オチケン風『日本文学史』近現代Ⅲ【昭和戦中】(小説・評論)〈6〉【戦時・思想統制化の文学】
戦争はすべてを破壊するねぇ。物質的なものも精神的なものも。
国家権力に、心身ともの自由が奪われる社会は、文化も文学も不毛地帯となってしまうねえ。
戦争は、本来、人間の内面的な自由として守られなければなない基本的な人権さえも、ファシズム的国家体制の従属物にしてしまうんだよね。
不敬罪、治安維持法の悪用により、戦況が厳しくなればなるほど、徹底して、思想検閲がなされたねえ。
当然ながら、文学作品も文学的価値からではなく、戦争遂行と国威の発揚(はつよう)にどれだけ役に立つのかという基準から出版の可否が決められたよ。
国を批判するようなことでも書けば、特別高等警察による逮捕、尋問、拷問が待っていたねえ。
特別高等警察というのは、特高(とっこう)と言われて、内務省の直接指示によって動く組織で、恐れられていたよ。
僕が幼いころ、冗談で、天皇の悪口を言った時など、母親は顔色を変えて唇に指を当て、
「シィーッ、誰かに聞かれたらどうするの。そんなこと言ったら特高が来て、連れていかれる」
と言って、部屋の中だったにもかかわらず、あちらこちらと鋭い視線を向けて警戒する様子を見せるんだよ。戦争は終わっていたのに。
こんなことが何回もあって、僕の幼い心の中では、特高と警察官とが結びついて、成長してからもしばらくの間、警察官を見ると無意識の恐怖感に襲われたねえ。
それなのに、大学卒業して就職先を選ぶ時、大阪府警を候補の1つに選んだよ。採用試験にも通って、警察学校に入学手続きをしようとしていた時、教員の方も採用決定されたのでそちらにしたけどさぁ。
この時期には、特高によって、どれほど多くの良識的、反戦的な知識人、文化人、思想家、社会運動家、宗教者、文学者などが逮捕されたか知れないねえ。
その中には、『蟹工船』の小林多喜二さんのように、正式な裁判を受ける前に、拷問死したり、獄中で病死したりした人が、非常に多くいたねえ。詳細は闇の中だけどさぁ。
逆に、国民精神総動員のもと、戦意を鼓舞(こぶ)するようなものは、国から歓迎されたわけだ。
軍歌は次々と作られて、兵隊が、勇ましく喜んで死んでいけるような雰囲気のものが多く出てきたねえ。
そして、たくさんの作家たちが、軍隊の報道班員、従軍記者として、前線へ駆り出されたよ。
もともと作家だった彼らが、実際の体験をもとに書き上げた報告文は、一種の文学のような趣を持ってきたんだよ。
そんな中で、出てきたのが、
《火野葦平(ひのあしへい)》さんの、
『麦と兵隊』(中国徐州作戦の従軍体験)これだ。
『麦と兵隊』は、厳しい検閲で発売禁止にさせられる書籍が多い中で、ベストセラーになったねえ。
これを契機に、《戦争文学》と言えるような作品が流行することにもなったよ。
さらに、軍歌と同じように、戦争遂行への意欲を高めたり、美化したりするような小説も出てきたねえ。それらのことを、
《国策(こくさく)文学》と呼んだねえ。
国策文学の作品は、文学性も低く、見るべきものはないねえ。歴史の資料としては面白いだろうけれど、文学史に残すようなものは、ほとんど無いよ。
芥川賞・直木賞は、敗戦の年から数年間は中止になっているねえ。中止になる前の戦時中の直木賞受賞作を見ると面白いよ。
多くの作品が、当たり前に小説を書いてきて、終わりの部分に、次のような内容の文を付け加えているよ。
『・・・こうして彼は、お国のために、元気よく出征して行ったのであった』
こんなもんだ。この部分が、いかにも、取って付けたような不自然さなんだよねぇ。
戦時下の言論、思想の統制は、文化活動のすべてを戦争遂行の一点に集中させようとしていたのがよく分かるね。
昭和17年(1942 )には、内閣情報局の主導で《日本文学報国会》が結成されたよ。すべての文学者を団結させて、戦争に協力させようとしたものだ。
こんな戦争一色の世の中で、社会の流れに影響されずに、独自の文学世界を創作し続けようとした作家もいたねえ。
代表的な人は、
《徳田秋声》さん。この人だ。代表作は、
『縮図』これだ。
『縮図』は、太平洋戦争が始まった、昭和16年(1941)に新聞連載を始めたねえ。
内容は、花柳(かりゅう)界に生きる芸者の人生を描いている。
ところが、3カ月後には、内閣情報局の圧力で、連載を中止させられたよ。
次には、漢文学に造詣(ぞうけい)の深かった作家として、
《中島敦(あつし)》さんが挙げられるねえ。代表作は、
『山月記(さんげつき)』これだ。さらに、
『李陵(りりょう)』がある。
『山月記』は、よく教科書にも載る短編だね。中国の唐時代のことで、人間がトラになった話だ。
『李陵』は、中国前漢時代の軍人、李陵の活躍を書いたものだ。
『山月記』『李陵』共に、昭和17年(1942 )に発表されているよ。
戦時下の中で、文学性の香りの高い作品として高く評価されているねえ。
次の作家は、
《谷崎潤一郎》さん。この人だ。作品は、
『細雪(ささめゆき)』これだ。
『細雪』は、昭和18年(1943)に雑誌に掲載を始めているねえ。内容は、戦争とは全く関係のない話で、関西の上流階級の4姉妹の日常を描いているよ。
当然ながら、軍部から中止命令が出て、中断したねえ。完成したのは戦後になってからのことだ。
もちろん、これらの人以外にも、戦時中、活躍した文学者はいるけれど、徹底した思想統制の下では、自由で活発な出版活動や文芸運動は、息をひそめざるを得なかったよね。
戦争が文学者へ与えて影響は、こうした物理的な側面はもちろんだけれど、それ以上に打撃を与えたのは精神面だったねえ。
特に、戦前、戦中に戦争を礼讃(らいさん)したり、美化したり、正当化したり、意義付けしたりして、戦争遂行の手助けをするような作品を書いた人は、良心的であればあるほど、深い心の傷を負うことになったねえ。
本来、人間の旗を掲げて、戦争に反対すべき文学者が、国家権力の恫喝(どうかつ)に恐れをなして屈服し、〝人殺し〟を推進したことは、作家としての命を断つことに等しいよねえ。
平時(へいじ)の時には、人命の尊さ、平和の尊さ、戦争の残酷さを書いておきながら、我が身に迫害が及ぶとなると、手のひらを返したように、戦争推進派に寝返ることは、人々に対する、社会に対する裏切り行為になってしまうね。
戦後、このことが厳しく問われることになったのは当然だよね。社会から追及される以上に、文学者自身の自己批判に長い間、苦しみ、耐えなければならないことになったねえ。
余談になるけどさあ。
このごろ、マスコミに出ている評論家やコメンテーターといわれるような人を見ていると、何も自分に不利益が及ばない時には、戦争反対、平和尊重などと、分別くさい顔をして声高に言っているけれどさあ、いざ、権力の圧力がかかった時には、コロリと言う事を翻(ひるがえ)しそうな、信念のない打算的な人が多いのではないかと思うよ。
立場や、関係する政党が変わると、コロコロと言うことが変わる人が何と多いことだろうねえ。羞恥心はないのかねえ。
ところで、太平洋戦争というと、僕にとっては単なる歴史上の出来事ではなくなるんだよ。
というのは、僕の父は太平洋戦争中に、東南アジアの南方諸島と中国東北部・旧満州に戦役で出兵しているんだよ。
戦場での話はいろいろ聞いたよ。また、腕を振りながら歌う軍歌もよく聞いた。
敗戦が近づくにつれて、鉄が不足してきて、鉄かぶとの素材の鉄も粗悪になってきていた。
ある日の戦闘で、父の鉄かぶとに弾丸が当たった。
弾丸は正面から少しだけ右にそれていたが、もろい鉄かぶとをぶち抜いて眉間に当たった。
奇跡的だったが、弾丸は、額の骨は深く削ったが、脳の内部には貫通しなかった。弾丸は鉄かぶとの内側のヘリに沿って、クルリと回って、左側の耳のあたりでポトリと落ちてきた。
まるで、真っ赤に焼けた鉄の玉が、頭の周囲の皮膚を焦がしながら回ったようだった。
こんな体験を父は何度も語っていたねえ。実際、父の額には、直径4センチほどのへこみがあったよ。
これは、体の傷だけれど、心にも深い傷を負っていたと僕は思うねえ。
ある時、僕は、小学校で戦争のことを習った。家に帰ってから父に、
「お父ちゃんは、すごいねえ。外国に戦争に行って、敵の兵隊をバンバンバンと殺したんだよねえ」と興奮気味に言った事があったよ。僕とは何でもよく話をしていた父が珍しく、つらい顔をして、何も言わなかったね。
父は夜中に時々、大きな叫び声をあげて、うなされている事があった。その声があまりにも大きくて、悲痛な響きだったので、熟睡していても目が覚めたよ。
僕は小学校高学年になってから、父があの時、つらい顔をして黙っていたことと、夜中の叫び声とが、何か関係があるんだろうなぁ、と感じるようになっていたねえ。
それはそうだよねぇ。わが子に、
「お父ちゃんは、次々と人を殺したぞ。殺人鬼だぞ」なんて、言えるわけがないものねえ。
わが子に、胸を張って言う事のできないことを、強制したのが戦争なんだ。
父は、もともと悪かった心臓病を、軍隊でさらに悪化させ、終戦後、復員(ふくいん)してからも、少しきつい運動をすると、苦しそうにハアハアと言っていたねえ。
父は、63歳のとき、心筋こうそくで、苦しさに体を激しく動かせながら、亡くなったよ。
ちなみに(ついでに言うと)、僕も10数年前に、急性心筋こうそくで倒れたよ。
日曜の夜だったけれど、運よく、救急車で運ばれた病院が、心臓手術のできる設備と医者がいたので、深夜の緊急手術で命が助かったんだよ。
それでも1年間は、休職して療養に専念したね。
父は、太平洋戦争の犠牲者だ。だから、その子である僕も、間接的犠牲者だ。
僕にとって、太平洋戦争は、客観的な歴史上の出来事ではなく、父の人生を狂わせた憎い、親の敵(かたき)なのだよ。
さてと、これで、戦中は終わることにしよう。
戦争はすべてを破壊するねぇ。物質的なものも精神的なものも。
国家権力に、心身ともの自由が奪われる社会は、文化も文学も不毛地帯となってしまうねえ。
戦争は、本来、人間の内面的な自由として守られなければなない基本的な人権さえも、ファシズム的国家体制の従属物にしてしまうんだよね。
不敬罪、治安維持法の悪用により、戦況が厳しくなればなるほど、徹底して、思想検閲がなされたねえ。
当然ながら、文学作品も文学的価値からではなく、戦争遂行と国威の発揚(はつよう)にどれだけ役に立つのかという基準から出版の可否が決められたよ。
国を批判するようなことでも書けば、特別高等警察による逮捕、尋問、拷問が待っていたねえ。
特別高等警察というのは、特高(とっこう)と言われて、内務省の直接指示によって動く組織で、恐れられていたよ。
僕が幼いころ、冗談で、天皇の悪口を言った時など、母親は顔色を変えて唇に指を当て、
「シィーッ、誰かに聞かれたらどうするの。そんなこと言ったら特高が来て、連れていかれる」
と言って、部屋の中だったにもかかわらず、あちらこちらと鋭い視線を向けて警戒する様子を見せるんだよ。戦争は終わっていたのに。
こんなことが何回もあって、僕の幼い心の中では、特高と警察官とが結びついて、成長してからもしばらくの間、警察官を見ると無意識の恐怖感に襲われたねえ。
それなのに、大学卒業して就職先を選ぶ時、大阪府警を候補の1つに選んだよ。採用試験にも通って、警察学校に入学手続きをしようとしていた時、教員の方も採用決定されたのでそちらにしたけどさぁ。
この時期には、特高によって、どれほど多くの良識的、反戦的な知識人、文化人、思想家、社会運動家、宗教者、文学者などが逮捕されたか知れないねえ。
その中には、『蟹工船』の小林多喜二さんのように、正式な裁判を受ける前に、拷問死したり、獄中で病死したりした人が、非常に多くいたねえ。詳細は闇の中だけどさぁ。
逆に、国民精神総動員のもと、戦意を鼓舞(こぶ)するようなものは、国から歓迎されたわけだ。
軍歌は次々と作られて、兵隊が、勇ましく喜んで死んでいけるような雰囲気のものが多く出てきたねえ。
そして、たくさんの作家たちが、軍隊の報道班員、従軍記者として、前線へ駆り出されたよ。
もともと作家だった彼らが、実際の体験をもとに書き上げた報告文は、一種の文学のような趣を持ってきたんだよ。
そんな中で、出てきたのが、
《火野葦平(ひのあしへい)》さんの、
『麦と兵隊』(中国徐州作戦の従軍体験)これだ。
『麦と兵隊』は、厳しい検閲で発売禁止にさせられる書籍が多い中で、ベストセラーになったねえ。
これを契機に、《戦争文学》と言えるような作品が流行することにもなったよ。
さらに、軍歌と同じように、戦争遂行への意欲を高めたり、美化したりするような小説も出てきたねえ。それらのことを、
《国策(こくさく)文学》と呼んだねえ。
国策文学の作品は、文学性も低く、見るべきものはないねえ。歴史の資料としては面白いだろうけれど、文学史に残すようなものは、ほとんど無いよ。
芥川賞・直木賞は、敗戦の年から数年間は中止になっているねえ。中止になる前の戦時中の直木賞受賞作を見ると面白いよ。
多くの作品が、当たり前に小説を書いてきて、終わりの部分に、次のような内容の文を付け加えているよ。
『・・・こうして彼は、お国のために、元気よく出征して行ったのであった』
こんなもんだ。この部分が、いかにも、取って付けたような不自然さなんだよねぇ。
戦時下の言論、思想の統制は、文化活動のすべてを戦争遂行の一点に集中させようとしていたのがよく分かるね。
昭和17年(1942 )には、内閣情報局の主導で《日本文学報国会》が結成されたよ。すべての文学者を団結させて、戦争に協力させようとしたものだ。
こんな戦争一色の世の中で、社会の流れに影響されずに、独自の文学世界を創作し続けようとした作家もいたねえ。
代表的な人は、
《徳田秋声》さん。この人だ。代表作は、
『縮図』これだ。
『縮図』は、太平洋戦争が始まった、昭和16年(1941)に新聞連載を始めたねえ。
内容は、花柳(かりゅう)界に生きる芸者の人生を描いている。
ところが、3カ月後には、内閣情報局の圧力で、連載を中止させられたよ。
次には、漢文学に造詣(ぞうけい)の深かった作家として、
《中島敦(あつし)》さんが挙げられるねえ。代表作は、
『山月記(さんげつき)』これだ。さらに、
『李陵(りりょう)』がある。
『山月記』は、よく教科書にも載る短編だね。中国の唐時代のことで、人間がトラになった話だ。
『李陵』は、中国前漢時代の軍人、李陵の活躍を書いたものだ。
『山月記』『李陵』共に、昭和17年(1942 )に発表されているよ。
戦時下の中で、文学性の香りの高い作品として高く評価されているねえ。
次の作家は、
《谷崎潤一郎》さん。この人だ。作品は、
『細雪(ささめゆき)』これだ。
『細雪』は、昭和18年(1943)に雑誌に掲載を始めているねえ。内容は、戦争とは全く関係のない話で、関西の上流階級の4姉妹の日常を描いているよ。
当然ながら、軍部から中止命令が出て、中断したねえ。完成したのは戦後になってからのことだ。
もちろん、これらの人以外にも、戦時中、活躍した文学者はいるけれど、徹底した思想統制の下では、自由で活発な出版活動や文芸運動は、息をひそめざるを得なかったよね。
戦争が文学者へ与えて影響は、こうした物理的な側面はもちろんだけれど、それ以上に打撃を与えたのは精神面だったねえ。
特に、戦前、戦中に戦争を礼讃(らいさん)したり、美化したり、正当化したり、意義付けしたりして、戦争遂行の手助けをするような作品を書いた人は、良心的であればあるほど、深い心の傷を負うことになったねえ。
本来、人間の旗を掲げて、戦争に反対すべき文学者が、国家権力の恫喝(どうかつ)に恐れをなして屈服し、〝人殺し〟を推進したことは、作家としての命を断つことに等しいよねえ。
平時(へいじ)の時には、人命の尊さ、平和の尊さ、戦争の残酷さを書いておきながら、我が身に迫害が及ぶとなると、手のひらを返したように、戦争推進派に寝返ることは、人々に対する、社会に対する裏切り行為になってしまうね。
戦後、このことが厳しく問われることになったのは当然だよね。社会から追及される以上に、文学者自身の自己批判に長い間、苦しみ、耐えなければならないことになったねえ。
余談になるけどさあ。
このごろ、マスコミに出ている評論家やコメンテーターといわれるような人を見ていると、何も自分に不利益が及ばない時には、戦争反対、平和尊重などと、分別くさい顔をして声高に言っているけれどさあ、いざ、権力の圧力がかかった時には、コロリと言う事を翻(ひるがえ)しそうな、信念のない打算的な人が多いのではないかと思うよ。
立場や、関係する政党が変わると、コロコロと言うことが変わる人が何と多いことだろうねえ。羞恥心はないのかねえ。
ところで、太平洋戦争というと、僕にとっては単なる歴史上の出来事ではなくなるんだよ。
というのは、僕の父は太平洋戦争中に、東南アジアの南方諸島と中国東北部・旧満州に戦役で出兵しているんだよ。
戦場での話はいろいろ聞いたよ。また、腕を振りながら歌う軍歌もよく聞いた。
敗戦が近づくにつれて、鉄が不足してきて、鉄かぶとの素材の鉄も粗悪になってきていた。
ある日の戦闘で、父の鉄かぶとに弾丸が当たった。
弾丸は正面から少しだけ右にそれていたが、もろい鉄かぶとをぶち抜いて眉間に当たった。
奇跡的だったが、弾丸は、額の骨は深く削ったが、脳の内部には貫通しなかった。弾丸は鉄かぶとの内側のヘリに沿って、クルリと回って、左側の耳のあたりでポトリと落ちてきた。
まるで、真っ赤に焼けた鉄の玉が、頭の周囲の皮膚を焦がしながら回ったようだった。
こんな体験を父は何度も語っていたねえ。実際、父の額には、直径4センチほどのへこみがあったよ。
これは、体の傷だけれど、心にも深い傷を負っていたと僕は思うねえ。
ある時、僕は、小学校で戦争のことを習った。家に帰ってから父に、
「お父ちゃんは、すごいねえ。外国に戦争に行って、敵の兵隊をバンバンバンと殺したんだよねえ」と興奮気味に言った事があったよ。僕とは何でもよく話をしていた父が珍しく、つらい顔をして、何も言わなかったね。
父は夜中に時々、大きな叫び声をあげて、うなされている事があった。その声があまりにも大きくて、悲痛な響きだったので、熟睡していても目が覚めたよ。
僕は小学校高学年になってから、父があの時、つらい顔をして黙っていたことと、夜中の叫び声とが、何か関係があるんだろうなぁ、と感じるようになっていたねえ。
それはそうだよねぇ。わが子に、
「お父ちゃんは、次々と人を殺したぞ。殺人鬼だぞ」なんて、言えるわけがないものねえ。
わが子に、胸を張って言う事のできないことを、強制したのが戦争なんだ。
父は、もともと悪かった心臓病を、軍隊でさらに悪化させ、終戦後、復員(ふくいん)してからも、少しきつい運動をすると、苦しそうにハアハアと言っていたねえ。
父は、63歳のとき、心筋こうそくで、苦しさに体を激しく動かせながら、亡くなったよ。
ちなみに(ついでに言うと)、僕も10数年前に、急性心筋こうそくで倒れたよ。
日曜の夜だったけれど、運よく、救急車で運ばれた病院が、心臓手術のできる設備と医者がいたので、深夜の緊急手術で命が助かったんだよ。
それでも1年間は、休職して療養に専念したね。
父は、太平洋戦争の犠牲者だ。だから、その子である僕も、間接的犠牲者だ。
僕にとって、太平洋戦争は、客観的な歴史上の出来事ではなく、父の人生を狂わせた憎い、親の敵(かたき)なのだよ。
さてと、これで、戦中は終わることにしよう。