オチケン風『日本文学史』近現代Ⅲ【昭和戦後】(小説・評論)〈9〉【新戯作派・無頼派】
既成作家の活躍は、敗戦という社会の大変革を、ある意味でパスしていると言えるねえ。
どうしてかというと、既成作家の多くは、国家権力の規制の中、戦中戦前から構想を練ったり、書き溜めたりしていたものを敗戦を契機に発表したんだ。だから、作品は、戦前からの流れをそのまま受け継いだ性質を持ったものだったわけだ。
敗戦になろうがなるまいが、内容に違いはなかったといえるねえ。
それに対して、敗戦の社会的状況をまともにとらえて、新たな文学の世界を創造しようとした人たちも、当然、出てきたわけだねえ。
その1つが、新戯作派・無頼派の作家と言われる人たちだよ。
新戯作派も無頼派も同じ意味に使われるので、本稿では、無頼派の方を使うことにするよ。
敗戦は、言うまでもなく、政治形態、社会機構といった形に見えるものから、さらに、思想宗教、道徳、倫理など目に見えない精神的なものにまで、大激変をもたらしたよねえ。
精神的激変の最大のものは、現人神であった天皇が、人間宣言を行ったことだねぇ。絶対的存在の神が崩壊したわけだ。
価値観の基底の柱が粉々に崩れ去ってしまった。これは、あらゆる方面に根本的な地殻変動を起こさせたねえ。
「何が正しくて、何が悪いのか。何を信用すればよいのか。誰の言う事が正統で、誰の言うことが異端なのか。いったい、どんな生き方をしたらいいのか。すべてに答えがなかった」これが、当時の僕の父の感想だ。
こんな世相の中で、ベストセラーになった評論が発表されたねえ。
作者は、
《坂口安吾(あんご)》さん。この人だ。作品は、
『堕落論』これだ。
『堕落論』は、昭和21年(1946 )に雑誌に掲載されたねえ。これは大変な反響を呼ぶことになり、坂口安吾さんを一躍、有名人にさせたよ。
『堕落論』の終わりの部分は次のようなものだ。
『人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。
(中略)
人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人のごとくに日本もまた堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮(じょうひ)だけの愚(ぐ)にもつかない物である』
こんなものだねえ。
道理、義理、人情などといったような上辺(うわべ)の評価軸から徹底して堕落することによって、人間存在の根源に行きつき、そこから、真実の人間回復ができる。
と主張したわけだ。
これは当時の、敗戦国になり全てが混乱した世の中で、人々の心の中にストレートに入ってくる、共感を呼ぶ思想だったわけだねえ。
この『堕落論』にひかれる風潮は、戦後の日本社会の底流に流れる水脈のようなものだったことを押さえておきたいねえ。
それはまた、無頼派という文学流派を支えた思想的背景でもあったわけだ。
戦後の文学を勉強していくと、
「どうして、こんな、面白くもなく、破滅を感じさせるような作品が歓迎されたのだろうか?」
と不審に思うことがあるだろうねえ。その答えは、敗戦後の人々の心の状態だったということなんだねえ。
筆者の阪口安吾さん自身は、何度も薬物中毒へと堕落し、幻聴や幻視を起こしながら、48年間の苦しい人生を終えたねえ。
それでは続いて、小説家を見ていこう。ここで登場するのが、かの有名な、
《太宰治(だざいおさむ)》さん。この人だ。
太宰治さんについては、オチケン風『日本文学史・古典文学編』でも少し話をしたねえ。
僕の大学の恩師は、旧青森中学校で、太宰治さんと同じ教室で机を並べて勉強した学友だったんだよ。
恩師から、時々、太宰治さんの行状を聞いたけれど、決まって、不機嫌そうに話をしていたのが印象に残っているよ。
恩師は、太宰治さんが嫌いだった。
なにより、石鹸の匂いをさせて教室に入ってくるのが、不愉快であったと言う。当時、風呂に入るのに石鹸を使えるのは、ほんの少数の大金持ちだけだったらしいねぇ。
恩師は、貧しい家計のなか、無理をして中学に進学していたんだ。
まあ、こんな話はさておき、太宰治さんが、中学時代から作文が上手であったというのは、同窓の生徒も教師も認めているところだった。
それで、たくさんの作品を書いているけれど、この時期の作品として注目すべきは、昭和22年(1947)に発表した、
『斜陽(しゃよう)』これだ。
『斜陽』は、没落貴族の家庭を描き、母、姉、弟、小説家などの登場人物が、それぞれ、破滅の人生を歩んでいくという筋だ。
その中でただ姉だけは、
「こいしい人の子を産み、育てる事が、私の道徳革命の完成なのでございます」
と世間的に言えば、不道徳な生き方だが、それを超越して強く生きようとする姿が描かれているねえ。
終わりに近い部分を引用しておくよ。
『犠牲者。道徳の過渡期の犠牲者。あなたも、私も、きっとそれなのでございましょう。
革命は、いったい、どこで行われているのでしょう。すくなくとも、私たちの身のまわりにおいては、古い道徳はやっぱりそのまま、みじんも変らず、私たちの行く手をさえぎっています。
(中略)
私生児と、その母。けれども私たちは、古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです。
どうか、あなたも、あなたの闘いをたたかい続けて下さいまし。
革命は、まだ、ちっとも、何も、行われていないんです。もっと、もっと、いくつもの惜しい貴い犠牲が必要のようでございます。
いまの世の中で、一ばん美しいのは犠牲者です。』
こんなところだねぇ。
さらに、次の作品は、昭和23年(1948)に発表された、
『人間失格』これだ。
『人間失格』は、小説の形をとっているけれど、太宰治さん自身の人生を告白的に書いたものだねえ。
20歳・共産主義にあこがれていたが、自分の出身が県下有数の大地主であることを苦に睡眠薬自殺を図る。
21歳・飲食店に勤めていた、人妻であったウエートレスと鎌倉の海に入水して、心中を図る。相手の女性のみが死ぬ。
自殺ほう助罪で逮捕される。芸者と同棲し、その後結婚。
26歳・東大卒業絶望。都新聞社入社試験失敗。首つり自殺未遂。
慢性的な薬物中毒。
28歳・芸者だった妻が親類の学生と関係していることを知る。妻と心中未遂を起こす。妻と離別。
29歳・別の女性と結婚。子供3人誕生する。
38歳・愛人との間に女児が誕生。
39歳・5月、『人間失格』を完成させる。6月、別の愛人と東京都三鷹町の玉川上水で心中自殺する。満年齢は38歳。
これが太宰治さんの人生であり、小説『人間失格』だ。
ただ、小説の主人公は、東北の海辺の廃屋に廃人となって生活を送ることになっているねえ。
既成のモラルに反逆し、退廃的な作品を書き、また現実にもそんな生き方をした太宰治さんだったけれど、逆に、短編小説『走れメロス』に貫かれている純粋さを人一倍、渇仰(かつごう)していたのかもしれないねえ。
それが、いまなお、多くの人々の心をひきつける魅力なのだろうね。
太宰治さんこそ、無頼派・新戯作派と言われるのにふさわしい作家であったと言えるね。
その他の作品も挙げておくよ。
『晩年』(短編集。過敏な思春期を題材)
『お伽草子(とぎぞうし)』(短編集。童話を面白く再構成)
『ヴィヨンの妻』(愚かな夫とひたむきで誠実な妻)
こんなところかなぁ。
それじゃ、坂口安吾さん、太宰治さん以外の、無頼派の作家と作品を見ていこう。
まずは、第4回芥川賞受賞の作家、
《石川淳(じゅん)》さん。この人だ。代表作は、
『焼跡のイエス』これだ。
『焼跡のイエス』は、題名も興味深いし、短編なので、勉強疲れになったら、読んでごらん。面白いよ。
戦後の荒廃の中で、その中に埋もれるのではなく、荒廃の中にこそ新しく生きる道がある、と励ましているようだねえ。
この精神は、石川淳さんの一貫した作家魂だよ。
次の作家は、
《織田作之助(おださくのすけ)》さん。この人だ。
織田作之助さんは、全国的にはあまり有名ではなくて、入試にも時々しか出ないけれど、出身地の大阪では、《オダサク》と呼ばれて親しまれている作家だよ。
大阪の文学関係者によって、〝織田作之助賞〟も設けられているねえ。
大阪を舞台にした出世作の、
『夫婦善哉(めおとぜざい)』はよく知られているよ。
何度も、映画化、TVドラマ化、舞台化されているねえ。
さらに、京都を舞台にした、
『土曜夫人』を新聞に連載していた時だ。
肺結核のため急死したねえ。『土曜夫人』は未完で終わってしまったよ。享年(きょうねん)33歳だった。
さらに、次の作家は、《伊藤整(せい)》さん。この人だ。
〝整〟の字は、〝せい〟と読んでも〝ひとし〟と読んでも、どちらでもいいよ。
伊藤整さんは、新心理主義の理論的な構築をなした文学者でもあったねえ。
さまざまな面で活躍をした人だ。無頼派の作品としては、
『鳴海仙吉(なるみせんきち)』
『火の鳥』
などが挙げられるねえ。『鳴海仙吉』も『火の鳥』も読みごたえのある作品だよ。小説という虚構を通じながら、作者、伊藤整さんの思想的テーマを投げかけているねえ。
進路が決まれば、じっくりと腰を据えて読めばいいねぇ。それではこれで、新戯作派・無頼派の文学については終わりにしておこう。
ここで、1人、文学流派とは関係なく、独自の私小説世界を創作し、人気のあった作家を紹介しておくよ。
その人の名は、
《上林暁(んばやしあかつき)》さん。この人だ。代表作は、
『聖ヨハネ病院にて』これだ。
『聖ヨハネ病院にて』は、昭和21年(1946)に発表されているねえ。
内容は、脳の病気で入院している盲目の妻に、夫である〝僕〟は、キリスト教徒よりももっとキリスト教徒的に、献身的な看病をする、という話だよ。
上林暁さんの体験に基づいた作品で、敗戦後の人々の荒廃した心に、感動の明かりをともしたねえ。
既成作家の活躍は、敗戦という社会の大変革を、ある意味でパスしていると言えるねえ。
どうしてかというと、既成作家の多くは、国家権力の規制の中、戦中戦前から構想を練ったり、書き溜めたりしていたものを敗戦を契機に発表したんだ。だから、作品は、戦前からの流れをそのまま受け継いだ性質を持ったものだったわけだ。
敗戦になろうがなるまいが、内容に違いはなかったといえるねえ。
それに対して、敗戦の社会的状況をまともにとらえて、新たな文学の世界を創造しようとした人たちも、当然、出てきたわけだねえ。
その1つが、新戯作派・無頼派の作家と言われる人たちだよ。
新戯作派も無頼派も同じ意味に使われるので、本稿では、無頼派の方を使うことにするよ。
敗戦は、言うまでもなく、政治形態、社会機構といった形に見えるものから、さらに、思想宗教、道徳、倫理など目に見えない精神的なものにまで、大激変をもたらしたよねえ。
精神的激変の最大のものは、現人神であった天皇が、人間宣言を行ったことだねぇ。絶対的存在の神が崩壊したわけだ。
価値観の基底の柱が粉々に崩れ去ってしまった。これは、あらゆる方面に根本的な地殻変動を起こさせたねえ。
「何が正しくて、何が悪いのか。何を信用すればよいのか。誰の言う事が正統で、誰の言うことが異端なのか。いったい、どんな生き方をしたらいいのか。すべてに答えがなかった」これが、当時の僕の父の感想だ。
こんな世相の中で、ベストセラーになった評論が発表されたねえ。
作者は、
《坂口安吾(あんご)》さん。この人だ。作品は、
『堕落論』これだ。
『堕落論』は、昭和21年(1946 )に雑誌に掲載されたねえ。これは大変な反響を呼ぶことになり、坂口安吾さんを一躍、有名人にさせたよ。
『堕落論』の終わりの部分は次のようなものだ。
『人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。
(中略)
人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人のごとくに日本もまた堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮(じょうひ)だけの愚(ぐ)にもつかない物である』
こんなものだねえ。
道理、義理、人情などといったような上辺(うわべ)の評価軸から徹底して堕落することによって、人間存在の根源に行きつき、そこから、真実の人間回復ができる。
と主張したわけだ。
これは当時の、敗戦国になり全てが混乱した世の中で、人々の心の中にストレートに入ってくる、共感を呼ぶ思想だったわけだねえ。
この『堕落論』にひかれる風潮は、戦後の日本社会の底流に流れる水脈のようなものだったことを押さえておきたいねえ。
それはまた、無頼派という文学流派を支えた思想的背景でもあったわけだ。
戦後の文学を勉強していくと、
「どうして、こんな、面白くもなく、破滅を感じさせるような作品が歓迎されたのだろうか?」
と不審に思うことがあるだろうねえ。その答えは、敗戦後の人々の心の状態だったということなんだねえ。
筆者の阪口安吾さん自身は、何度も薬物中毒へと堕落し、幻聴や幻視を起こしながら、48年間の苦しい人生を終えたねえ。
それでは続いて、小説家を見ていこう。ここで登場するのが、かの有名な、
《太宰治(だざいおさむ)》さん。この人だ。
太宰治さんについては、オチケン風『日本文学史・古典文学編』でも少し話をしたねえ。
僕の大学の恩師は、旧青森中学校で、太宰治さんと同じ教室で机を並べて勉強した学友だったんだよ。
恩師から、時々、太宰治さんの行状を聞いたけれど、決まって、不機嫌そうに話をしていたのが印象に残っているよ。
恩師は、太宰治さんが嫌いだった。
なにより、石鹸の匂いをさせて教室に入ってくるのが、不愉快であったと言う。当時、風呂に入るのに石鹸を使えるのは、ほんの少数の大金持ちだけだったらしいねぇ。
恩師は、貧しい家計のなか、無理をして中学に進学していたんだ。
まあ、こんな話はさておき、太宰治さんが、中学時代から作文が上手であったというのは、同窓の生徒も教師も認めているところだった。
それで、たくさんの作品を書いているけれど、この時期の作品として注目すべきは、昭和22年(1947)に発表した、
『斜陽(しゃよう)』これだ。
『斜陽』は、没落貴族の家庭を描き、母、姉、弟、小説家などの登場人物が、それぞれ、破滅の人生を歩んでいくという筋だ。
その中でただ姉だけは、
「こいしい人の子を産み、育てる事が、私の道徳革命の完成なのでございます」
と世間的に言えば、不道徳な生き方だが、それを超越して強く生きようとする姿が描かれているねえ。
終わりに近い部分を引用しておくよ。
『犠牲者。道徳の過渡期の犠牲者。あなたも、私も、きっとそれなのでございましょう。
革命は、いったい、どこで行われているのでしょう。すくなくとも、私たちの身のまわりにおいては、古い道徳はやっぱりそのまま、みじんも変らず、私たちの行く手をさえぎっています。
(中略)
私生児と、その母。けれども私たちは、古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです。
どうか、あなたも、あなたの闘いをたたかい続けて下さいまし。
革命は、まだ、ちっとも、何も、行われていないんです。もっと、もっと、いくつもの惜しい貴い犠牲が必要のようでございます。
いまの世の中で、一ばん美しいのは犠牲者です。』
こんなところだねぇ。
さらに、次の作品は、昭和23年(1948)に発表された、
『人間失格』これだ。
『人間失格』は、小説の形をとっているけれど、太宰治さん自身の人生を告白的に書いたものだねえ。
20歳・共産主義にあこがれていたが、自分の出身が県下有数の大地主であることを苦に睡眠薬自殺を図る。
21歳・飲食店に勤めていた、人妻であったウエートレスと鎌倉の海に入水して、心中を図る。相手の女性のみが死ぬ。
自殺ほう助罪で逮捕される。芸者と同棲し、その後結婚。
26歳・東大卒業絶望。都新聞社入社試験失敗。首つり自殺未遂。
慢性的な薬物中毒。
28歳・芸者だった妻が親類の学生と関係していることを知る。妻と心中未遂を起こす。妻と離別。
29歳・別の女性と結婚。子供3人誕生する。
38歳・愛人との間に女児が誕生。
39歳・5月、『人間失格』を完成させる。6月、別の愛人と東京都三鷹町の玉川上水で心中自殺する。満年齢は38歳。
これが太宰治さんの人生であり、小説『人間失格』だ。
ただ、小説の主人公は、東北の海辺の廃屋に廃人となって生活を送ることになっているねえ。
既成のモラルに反逆し、退廃的な作品を書き、また現実にもそんな生き方をした太宰治さんだったけれど、逆に、短編小説『走れメロス』に貫かれている純粋さを人一倍、渇仰(かつごう)していたのかもしれないねえ。
それが、いまなお、多くの人々の心をひきつける魅力なのだろうね。
太宰治さんこそ、無頼派・新戯作派と言われるのにふさわしい作家であったと言えるね。
その他の作品も挙げておくよ。
『晩年』(短編集。過敏な思春期を題材)
『お伽草子(とぎぞうし)』(短編集。童話を面白く再構成)
『ヴィヨンの妻』(愚かな夫とひたむきで誠実な妻)
こんなところかなぁ。
それじゃ、坂口安吾さん、太宰治さん以外の、無頼派の作家と作品を見ていこう。
まずは、第4回芥川賞受賞の作家、
《石川淳(じゅん)》さん。この人だ。代表作は、
『焼跡のイエス』これだ。
『焼跡のイエス』は、題名も興味深いし、短編なので、勉強疲れになったら、読んでごらん。面白いよ。
戦後の荒廃の中で、その中に埋もれるのではなく、荒廃の中にこそ新しく生きる道がある、と励ましているようだねえ。
この精神は、石川淳さんの一貫した作家魂だよ。
次の作家は、
《織田作之助(おださくのすけ)》さん。この人だ。
織田作之助さんは、全国的にはあまり有名ではなくて、入試にも時々しか出ないけれど、出身地の大阪では、《オダサク》と呼ばれて親しまれている作家だよ。
大阪の文学関係者によって、〝織田作之助賞〟も設けられているねえ。
大阪を舞台にした出世作の、
『夫婦善哉(めおとぜざい)』はよく知られているよ。
何度も、映画化、TVドラマ化、舞台化されているねえ。
さらに、京都を舞台にした、
『土曜夫人』を新聞に連載していた時だ。
肺結核のため急死したねえ。『土曜夫人』は未完で終わってしまったよ。享年(きょうねん)33歳だった。
さらに、次の作家は、《伊藤整(せい)》さん。この人だ。
〝整〟の字は、〝せい〟と読んでも〝ひとし〟と読んでも、どちらでもいいよ。
伊藤整さんは、新心理主義の理論的な構築をなした文学者でもあったねえ。
さまざまな面で活躍をした人だ。無頼派の作品としては、
『鳴海仙吉(なるみせんきち)』
『火の鳥』
などが挙げられるねえ。『鳴海仙吉』も『火の鳥』も読みごたえのある作品だよ。小説という虚構を通じながら、作者、伊藤整さんの思想的テーマを投げかけているねえ。
進路が決まれば、じっくりと腰を据えて読めばいいねぇ。それではこれで、新戯作派・無頼派の文学については終わりにしておこう。
ここで、1人、文学流派とは関係なく、独自の私小説世界を創作し、人気のあった作家を紹介しておくよ。
その人の名は、
《上林暁(んばやしあかつき)》さん。この人だ。代表作は、
『聖ヨハネ病院にて』これだ。
『聖ヨハネ病院にて』は、昭和21年(1946)に発表されているねえ。
内容は、脳の病気で入院している盲目の妻に、夫である〝僕〟は、キリスト教徒よりももっとキリスト教徒的に、献身的な看病をする、という話だよ。
上林暁さんの体験に基づいた作品で、敗戦後の人々の荒廃した心に、感動の明かりをともしたねえ。