して行くことになったねえ。
それじゃあ、それぞれの機関誌の中で、中心的な詩人と作品を見ていこう。
 
まずは、『詩と詩論』だ。これは、昭和詩に本格的にシュール・レアリズム(超現実主義)運動を起こさせ、発展させた中心的な機関誌だねえ。
 
当時、一方には、プロレタリア詩人として、中野重治(しげはる)さんや、壺井繁治(つぼいしげじ)さんなどが活躍をしていたけれど、『詩と詩論』はそれに対抗して、芸術至上主義をとって出てきたはものなんだよ。
代表詩人は、
 
《西脇順三郎》さん。この人だ。さらにもう1人は、
 
《三好達治》さん。この人だ。
 
三好達治さんには、詩集、
 
『測量船』があるねえ。
 
『測量船』の中から、詩の一部を引用しておくよ。
 
 『甃(いし)のうへ』
   三好達治
『あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫足(あしおと)空にながれをりふしに瞳をあげて
翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり(後略)』
 
この詩は時々教科書にも掲載されるものだねぇ。
甃とは石畳のことで、をみなご、とは若い娘のことだねえ。
明るい風景の中にも、憂愁さを伴って、流れるように言葉がつながっているねえ。分かりやすく美しい作品だ。
 
ここで再度、確認しておくと、『詩と詩論』に集まった詩人の特徴は、芸術至上主義、モダニズム、超現実主義、シュール・レアリズム、などという言葉で表されるものだから、頭の中を整理しておこう。
 
さて、次は、『四季』だ。
『四季』は、堀辰雄さんや三好達治さんなどによって創刊されたものだよ。昭和10年代の詩壇に大きな影響力を持っていたねえ。
詩風は、当時、失いがちになっていた音楽性を新しく復活させ、抒情味あふれるものにしようとしたんだよ。
 
『四季』からは、たくさんの優れた詩人が出てきたねえ。それらの人のことを《四季派》と言うんだよ。
代表的な詩人だけ取り上げると、まず、《立原道造(たちはらみちぞう)》さん。この人だ。代表作は、
『萱草(わすれなぐさ)に寄す』これだ。
 
『萱草に寄す』の中から、教科書によく載る詩を書き出しておくよ。
 
 『のちのおもひに』
   立原道造
『夢はいつもかへって行った 
山の麓(ふもと)の寂しい村に
水引草(みずひきぐさ)に風が立ち草ひばりのうたひやまない
しづまりかへった午(ひる)さがりの林道を(後略)』
 
実に、『四季』らしい素晴らしい叙情性にあふれた詩になっているねえ。
次の詩人は、30歳の若さで、急性脳膜炎で亡くなった、
 
《中原中也(なかはらちゅうや)》さん。この人だ。
 
中原中也さんは、10代のころ、高橋新吉さんの『ダダイスト新吉の詩』に出会い、ダダイズムに傾倒しながら詩作をするようになったねえ。
ただ、若死にであったこともあり、生前は詩人としてはほとんど認められなかったねえ。
生前の作品は、
 
『山羊(やぎ)の歌』これ1つだ。死後すぐに出されたのは、
 
『在(あ)りし日の歌』これだ。
 
『在りし日の歌』の中にある詩を1篇、紹介しておくよ。
 
 『頑是(がんぜ)ない歌』
    中原中也
『思へば遠く来たもんだ十二の冬のあの夕べ港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気(ゆげ)は今いづこ
 
雲の間に月はゐて
それな汽笛を耳にすると
竦然(しょうぜん)として身をすくめ月はその時空にゐた
 
それから何年経つたことか汽笛の湯気を茫然と
眼で追ひかなしくなつてゐたあの頃の俺はいまいづこ今では女房子供持ち
思へば遠く来たもんだ
此の先まだまだ何時までか生きてゆくのであらうけど
 
生きてゆくのであらうけど遠く経て来た日や夜の
あんまりこんなにこひしゆてはなんだか自信が持てないよ(後略)』
 
頑是ない、というのは、幼稚な、という意味だ。
竦然、というのは、恐れてぞっとする様子だねえ。
中原中也さんは、死後、評価が大変高まり、全集も発刊されているよ。
 
それじゃあ、続いて、『歴程』を見ていこう。
『歴程』は、『四季』と同じように、非常に多くの詩人が活躍の場としたねえ。だから、昭和10年代の詩壇は、『歴程』と『四季』によって牽引(けんいん)されたといってもいいよ。
『歴程』で活躍した詩人を《歴程派》というんだよ。
 
『四季』は、一定の美意識に基づく叙情性を特徴としたけれど、『歴程』は特に、詩風に枠(わく)をはめなかったんだ。だから、多くの詩人が集まったんだねえ。
前出の四季派の中原中也さんは、『歴程』でも活躍しているよ。
 
『歴程』はまた、亡き宮沢賢治さんの遺稿を多く紹介して、死後の評価を高めさせるきっかけになった雑誌としても有名だねえ。
 
『歴程』は今もまだ発刊され続けていて、日本の現代詩の発展に最も寄与した詩誌の1つだろうね。
 
代表的な詩人は、創刊の中心人物でもあった、
 
《草野心平(しんぺい)》さん。この人だ。代表作は、
 
『第百階級』これだ。さらに、
 
『蛙』これもだ。
 
強く印象に残る詩は、カエルの生態を擬声音をふんだんに使って、書いているものだねえ。
楽しくて哀しい詩がたくさんあって、引用したいけれど、草野心平さんは、昭和63年(1988)85歳で亡くなったので、まだ著作権保護期間なんだよ。
頭の疲れた時は、図書館からでも借りて、ぜひ、読んでごらん。心が洗われるよ。
 
もう1人、有名な詩人は、
 
《金子光晴(みつはる)》さん。この人だ。金子光晴さんは、戦争やファシズムを批判する反戦詩を書いた人としても有名だね。
代表的な詩集は、昭和12年(1937)に発刊した、
 
『鮫(さめ)』これだ。
 
『鮫』は、象徴詩の手法を使いながら、国家権力を厳しく批判するという、特異な詩の世界を創造しているねえ。
読んで楽しいものではないけれど、
「エッ、こんな表現のしかたで、権力批判ができるものなんだ!」と感心させられるよ。
 
さあ、それじゃあ、これで、【現代詩】の項目は終りにしよう。