オチケン風『日本文学史』近現代Ⅲ【大正・昭和初期】(小説・評論)【近代主義文学】〈2〉新感覚派
 
いやー、今日は、冬至だねぇ。
1年中で、昼の時間が最も短い日だ。
ということは、明日からは、日々、日の出が早くなり、日の入りが遅くなるんだね。
宇宙のリズムから見れば、今日が折り返し地点だねぇ。春に向かってのスタートラインとなったわけだ。
 
「冬は必ず春となる」
 
そうだ、君も、今日から新たな決意で、春を目指して頑張ろうよ。
 
さてと、それじゃあ、新しい文学主義を見ていくことにしよう。それは、
 
《近代主義文学》これだ。
 
近代主義文学と同じ意味に使われる言葉があるので、一緒に覚えておこう。それは、
 
《芸術的近代主義文学》これだ。さらに、
 
《モダニズム文学》とも言うんだよ。
 
近代主義文学、芸術的近代主義文学、モダニズム文学、これらは同じ内容の文学主義なので、気にせずに使えばいいよ。
本稿では、近代主義文学という名称を代表して使うことにするね。
 
まず、近代主義文学というのは、当時の文学界においてどのような位置を占めたものか確認しておこう。
 
前述のように、プロレタリア文学は、1つの文学の潮流として、人々に認められるものになっていたねえ。ただ、社会思想や政治をテーマの中心に据(す)えて、文学を革命の道具として捉えるという点では、偏狭(へんきょう)な文学という見方は逃れられなかったねえ。
 
そこで、純粋に文学的な革新をなそうとする、様々な文学集団が、当然ながら出てきたわけだ。
それを総称して近代主義文学というんだよ。

当時の文学界は、プロレタリア文学と近代主義文学の2つが大きな潮流となって、人々に受け入れられていた時代といえるねえ。
ただ、プロレタリア文学と近代主義文学の両方に共通したこともあるんだよ。それは、既成文学の打破ということだ。
 
プロレタリア文学も近代主義文学も、どちらも、文学の革新をなそうとして発展したことは間違いないねえ。
既成の文学といえば、暴露小説、私小説、心境小説といったような、どちらかと言えば、スケールの小さい、日常の現実的な小説が主流であったわけだねぇ。
 
それに対して、プロレタリア文学は、それまでの日本文学には無かった、社会革命の文学をもって変革しようとしたわけだ。
近代主義文学は、文学の芸術性を新たに広げることで変革しようとしたんだねえ。
文学の、常識や伝統や権威などといったものに対して、全面的に対決し否定して、新たな日本の文学を作ろうとしたわけだよ。
 
近代主義文学は、日本で独自に発生し発展したものではないよ。明治以降の文学の変遷(へんせん)には、常に西洋文化が影響していたように、近代主義文学もまた、それに大きく影響されているんだよ。
 
近代主義文学の流派には、次の3つがあげられるねえ。
 
《新感覚派》
 
《新興芸術派》
 
《新心理主義派》これらだ。
 
すべて頭に《新》が付いているから、覚えやすいだろう。
それでは、まず最初に、新感覚派から見ていくことにしよう。
 
新感覚派の特徴は、現実をありのままに描写するのではなくて、新しい感覚のフィルターを通して見たものを、知性的に再構築して表現するところにあるねえ。
どのような、新しい感覚のフィルターを使ったのかということが、それぞれの新感覚派作家の特徴になるわけだ。
 
このように説明すると、何か難しそうだけどさぁ、実際に読めば簡単なことさ。
単純にいえば、風景を赤いフィルターを通して見て、表現される世界全体を赤みを帯びたものとして書いたり、また、黄色のフィルターを通してみて、風景を黄色い世界として書くということだね。
 
ちょうど、パソコンの画像表示を変化させる方法に、現実に撮ったカラー写真をセピア色や白黒にしたり、ボカしたりすることができるよね。あれと同じだよ。
 
現実の写真を自分の好きな感覚に基づいて、人工的に加工すると、現実を撮っているにもかかわらず、現実には無い新たな芸術性を帯びさせることができるよね。
同じようなことが、文章表現を通してもできるわけだね。これが新感覚派の特質だよ。
 
いつの時代でも同じだけどさぁ。現実を感覚によって再構築するというような先進的な文学は、保守的な年配の人々には受け入れられなかったねえ。
だから、新感覚派文学は、若者世代の支持を受けて、発展したんだよ。

新感覚派の文学運動の中心的な場となったのは、大正13年(1924 )に創刊された文芸雑誌、
 
『文芸時代』これだ。
 
大正13年といえば、プロレタリア文学の活動の場であった『文芸戦線』が発刊された年でもあるねえ。当時の、プロレタリア文学と新感覚派文学が競い合っていた様子が、このことでもわかるような気がするねえ。
 
『文芸時代』の同人には次のような作家がいたよ。
 
《横光利一(よこみつとしかず)》さん。
 
《川端康成》さん。
 
《中河与一(なかがわよいち)》さん。これらの人たちだ。
 
特に横光利一さんは、新感覚派の理論家であるとともに、教科書的な作品も書いた中心人物だねぇ。
代表的な小説は、大正12年(1923 )に発表した、
 
『日輪(にちりん)』これだ。
 
内容は、古代の邪馬台国(やまたいこく)の女王、卑弥呼(ひみこ)を日輪に例えて書いたものだよ。卑弥呼の美ぼうのもとに、次々と魅入られた皇子たちが、殺し合い、死んでいくというものだ。
 
このように書くと、小説の舞台が、邪馬台国ということについては新鮮さがあるけれど、それほど既成小説と変わらないような気がするかもしれないねえ。
それでは、次の引用文を読んでごらん。
 
『彼は小石を拾うと森の中へ投げ込んだ。
森は数枚の葉から月光をはらい落としてつぶやいた。』
 
これだよ。既成小説の表現とは明らかに違うのがわかるねえ。
さらに同じ時期に書かれたが作品に、
 
『蠅(はえ)』というのがあるんだ。
 
この『蠅』の冒頭部分の引用するよ。
 
『真夏の宿場は空虚であった。ただ眼の大きな一匹の蠅だけは、薄暗い厩(うまや)のくもの巣にひっかかると、後足で網を跳ねつつ、しばらくぶらぶらと揺れていた。と、豆のようにぼたりと落ちた。そうして、馬糞の重みに斜めに突き立っている藁(わら)の端から、裸体にされた馬の背中まで這(は)い上がった。』
 
おまけに、もうひとつ。よく引用される作品だけれど、
 
『頭ならびに腹』この小説の冒頭部分だ。
 
『真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けていた。沿線の小駅は石のように黙殺された。
とにかく、こういう現象の中で、その詰み込まれた列車の乗客中に一人の横着(おうちゃく)そうな子僧が混(まじ)っていた。』
 
ここまで読むと、《新感覚》と名称がつけられた理由が分かるだろう。
表現技法に、擬人法や譬喩などをふんだんに取り入れて書かれているねえ。
年配の読者が読めば、
「なんじゃこれは。これでも小説かよ?」と腹を立てそうな書き方だねえ。
 
横光利一さんは、それまであった既成小説や、プロレタリア文学とも全く違った小説世界を創造しようとした訳だよ。横光利一さんの作品には、これら以外に次のようなものがあるよ。
 
『ナポレオンと田虫』
 
『上海(しゃんはい)』
 
『機械』
 
『紋章(もんしょう)』
 
『旅愁(りょしゅう)』これらだ。
 
どの作品もたいへん面白いね。特に、『ナポレオンと田虫』は、発想の奇抜さに感心するね。
話は、あの、ヨーロッパを席巻(せっけん)した大将軍ナポレオンも、腹に広がっていったかゆくてたまらない田虫(皮膚病の一種)には勝てず、田虫が広がるにつれて、戦いに負けるようになり、滅びていったという筋だ。
 
『ナポレオンと田虫』を読むと、現代作家の作品が、ずいぶん時代遅れの古めかしいものに見えてくるよ。
 
横光利一さんは、昭和22年(1947)、49歳で胃かいようで亡くなったねえ。それほど長生きではなかったけれど、多くの作品を書いているよ。
全17巻にわたる全集も出版されているので、目標の大学に合格したなら、一度読んでごらん。
僕が、君に推薦する作家の1人だよ。

 新感覚派の、もう1人の巨匠は、
 
《川端康成》さん。この人だ。
 
新感覚派文学は、横光利一さんと川端康成さんの2人によって出発し、発展し、完成したといってもいいくらいだよ。
川端康成さんは、昭和43年(1968)、日本人で初めてノーベル文学賞を受賞した超有名な作家だねえ。
 
だけど僕は、川端康成さんが嫌いだよ。
谷崎潤一郎さんのように嫌悪感を伴ったものではないけれど、好きになれないねえ。
特に理由などないよ。嫌いだから嫌いなんだ。生理的、性格的、本質的に嫌な作家だねえ。
 
谷崎潤一郎さんも川端康成さんも、幼少年期は、恵まれない家庭環境だった。特に川端康成さんは、16歳で肉親のすべてを亡くしてしまい、天涯孤独な少年となってしまったねえ。
このことは、大正14年(1925 )に発表された、
 
『十六歳の日記』の中に書かれている。
 
ただ、2人の少年期に共通していることは、周囲が驚くような神童(しんどう)ぶりを発揮したということだよ。
神童というのは、神様の子と思えるほど優れた能力を持っている子供のことだ。
 
大学は当然、東京大学に進学している。日本の最高学府で学んだわけだ。まあ、谷崎潤一郎さんは中退しているけれどね。
僕は、感覚的に、この2人の作家は、少年期の神童意識を本質的に生涯持ち続けた人ではないかと思うねえ。こういう人のことを仏教では二乗(にじょう)と言うんだよ。
お釈迦(しゃか)さんは、多くの説教の中で、
「自分の悟りにだけ執着(しゅうちゃく)して、他人に対する奉仕に欠ける二乗は、成仏しない」と腹を立てて怒っているよ。
これが、僕の嫌いな理由の1つかも知れない。
 
僕は仕事上、読まなければいけないと思って、川端康成さんの作品にはたいてい、目を通したよ。
だけど、嫌いだと思って読むから、感動もしなければ印象にも残らない。今、内容を思い出せる作品というのは、ほとんど無いねえ。
ちょうど、生徒が、嫌いな科目を嫌いな先生から教えてもらうようなもので、一応、聞いているが、全く頭には入っていないのと同じだね。
 
ただ1つ、少し、印象に残っている作品は、昭和24年(1949)に発表された、
 
『山の音』これくらいだ。
 
『山の音』は、某(ぼう)文芸賞を受賞した作品だ。映画化もされたよ。
某文芸評論家は、
「戦後の日本文学の最高峰に位するもの」
と絶賛しているねえ。入試にも時々、顔を出すよ。
 
僕には、何が印象に残ったかというと、
「なんと、つまらない小説なんだ。こんな小説をほめるなんて、日本の文芸評論家は、権威に対しては、徹底して弱いんだなあ」
ということなんだよ。
小説を読むときに大切なのは、誰彼の批評に影響されるのではなくて、自分が読んで感じた、素直な感想こそが作品評価の真実だと確信することだよ。

川端康成さんの初期の代表作品として注目されたのは、大正15年(1926)27歳の時に、『文芸時代』に発表した、
 
『伊豆の踊子』これだ。
 
学生と踊子との特殊な恋を描いたものだね。何度も映画化されて、だれでも知っている作品だ。
だけど僕は、『伊豆の踊子』を読んで、いつも感じるのは、実に冷たい筆者の目だねぇ。
 
青春の純潔と叙情を描いているにもかかわらず、行間からにじみ出てくるものは、一見、客観的に見ているように思えるけれども、読者が筆者に近づくことを憶病に拒否する冷えきった心だよ。
それは、非情と虚無感に染めぬかれた川端康成さんの原風景だねぇ。
 
これこそ、神童であり、二乗である作者の本質だ。
そしてまた、川端康成さんの《新感覚》の依 (よ)って立っているところでもあるね。
 
それじゃあ、代表的な作品を年代順に挙げておくよ。
 
『浅草紅団(くれないだん)』(不良少年少女と浅草風俗)
 
『禽獣(きんじゅう)』(獣を飼う孤独な男)
 
『雪国』(中年の男と芸者の結ばれない恋)
 
こんなところだろう。あまりにも有名過ぎて、入試にはそれほど出てこないけれど、覚えておくに越したことはないよね。
 
さて、川端康成さんの人生の最後はどういうものだったろうか。
ノーベル文学賞を受賞してから4年後、昭和47年(1972)、神奈川県逗子市の仕事場にしていたマンションで、黒っぽいズボンにガウンを着て、ガス管をくわえて自殺をしたねえ。
当時のガスには、一酸化炭素が多く含まれていたので、中毒死を起こしたわけだねえ。
遺書はなかった。72歳だったよ。
 
僕は、人として、亡くなった方をムチ打つようなことは、当然、言いたくないよ。
だけど、人生にとって、どのように死ぬのかということは、最も大切なことだということは間違いない真実だよねぇ。

このごろ、自殺のことを自殺と言わずに、自死と表現しようとする人が出てきているねえ。死者に対して、「自らを殺す」という罪悪感を和らげようとする優しい気持ちは分かるよ。
だけど、僕は絶対に自殺を、同情化したり、正当化したり、美化したり、権利化したりすべきではないと思うねえ。
 
「自殺は悪である」という明確な一線は、決して見失ってはならないと思う。
 
もし、「自分の命なのだから、生かすも殺すも、自分の自由な権利ではないか」という人がいたら、その人は、ずいぶん、おめでたい人(世間知らずなこと)だねえ。
 
例えば今、自殺をしようとしている人がいたとする。
もし、その人が、現在の自分に成長するまで、全く自分以外の何ものからも世話を受けずに生きてきたのであれば、自らの生殺与奪(せいさつよだつ)の権利はあるだろう。
 
だけど、そんな人はこの世に存在しないよね。その人を産んでくれた両親がいるよね。育ててくれた多くの人たちがいるよね。
もっといえば、この自然が、地球が、宇宙がなければ、その人の存在は有り得なかったわけだから、他の人やものの、多大な恩恵の積み重ねの上にその人の命は、成り立っているということだよねぇ。
 
仏教では、人間のことを《法器(ほうき)》と表現することがあるよ。
《仏の素晴らしい教えを注ぎ入れて、保つことができる入れ物》という意味だねえ。人間以外の動物では、法器になることができないよね。
一人ひとりの人間の、かけがえのない命の素晴らしさと大切さを例えたものだねえ。
 
この法器という命の宝物は、人が自分の力でゼロから創り出したものではないよね。
偉大な自然から与えられたものだ。いや、貸してもらっているものだといえないだろうかねぇ。
 
多くのものに支えられて存在している命、偉大なものから貸し与えられている法器。どうして、これらのものを自ら、自由に殺してしまう権利があると言えるだろうか。
ある訳けないよね。
ましてや、世界には、生きたくても理不尽に殺されている人が、たくさん居るというのに。
 
こんなふうに考えると、自殺というのは、偏狭な考え方から出てくる、思い上がりであり、傲慢(ごうまん)であり、増上慢(ぞうじょうまん)であるといえるねえ。
 
また、何かの目的のために、自殺をすることもあるねえ。目的のために、何よりも大切なはずの命を方法論化するわけだ。
これなどは、本末転倒も甚(はなは)だしいと言わざるを得ないねえ。
まさに、《神》に対する、ひいては、人間に対する冒涜(ぼうとく)以外の何物でもないよ。
 
川端康成さんが、人生の終着点を自殺で締めくくったというのは、生前に、どれほど輝かしい業績を上げたとしても、結論的に言えば、敗北の人生であった、敗北の文学だった、と言えないだろうか。
これが、僕が川端康成さんの作品の嫌いな理由の、もう一つかもしれないねえ。
 
ところで、芸術家とその作品の関係性については、さまざまに論じられてきているね。基本的には、
「作者の現実の生活は、作品の評価に連動させるべきではない」というものだろうね。これは、単純なことで、例えば、反社会的、反人間的な行動をする画家でも、描いた作品が優れていれば、客観的に作品のみの評価をするべきである、ということだねえ。
 
それだったら、僕は言いたいんだ。
「サラリーマンが、スリをして財布を盗み、警察に捕まったならば、どれほど優秀な社員であったとしても、たいていの会社は、懲戒免職(ちょうかいめんしょく)にするだろう。芸術家とサラリーマンは、人種が違うのかい?」とね。
 
作品の独立性を強調するあまりに作者を無視するというのは、実は、芸術というものがどういうものか、分かってない人の考えることだよ。作品の真実の評価ができない人だ。
作者と作品が一体不二の関係であることは、だれよりも、作者自身がいちばんよく納得していることだよ。
 
川端康成さんの小説は、結局、自殺で自らの人生を終わらせるしかなかった人の作品なんだよね。
優れた文芸評論家であれば、川端康成さんの作品の中に、その本質を見抜く眼を持つべきだったねえ。
 
同じようなことは、谷崎潤一郎さんについても言えるよ。谷崎潤一郎さんは、自分の妻をまるで物でも扱うように、佐藤春夫さんに譲り与えたねえ。「妻君譲渡事件」として当時の新聞でも報道されたよ。
所詮、谷崎潤一郎さんの小説というのは、こういうことする人が書いた作品なわけだ。
 
僕は、川端康成さんと谷崎潤一郎さんの小説を読んだとき、こんな作品を書く作者は、おそらく、自分勝手な、世間に通じないような行動を無反省にとるだろう、と思ったね。
その感覚が、僕の、2人の作品に対する嫌悪感、不快感になったに違いないと思う。
 
何はともあれ、もし、この2人が、小説など書かない普通のサラリーマンであったとしたら、彼らの人生を世間の人はどのように評価するだろうねえ。
 
戻すことにしよう。
新感覚派といわれる文学者は、少人数であったけれど、横光利一さん、川端康成さん以外に、もう1人、中河与一さんもたいへん活躍した人だったねえ。
 
中河与一さんは、昭和12年(1937 )第1回透谷(とうこく)文学賞を受賞しているよ。透谷文学賞というのは、若くして自殺した浪漫主義文学者、北村透谷さんを顕彰しようとして設立したものだよ。選考委員には、島崎藤村さん、武者小路実篤(さねあつ)さん、萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)さんなどが入っていたねえ。
 
中川与一さんは、小説を書くこと以外に、新感覚派の理論家としても活躍した人だ。
あまり入試には出てこない人だけれど、実力派の作家だよ。
 
さて、こうして3人の中心的な文学者によって発展させられた新感覚派文学だったけれど、その後の流れは、どうなったのか。
結果的には、短い期間の流れでしかなかったねえ。
やはり、新感覚派というのは、個人的な特殊な感覚を根本に据えているものだから、多くの人たちに広がり、普遍化していくという方向にはならなかったねえ。
 
新感覚派の活躍の舞台であった『文芸時代』は創刊して3年後の、昭和2年(1927 )には、早くも、廃刊となっているよ。
新感覚派文学の短命をよく表しているねえ。
 
さあ、これで、新感覚派を終了することにするよ。