オチケン風『日本文学史』近現代Ⅲ【昭和戦後】(小説・評論)〈12〉【第1次戦後派】
 
昭和21年(1946)に、『新日本文学』が創刊されたけれど、同年に、もう1つ、注目すべき文芸雑誌が創刊されているよ。それが、
 
『近代文学』これだ。
 
『新日本文学』と『近代文学』の共通点は、両方とも、何らかの形でマルクス主義・共産主義に関わっているというところだね。
違いは、『新日本文学』は、旧プロレタリア文学作家を中心にして、思想性や社会運動を重要視していたのに対して、『近代文学』は、作家個々の主体性、また、文学の自立性を尊重したんだよ。
 
『近代文学』の作家たちは、青春期を戦時下の〝暗い谷間〟(思想弾圧)に身をひそめるようにして耐え、戦争、敗戦という精神的な激動を全身で受け止めなければならなかったねえ。
その体験をこれまでの文学とは全く違った方法で表現し、自己の生き方と社会のあり方を世の中に問おうとしたわけだ。
 
こういう『近代文学』を拠点に活躍した初期の作家たちを、
 
《第1次戦後派》と呼んでいるんだよ。
 
ただ、この後で話をする《第2次戦後派》と《第1次戦後派》との境は、厳密な定義も時期もないので、適当に考えればいいよ。
だから、1人の作家が、ある参考書では、《第1次戦後派》になっているのに、別の参考書では、《第2次戦後派》になっている場合もあるので、気にすることはないよ。
 
それでは、最初の作家は、
 
《野間宏(のまひろし)》さん。この人だ。代表作は、
 
『暗い絵』これだ。
 
『暗い絵』は、昭和21年(1946)に発表されているねえ。
内容は、日中戦争直前の京都での話だ。主人公の大学生は、左翼運動に青春をかける中、友人が次々と投獄されたり、獄死したりしていく。その中で、主人公は、友情、権力闘争、恋愛などに悩みながらも、自分の進むべき道を見出していく、というものだねぇ。暗い絵』は、野間宏さんの学生時代の体験をもとに書かれているんだよ。
 
僕の学生時代では、昭和45年(1970)前後が、全共闘運動で大学紛争の盛り上がりを見せた時期だったねえ。
そのころ僕は、2つ目の大学に進学したものの、将来、どのような仕事に就くべきか、決められず、悩んでいた。
 
大学構内では、戦闘的なタテカン(立て看板)がいたるところに立てられていたよ。
多くの学生が、何度も、ハンスト(ハンガーストライキ・断食闘争)を行っていたねえ。
講義の時には、教授が教壇に立つと、学生から激しい追及の怒声が飛び、自己批判(公開の場で自分の過ちを認め、自分を批判すること)をさせられていたよ。当然、講義なんかにはならなかった。
 
ある日、大学の校門まで行ってみると椅子や机が高く積み上げられていて、校内に入れなかった。ある日、大学の校門まで行ってみると椅子や机が高く積み上げられていて、校内に入れなかった。
教授や職員、一般学生は校門前でうろうろするだけだった。僕は、ふと思いついて「仲間だ」と言って中に入ったねえ。
 
これがきっかけで、僕もヘルメットをかぶって、あちらこちらとデモ行進をするようになったよ。そうしながらも、
「こんなことで、世の中が変わるわけがないだろう。自分の生き方にも満足できないだろう」と感じていたねえ。
 
僕の大学の、闘争の中心者は、何度も留年を繰り返している中肉中背の老けた男子学生だった。外見はあまり格好良くなかったけれど、アジる(行動を起こすようにあおり立てる)のは非常にうまかったよ。
ハンドマイクを持って喋っているのを聞くと、魅力的で、ついつい付いて行こうか、という気にさせられたねえ。
 
また、常に刑事に狙われていたよ。彼が校内に居ると、校門の外にはよく、刑事が張り込んでいた。時には、校門からかなり離れた所に車を止めて、双眼鏡で見張っていたりもしたねえ。
だから、彼が校門を出る時にはいつも、先導役の学生が、刑事がいないことを確認してから校外に出るようにしていたよ。
それが、ドラマの世界にでも入ったようで、何とも、魅力的で、あこがれたねえ。
 
当時は、大学の自治が尊重されていて、警察や機動隊といっても勝手に校内には入らなかった。また、それらを校内に入れることを学長が承認すると、自立した大学の敗北のようにとらえる風潮があったんだよ。
 
僕は、その指導的立場の学生に近づいて仲良くなった。そして行動も、いつも一緒にするようになった。
その結果、彼はなぜ一生懸命になって学生運動をするのか、その理由が明確に分かったよ。
 
それは意外なことに、彼は、社会正義や反権力などから行動しているのではなかったんだよ。単純な話で、口ではもっともらしい事を言ってはいるけれど、もともとお祭り騒ぎが好きだったことから、デモをやっておもしろがっているだけ、というのが本音だった。
これがその学生の本質だったねえ。
僕は、ひどく幻滅を感じて、再び、運動に加わることはなかったよ。
 
そんな時、ベトナム戦争でのソンミ村虐殺事件が報道されたんだ。
週刊誌に載った写真には、若い米兵がベトナム人の、首から切られた頭の髪の毛をつかんで、ぶら下げて立っていた。
顔はニヤリと笑っていたねえ。 
もう一枚には、メコン川を数珠つなぎにされた死体が流れて行くのを、遊覧船のような船から多くの人間が眺めていた。
 
僕はこれを見たとき、衝撃のあまり体が硬直してしまった。そんな中で、
「こんなことは人間世界に許されるべきことではない。僕は、殺し合う人間の愚かさを文章の力で暴き、この世から残酷な殺戮(さつりく)を無くしていくことを生涯の仕事にしよう」と心の底から誓ったねえ。
 
その後、学生運動は、中核派、革マル派などと分裂し、内ゲバ(内部分裂)からリンチ殺人事件も多数起こし、やがて、連合赤軍の浅間山荘事件へと進んでいったよ。
そして、事件が収束すると共に、学生運動の灯は消えていってしまったねえ。
 
野間宏さんの『暗い絵』は、僕の学生時代と2重写しになる部分もあり、暗く重いけれども、読みごたえのある作品だったよ。
その他の代表作としては、昭和27年(1952)に発表された、
 
『真空地帯』これがあるねえ。
 
『真空地帯』は、正義と規律を重んじるはずの軍隊内部で起きている、醜い主導権争いや個人的保身の姿を真正面から描いているねえ。
外部からは遮断されて、人権無視のいじめや報復が行われる軍隊のことを、真空地帯と呼んだわけだねえ。
『真空地帯』は話題作となり、映画や演劇にもなったね。
 
次の第1次戦後派の作家は、
 
《椎名麟三(しいなりんぞう)》さん。この人だ。代表作は、
 
『深夜の酒宴』これだ。
 
内容は、空襲で焼け残ったみすぼらしいアパートで生活している、社会の片隅に追いやられた人々の生活が描かれているよ。
前科者の肉体労働者。肺病の婦人。働く能力のない者。盗癖(とうへき)があったり、栄養失調であったりする子供たち。
その中で主人公は、共産主義運動に誘って獄死させてしまった友人の遺族に、償(つぐな)いの金を送っている。
 
こんなところだ。『深夜の酒宴』は、実存主義の作品として認められ、椎名麟三さんの出世作になったねえ。
 
次の作家は、
 
『中村真一郎』さん。この人だ。作品は、
 
『死の影の下(した)に』これだ。
 
(梗概)
『主人公の《私》は、ある日、突然、不安に襲われて、過去の記録をたどる。
田舎で生活した幼少年期。読んだ本、友人、映画女優との出会い。母の亡くなった後、養育してくれた伯母。その叔母の死。
これを通して、《喪失とは、自分の変化である》ということを自覚する。
 
上京してからの父との生活。出会った上流社交界の軽薄な人々。過去から突然、出現する人間。それらが登場人物となって、繰り広げられるドラマ。
それらに《私》は、孤独と恐怖を感じる。
 
やがて、父の入院。そして死。
《私》の孤独と不安は、さらに深まってゆく。
回想の中に浸っていた《私》は、ようやく、現実に返る。』
 
こんな内容だねぇ。話の筋が、ドラマチックで面白いというものではないけれど、大変興味深い書き方になっているよ。
中村真一郎さんのデビュー作となったものだ。中村真一郎さんは、新心理主義作家の堀辰雄さんに東京大学の学生の時に出会って、それ以来、生涯、師匠として教えを受けたねえ。
だから、『死の影の下に』も心理主義の小説の手法を取り入れて書かれているよ。
 
また、《現実は意識の経験の一部にすぎず、意識の世界は広大な無意識の一部にすぎない》という文学観に立っているねえ。
この文学観の下で書かれた『死の影の下に』は、長編5部作の第1部と位置づけられるものなんだよ。
あと、4つの作品が昭和27年(1952)まで書き継がれているので、こういう小説が好きな人は、読むといいよ。

さて、次の作家は、
 
《梅崎春生(うめざきはるお)》さん。この人だ。代表作は、
 
『桜島』これだ。
 
『桜島』も、第1次戦後派にほぼ共通している、暗い戦争体験が素材になっているねえ。
内容は、主人公の暗号兵が、桜島基地で太平洋戦争の終わりごろから、敗戦の知らせを受けるまでのことが書かれているねえ。
 
(梗概)
『主人公は、「死ぬときは美しく死にたい」と願っていた。
桜島基地への転属の途中で、耳の無い娼婦と会う。彼女から、「どうやって死ぬの、ねえ教えて」と聞かれたが、死の瞬間の恐怖を感じると答えられなかった。
 
桜島中腹の基地には、さまざまな人間模様があった。
勝利を信じて疑わない純真な心の少年兵。誰彼となく当たり散らす下士官。感じの悪い特攻隊員。
 
ある日、双眼鏡で農家をのぞいていると、首を吊って死のうとしている老人が見えた。そこを孫に見つかって、実行できずにいる様子も見えた。
声は聞こえないので、まるでパントマイムの演技を見ているような錯覚になる。
 
滅亡の美しさを話してくれた見張り兵は、終戦直前、彼が自分で予想した通り、ツクツクボウシの鳴く中で、敵機の機銃掃射で一瞬のうちに死んでしまう。
その遺骸(いがい)に触れながら、主人公は、「滅亡が何で美しくありえよう」と感じる。
 
敗戦の知らせがくる。異常な戦慄(せんりつ)を覚えながら、まぶたを焼くような熱い涙がとめどなく流れる。』
 
こんなところだね。
『桜島』は、作者の梅崎春生さん自身が、徴兵を受けて、鹿児島県で暗号兵として任務についた時の実体験が元になっているねえ。
 
ところで、前にも言ったけれど、僕の書いている(梗概)には、少々間違っているところがあるかもしれないねえ。
というのは、何十年も前に読んだ記憶をもとに書いているので、仕方がないよね。
梗概が、少々間違っていたとしても、文学史の学習としては、全く悪影響はないので、気にしないでね。

もし、本稿に登場する作品を全部、読み直していたとしたら時間がかかって仕方がないよねえ。それでもこの、梅崎春生さんの『桜島』は、短編でもあるし、思い出しているうちに、また読みたくなったねえ。

今年は、梅崎春生さんが亡くなってから49年目だ。著作権はあと1年、残っているので、いつも利用させてもらっている
《青空文庫》にはまだ、掲載されていない。
 
それで仕方なく、ガレージの薄暗い奥に置いている大きなロッカーを開けてみたよ。
いっこうに変わらない状態だけれど、雑多に本が山積にされている。
老眼と緑内障で見えにくい視力で、その中から『桜島』を探すのかと思うと、読む気力が萎(な)えてしまったよ。
年は取りたくないねえ。
 
敗戦は、国民にとって大ショックだったよね。梅崎春生さんに限らず、ほとんどの作家たちにとっても、その衝撃はすさまじいものだったわけだ。
だから『桜島』以外にも、多くの作家が敗戦をテーマにした作品を書いているねえ。それらを読むと、敗戦が単なる歴史上の事実から、生々しい現実として僕たちに迫ってくるねえ。
これが、小説の楽しさだよね。
 
それじゃ、第1次戦後派、最後の作家に進もう。
その人の名は、
 
《武田泰淳(たけだたいじゅん)》さん。この人だ。代表作は、
 
『蝮(まむし)のすゑ』これだ。
 
内容は、敗戦直後の上海が舞台になっているねえ。主人公が、ふとしたことから、ドロドロとした事件に巻き込まれるという話だ。
女とその病気の夫。女と関係ができた夫の上司。そして主人公。女の雇った殺し屋。殺人事件。
 
欲望と人情の絡んだ暗い男と女の生きざまが描かれているねえ。
日本への引き揚げ船の中で、主人公は、
「戦争で負けようが、国がなくなろうが、生きていけることは確かだな」
と考えるところがあるけれど、これが作者、武田泰淳さんの文学理念ともいえるだろうねえ。
 
『蝮のすゑ』という題名は、聖書の中の言葉から引用されているよ。〝蝮〟というのは、キリストの教えとして、救いようのない罪悪な人間のことだね。
〝すゑ〟というは末裔(まつえい)、子孫という意味だよ。
 
読むとうっとうしい小説だけれど、戦後文学において、武田泰淳さんの特異な資質と創作方法が認められた作品では、あるんだよ。
 
さあこれで、第1次戦後派を終わりにするけれど、これまでに出てきた『暗い絵』『深夜の酒宴』『死の影の下に』『桜島』『蝮のすゑ』はいずれも、昭和21年(1946)から翌年にかけて発表されたものなんだねえ。
 
第1次戦後派を年代的に考えれば、戦後の『近代文学』創刊から昭和22年(1947)ごろに出てきた作家たちと言えるだろうねえ。