オチケン風『日本文学史』近現代Ⅲ【昭和戦後】(小説・評論)〈10〉【風俗小説】

 
ところで、戦後の数年間には、既成作家・ベテラン作家や新戯作派・無頼派と言われた人たちが活躍した以外に、注目すべき文学の流れが新しく起こっているよ。それが、
 
《風俗小説》これだ。
 
敗戦という未曾有の、社会体制の変革は、当然ながら、人々の生態風俗も一変させたねえ。
敗戦までは、考えられなかったような社会現象が、次々と出てくるわけで、それらを気軽に楽しく読めるように書いた作品が、世の中に出てくることは当然であったともいえるねえ。
それが、風俗小説だ。
 
風俗小説とそれ以外の文学小説との大きな違いは何か。
簡単に言えば、同じ生態風俗を素材として書いたとしても、文学小説の目的は、素材を通して、筆者が狙いとする、人生論的、思想的、哲学的、宗教的など、さまざまなテーマを表現するところにあるよね。
 
それ対して風俗小説は、生態風俗を何かの意図のもとに書くのではなくて、生態風俗そのものの興味深さや面白さを書くものだねえ。
いわば、生態風俗を方法論として使うのか、目的論として使うのかの違いだよ。
 
風俗小説の項目は、君の持っている文学史の資料では、載っていないかもしれないねえ。触れられていたとしても、ほんのわずかだろう。
文学性の乏しい大衆小説というわけで、入試にもあまり出てこないねぇ。
でも、実際には、この風俗小説の出現は、近現代日本文学史においては、非常に大きな意義を持っているよ。
 
短絡して言えば、現在の小説の主流は、すべて、風俗小説の流れをくんでいると言ってもいいんだからね。
 
だって、今は誰もが、
「お金を出して買うんだったら、おもしく、おかしいものがいいに決まっているよ。わざわざ、難しいもの、深刻なもの、考えなければならないような小説を、お金を出して買うわけがないじゃん」と言うよね。
これこそ風俗小説の社会的土壌という以外の何物でもないよ。
 
戦後、検閲も無くなったなかで、風俗小説は、次々と登場してきたねえ。
代表作は、
 
《丹羽文雄(にわふみお)》さんの、
 
『厭(いや)がらせの年齢』
 
《林芙美子(ふみこ)》さんの、
 
『浮雲』
 
《田村泰次郎(たいじろう)》さんの、
 
『肉体の門』
 
などがあるねえ。
頭のどこかに置いておけば、入試に出た時、ラッキーだよ。
 
風俗小説がはびこることに、危機感を抱いた文芸評論家がいたねえ。その人の名前は、
 
《中村光夫》さん。この人だ。
 
中村光夫さんは、優れた文芸評論家だよ。僕もよく読んだものだ。
君がもし、文芸評論を読みたいけれど誰のものがいいのか、と問うなら、まず何より中村光夫さんのものを読むことを勧めるね。
生前、教育テレビの文学講座に出ていた姿を拝見したけれど、小柄で頑固そうなおじいちゃんだったよ。
 
中村光夫さんの評論は、非常に明瞭、明確で、読み進めるうちに、まるで、もつれた糸が解きほぐされるように感じるねえ。
その中村光夫さんが、風俗小説を近代リアリズムの崩壊と批判した評論が、
 
『風俗小説論』これだよ。
 
『風俗小説論』は、暇があれば、ぜひとも君に1度、読んでもらいたい書籍だよ。
戦後の代表的な評論として、名を残しているものだよ。
 
さてと、それじゃあ、これで、【新戯作派・無頼派・風俗小説】の項目を終えることにするよ。