オチケン風『日本文学史』近現代Ⅲ【大正・昭和初期】(小説・評論)【近代主義文学】〈3〉新興芸術派
イヤーッ、年が開けたよ。ハッピー・ニューイヤーだ。
新しい時代の到来だ。
いやいや、新しい時代を僕らの手で築こうよ。
時はいつも満ちている。
僕らがその気になれば、いつでも、新しい時代を手に入れることができるよ。
今年は、何ものにも負けない勇気を、もちろん、自分にも負けない勇気を心に秘めて、頑張って行こうね。
昨年の正月のことを思い出してみると、『日本文学史・近現代文学編Ⅰ』を書き始めたところだった。あれから、丸1 年たったわけだ。
1年間かけて『日本文学史・近現代文学編Ⅰ』と『日本文学史・近現代文学編Ⅱ』は完成させることができたよ。
だけど、初めの予定では、この『日本文学史・近現代文学編Ⅲ』も書き上げるつもりだったんだ。年を取ってくると、原稿を書くスピードが、少しずつ遅くなってくるのは間違いないねえ。
結局、この原稿は、年を超えて書くことになってしまったよ。
極力、早く書き上げて、なんとか年度内には完成させたいと思っているよ。
できるだけ、横道にそれた事を言わないようにして、君の役に立てるようにしたいねえ。
さあ、それじゃあ、近代主義文学、モダニズム文学の次の流派を見ていこう。それは、
《新興(しんこう)芸術派》これだ。
新興芸術派は、新感覚派が衰退した後を引き継ぐ形で出てきた流れだね。だから、『文芸時代』に作品を発表した作家たちが中心となったねえ。
新興芸術派は、昭和5年(1930)に新興芸術派倶楽部(くらぶ)として結成されたことから出発したねえ。結成の意義ははっきりしているよ。それは、文壇に大きな影響力を持ち始めていたプロレタリア文学への対抗意識だ。
中心人物は、
《井伏鱒二(いぶせますじ)》さん。
《梶井基次郎(かじいもとじろう)》さん。
《阿部知二(あべともじ)》さん。
《嘉村礒多(かむらいそた)》さん。
これらの人たちだ。
まず、井伏鱒二さんだけど、平成5年(1993)、95歳まで長生きをされているよ。その間、たくさんの作品を残しているねえ。
だから、新興芸術派といっても、初期の段階の作品がそれに属するわけだね。
最もよく教科書にも出てくる作品は、昭和4年(1929)発表された、
『山椒魚(さんしょううお)』これだ。
内容は、岩の穴の中で暮らしていたサンショウウオが、気がつかないうちに成長して大きくなり、外に出られなくなる。
そこに餌になるカエルが飛び込んでくる。二匹がお互いに意地を張って不本意な結果になるという話したねえ。
寓意(ぐうい)と示唆(しさ)に富んだ名作だ。
続いての作品は、
『屋根のサワン』これだ。
『屋根のサワン』もよく教科書に載るねえ。
傷ついたガン(渡り鳥)と手当てをしてやる人間との情感に溢(あふ)れた物語だね。
このころの井伏鱒二さんの作品には、さまざまな生き物に、人間の感情を移入することによって、優れた作品に仕上げているものが多いねえ。
続いての作品は、
『ジョン万次郎漂流記』これだ。
『ジョン万次郎漂流記』は気軽に読めて、面白い作品なので、勉強に疲れた合間などに、少しずつでも読めば、気が晴れるよ。
『ジョン万次郎漂流記』で井伏鱒二さんは、直木賞を受賞したよ。
ジョン万次郎は実在した人物なんだ。
高知県の足摺岬の近くにある中浜という漁村で育っているねえ。僕が生まれ育った所の近くなんだよ。中浜の近くに行くと、ジョン万次郎さんの記念碑があるよ。もちろん、地元では歴史上の有名人だ。
井伏鱒二さんの作品はこれら以外に、
『多甚古村(たじんこむら)』(田舎の警官の話)
『本日休診』(貧しい患者相手の医者の話)
などがあるねえ。
『多甚古村』も『本日休診』も本当に面白いねえ。両作品ともに映画化もされたよ。特に、『本日休診』は今でもDVD が出ているので、勉強がいやなったら、見れば、リフレッシュするよ。
『多甚古村』も『本日休診』も独特のユーモアの中に人生の哀歓をしみじみと感じさせるもので、階級闘争を描くプロレタリア文学とは対極にあるものだねえ。
井伏鱒二さんの後年の作品で最も有名なのは、昭和40年(1965 )に発表された、
『黒い雨』これだ。
『黒い雨』は、広島の原爆の惨状を淡々と記録風に書かれた小説だねぇ。広島は井伏鱒二さんの出身地でもあるんだ。
『黒い雨』は、日本文学史上に残る名作だよ。時間があれば、一度、読んでおくといいねえ。『黒い雨』も映画化されているよ。
井伏鱒二さんの小説はよく、映画化されているのが特徴だね。それは、内容はもちろんとして、文章表現が、的確でイメージしやすいからだねぇ。
ところで、井伏鱒二さんと太宰治さんは仲がよかったんだ。太宰治さんが旧制中学生のころ、『山椒魚』を読んで感動したんだねぇ。そして、東京大学の学生の時に、井伏鱒二さんのところへ、弟子にしてくれるようにお願いに行ったんだ。
だから、井伏鱒二さんの方が、11歳年上でもあるので、太宰治さんの小説の師匠とも言えるだろうね。作風は全く違うけれどね。
後には、太宰治さんの結婚のときに、仲人なども務めているよ。公私ともに仲良くやっていたんだね。
太宰治さんは、井伏鱒二さんのことを、『富嶽百景(ふがくひゃっけい)』の中で、次のように書いている。
『とかくして頂上についたのであるが、急に濃い霧が吹き流れて来て、頂上のパノラマ台という、断崖の縁(へり)に立ってみても、いっこうに眺望がきかない。何も見えない。
井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆつくり煙草を吸いながら、放屁(ほうひ)なされた。いかにも、つまらなさそうであつた』
こういう部分があるんだ。
井伏鱒二さんは、『富嶽百景』を読んで、
「あれはウソだ。私は、へをこいていない」と反論したそうだ。
まあ、こんなところに、井伏鱒二さんと太宰治さんの不協和音が現れているいうほどでもないけれど、太宰治さんの遺書に、「井伏さんは悪人です」と書かれていたというのは有名な話だよ。
だけど、こんなことを作品の中に書けるというのは、2人の仲が良かった証ではないのかねえ。
さて、それじゃあ、新興芸術派の次の作家を見ていこう。その人は、
《梶井基次郎》さんだねえ。
梶井基次郎さんは、たいへん優れた特異な感受性で、知識人の不安や倦怠(けんたい)など、繊細な精神の陰影を見事に描いているよ。
だけど、結核になって31歳で亡くなったねえ。だから作品は少なく、20篇ほどの短編小説を残しているだけだ。
そして、梶井基次郎さんの評価が、高くなったは死後のことなんだよ。
定番のように教科書に出てくる作品は、大正14年(1925 )に発表された
『檸檬(れもん)』これだね。
冒頭部分は、
『えたいの知れない不吉な塊(かたまり)が私の心を始終おさえつけていた。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか——酒を飲んだあとに宿酔(ふつかよい)があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。』
これだ。
『檸檬』は、何度も授業の教材に使ったよ。
生徒には、この冒頭部分の文章が、自分の心の状態と共鳴するものが感じられ、真剣に授業を聞く姿が見られたねえ。
それ以外の作品としては、
『城のある町にて』これがあるねえ。
『城のある町にて』は、伊勢の松阪で、療養した時のことを書いた作品だ。どこにでもあるような松阪城址(じょうし)周辺の様子を、生き生きと写しているねえ。
梶井基次郎さんの筆力が分かるよ。
昭和7年(1932)に発表された作品が、
『のんきな患者』これだ。
『のんきな患者』は、肺結核で呼吸困難にもなり、死を迎えなければならない作者自身を、客観視して書いたものだよ。
『のんきな患者』が梶井基次郎さんの最後の作品となったね。
井伏鱒二さん、梶井基次郎さん以外の新興芸術派の作品は次のようなものがあるね。
まず、阿部知二さんには、
『冬の宿』(下宿屋夫婦の葛藤と暗い青春)
阿部知さんは、『冬の宿』で作家的地位を確立しているねえ。
このごろの人が『冬の宿』と聞けば、歌手の細川たかしさんが歌った同名の演歌を思い浮かべるのじゃないかねぇ。
次に、嘉村礒多さんには、
『業苦(ごうく)』(妻子を捨てて駆け落ちした男女の悲惨)
などがあるねえ。
嘉村礒多さんの作品は、どれも、自虐と悲惨な内容で、楽しいものではないけれど、近代人の内面をネガティブながらも深く追及しているところなどは、評価できると思うねえ。
以上が、新興芸術派の代表的な作者と作品の説明だ。
新興芸術派の文学運動は、実に、はかなかったよ。
プロレタリア文学に対抗するものとして出てきたけれど、それだけの文学理論の構築もできず、また、多くの実力のある作家を結集することもできなかったねえ。
もちろん、個々の作家は、その後も活躍した人は多かったけれど、文学流派の社会的な存在としては、新感覚派と同じく数年間の命でしかなったねえ。
イヤーッ、年が開けたよ。ハッピー・ニューイヤーだ。
新しい時代の到来だ。
いやいや、新しい時代を僕らの手で築こうよ。
時はいつも満ちている。
僕らがその気になれば、いつでも、新しい時代を手に入れることができるよ。
今年は、何ものにも負けない勇気を、もちろん、自分にも負けない勇気を心に秘めて、頑張って行こうね。
昨年の正月のことを思い出してみると、『日本文学史・近現代文学編Ⅰ』を書き始めたところだった。あれから、丸1 年たったわけだ。
1年間かけて『日本文学史・近現代文学編Ⅰ』と『日本文学史・近現代文学編Ⅱ』は完成させることができたよ。
だけど、初めの予定では、この『日本文学史・近現代文学編Ⅲ』も書き上げるつもりだったんだ。年を取ってくると、原稿を書くスピードが、少しずつ遅くなってくるのは間違いないねえ。
結局、この原稿は、年を超えて書くことになってしまったよ。
極力、早く書き上げて、なんとか年度内には完成させたいと思っているよ。
できるだけ、横道にそれた事を言わないようにして、君の役に立てるようにしたいねえ。
さあ、それじゃあ、近代主義文学、モダニズム文学の次の流派を見ていこう。それは、
《新興(しんこう)芸術派》これだ。
新興芸術派は、新感覚派が衰退した後を引き継ぐ形で出てきた流れだね。だから、『文芸時代』に作品を発表した作家たちが中心となったねえ。
新興芸術派は、昭和5年(1930)に新興芸術派倶楽部(くらぶ)として結成されたことから出発したねえ。結成の意義ははっきりしているよ。それは、文壇に大きな影響力を持ち始めていたプロレタリア文学への対抗意識だ。
中心人物は、
《井伏鱒二(いぶせますじ)》さん。
《梶井基次郎(かじいもとじろう)》さん。
《阿部知二(あべともじ)》さん。
《嘉村礒多(かむらいそた)》さん。
これらの人たちだ。
まず、井伏鱒二さんだけど、平成5年(1993)、95歳まで長生きをされているよ。その間、たくさんの作品を残しているねえ。
だから、新興芸術派といっても、初期の段階の作品がそれに属するわけだね。
最もよく教科書にも出てくる作品は、昭和4年(1929)発表された、
『山椒魚(さんしょううお)』これだ。
内容は、岩の穴の中で暮らしていたサンショウウオが、気がつかないうちに成長して大きくなり、外に出られなくなる。
そこに餌になるカエルが飛び込んでくる。二匹がお互いに意地を張って不本意な結果になるという話したねえ。
寓意(ぐうい)と示唆(しさ)に富んだ名作だ。
続いての作品は、
『屋根のサワン』これだ。
『屋根のサワン』もよく教科書に載るねえ。
傷ついたガン(渡り鳥)と手当てをしてやる人間との情感に溢(あふ)れた物語だね。
このころの井伏鱒二さんの作品には、さまざまな生き物に、人間の感情を移入することによって、優れた作品に仕上げているものが多いねえ。
続いての作品は、
『ジョン万次郎漂流記』これだ。
『ジョン万次郎漂流記』は気軽に読めて、面白い作品なので、勉強に疲れた合間などに、少しずつでも読めば、気が晴れるよ。
『ジョン万次郎漂流記』で井伏鱒二さんは、直木賞を受賞したよ。
ジョン万次郎は実在した人物なんだ。
高知県の足摺岬の近くにある中浜という漁村で育っているねえ。僕が生まれ育った所の近くなんだよ。中浜の近くに行くと、ジョン万次郎さんの記念碑があるよ。もちろん、地元では歴史上の有名人だ。
井伏鱒二さんの作品はこれら以外に、
『多甚古村(たじんこむら)』(田舎の警官の話)
『本日休診』(貧しい患者相手の医者の話)
などがあるねえ。
『多甚古村』も『本日休診』も本当に面白いねえ。両作品ともに映画化もされたよ。特に、『本日休診』は今でもDVD が出ているので、勉強がいやなったら、見れば、リフレッシュするよ。
『多甚古村』も『本日休診』も独特のユーモアの中に人生の哀歓をしみじみと感じさせるもので、階級闘争を描くプロレタリア文学とは対極にあるものだねえ。
井伏鱒二さんの後年の作品で最も有名なのは、昭和40年(1965 )に発表された、
『黒い雨』これだ。
『黒い雨』は、広島の原爆の惨状を淡々と記録風に書かれた小説だねぇ。広島は井伏鱒二さんの出身地でもあるんだ。
『黒い雨』は、日本文学史上に残る名作だよ。時間があれば、一度、読んでおくといいねえ。『黒い雨』も映画化されているよ。
井伏鱒二さんの小説はよく、映画化されているのが特徴だね。それは、内容はもちろんとして、文章表現が、的確でイメージしやすいからだねぇ。
ところで、井伏鱒二さんと太宰治さんは仲がよかったんだ。太宰治さんが旧制中学生のころ、『山椒魚』を読んで感動したんだねぇ。そして、東京大学の学生の時に、井伏鱒二さんのところへ、弟子にしてくれるようにお願いに行ったんだ。
だから、井伏鱒二さんの方が、11歳年上でもあるので、太宰治さんの小説の師匠とも言えるだろうね。作風は全く違うけれどね。
後には、太宰治さんの結婚のときに、仲人なども務めているよ。公私ともに仲良くやっていたんだね。
太宰治さんは、井伏鱒二さんのことを、『富嶽百景(ふがくひゃっけい)』の中で、次のように書いている。
『とかくして頂上についたのであるが、急に濃い霧が吹き流れて来て、頂上のパノラマ台という、断崖の縁(へり)に立ってみても、いっこうに眺望がきかない。何も見えない。
井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆつくり煙草を吸いながら、放屁(ほうひ)なされた。いかにも、つまらなさそうであつた』
こういう部分があるんだ。
井伏鱒二さんは、『富嶽百景』を読んで、
「あれはウソだ。私は、へをこいていない」と反論したそうだ。
まあ、こんなところに、井伏鱒二さんと太宰治さんの不協和音が現れているいうほどでもないけれど、太宰治さんの遺書に、「井伏さんは悪人です」と書かれていたというのは有名な話だよ。
だけど、こんなことを作品の中に書けるというのは、2人の仲が良かった証ではないのかねえ。
さて、それじゃあ、新興芸術派の次の作家を見ていこう。その人は、
《梶井基次郎》さんだねえ。
梶井基次郎さんは、たいへん優れた特異な感受性で、知識人の不安や倦怠(けんたい)など、繊細な精神の陰影を見事に描いているよ。
だけど、結核になって31歳で亡くなったねえ。だから作品は少なく、20篇ほどの短編小説を残しているだけだ。
そして、梶井基次郎さんの評価が、高くなったは死後のことなんだよ。
定番のように教科書に出てくる作品は、大正14年(1925 )に発表された
『檸檬(れもん)』これだね。
冒頭部分は、
『えたいの知れない不吉な塊(かたまり)が私の心を始終おさえつけていた。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか——酒を飲んだあとに宿酔(ふつかよい)があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。』
これだ。
『檸檬』は、何度も授業の教材に使ったよ。
生徒には、この冒頭部分の文章が、自分の心の状態と共鳴するものが感じられ、真剣に授業を聞く姿が見られたねえ。
それ以外の作品としては、
『城のある町にて』これがあるねえ。
『城のある町にて』は、伊勢の松阪で、療養した時のことを書いた作品だ。どこにでもあるような松阪城址(じょうし)周辺の様子を、生き生きと写しているねえ。
梶井基次郎さんの筆力が分かるよ。
昭和7年(1932)に発表された作品が、
『のんきな患者』これだ。
『のんきな患者』は、肺結核で呼吸困難にもなり、死を迎えなければならない作者自身を、客観視して書いたものだよ。
『のんきな患者』が梶井基次郎さんの最後の作品となったね。
井伏鱒二さん、梶井基次郎さん以外の新興芸術派の作品は次のようなものがあるね。
まず、阿部知二さんには、
『冬の宿』(下宿屋夫婦の葛藤と暗い青春)
阿部知さんは、『冬の宿』で作家的地位を確立しているねえ。
このごろの人が『冬の宿』と聞けば、歌手の細川たかしさんが歌った同名の演歌を思い浮かべるのじゃないかねぇ。
次に、嘉村礒多さんには、
『業苦(ごうく)』(妻子を捨てて駆け落ちした男女の悲惨)
などがあるねえ。
嘉村礒多さんの作品は、どれも、自虐と悲惨な内容で、楽しいものではないけれど、近代人の内面をネガティブながらも深く追及しているところなどは、評価できると思うねえ。
以上が、新興芸術派の代表的な作者と作品の説明だ。
新興芸術派の文学運動は、実に、はかなかったよ。
プロレタリア文学に対抗するものとして出てきたけれど、それだけの文学理論の構築もできず、また、多くの実力のある作家を結集することもできなかったねえ。
もちろん、個々の作家は、その後も活躍した人は多かったけれど、文学流派の社会的な存在としては、新感覚派と同じく数年間の命でしかなったねえ。