オチケン風『日本文学史』近現代Ⅲ【大正・昭和初期】(小説・評論)〈1〉【プロレタリア文学】
大正3年(1914)に始まった第1次世界大戦は、ヨーロッパが発端であり、主戦場となったけれど、日本も、連合国の中に加わって参戦したのだったねえ。
日本は自国外への派兵先で、敵対する同盟国との戦いになったので、自国は戦場とはならず、甚大な損害や犠牲は免れたねえ。
そして、戦勝国として、中国や南洋諸島の一部の権益を得ることになった。
さらに、大戦景気で近代工業を中心に大きく発展し、経済的にも豊かになった。また、国際連盟の常任理事国にもなり、世界に対して存在感を示すこともできたわけだねえ。
もうひとつ、注目すべきことは、大戦中に、ロシア革命が勃発して、ロシア帝国は、ソビエト社会主義共和国連邦という、世界で初めての社会主義国になったことだよ。
これは、社会主義が世界に広がる契機ともなったんだ。
この専制君主政治から社会主義への潮流は、日本の社会にも大きな影響与えたよ。
デモクラシー(民主主義)の思潮が幅広く社会運動として発生することになったねえ。
プロレタリアート(労働者階級)とブルジョワジー(資本家階級)との階級対立が激しさを増してくる中で、文学においても、資本主義に対する批判が高まっていったんだ。
そして、文学を通して、プロレタリアートの権利の主張と社会体制の矛盾を明確にしようとする流れが生まれたねえ。
ここから出てきたのが、
《プロレタリア文学》これだ。
プロレタリア文学は、これまでの日本文学史上、今までになかった特異な性質を持ったはものなんだよ。
それは、日本の文学は、近代に入ってさまざまな変遷(へんせん)はあったにしても、伝統的に、政治体制とは次元を異にしたものとして捉えていたんだよね。
もちろん、これまでも、文学を通して、世の中を嘆く、というものはあったよ。
例えば、最も古いものでは、万葉集に山上憶良さんが、『貧窮(ひんきゅう)問答歌』として載せている。これは、当時の律令体制下での過酷な徴税の苦しみを、具体的な庶民の生活を通して詠っているねえ。
また、明治の浪漫歌人、与謝野晶子さんは、弟の出兵を嘆いて、『君死にたまふことなかれ』を文芸誌『明星』に発表したねえ。
その中で晶子さんは、《天皇は、戦争に自ら出かけられない》と天皇制を批判するような事を書いているよ。
このような作品と、プロレタリア文学との違いはどこにあるのか。
山上憶良さんや与謝野晶子さんは、文学者個人の感情を、個人的に発表したものだね。
それに対してプロレタリア文学は、明確な社会主義思想をもとに、社会民主主義運動として書かれたものなんだよ。
文学と政治は、切り離して捉えるべきだ、という日本の伝統的な文学観を逸脱したのが、プロレタリア文学だったわけだねえ。
それだけに、当時の人々に、困惑と新鮮さを与えることになったよ。それだけに、当時の人々に、困惑と新鮮さを与えることになったよ。
プロレタリア文学の基本的なスタンスは、資本家に搾取(さくしゅ)された労働者(第4階級とも言った)が、団結をして個人主義、資本主義を批判し、戦うというものだねぇ。
だから、内容的には、労働者が作家となって、劣悪な労働環境での仕事の実態を描き、労働運動による社会変革の必要性を訴えるものが多いねえ。
だから、民衆文学、労働文学ともいわれるものだ。
こうした潮流の中で、文学者たちの発表の場を作ろうとして、大正10年(1921)に出てきた雑誌が、
『種蒔(ま)く人』これだ。
『種蒔く人』は、プロレタリア文芸評論雑誌と言えるような性質のものだよ。『種蒔く人』という活躍の場を得て、多くの文学者たちが成長し、また、糾合(きゅうごう)することにもなったねえ。
プロレタリア文学は、『種蒔く人』の発刊によって、文学流派としての存在を世の中に認められ始めたと言えるねえ。
ところが、2年後の大正12年(1923 )に、関東大震災が起きた。死者が10万人を超えるわが国最大の自然災害だ。
軍部には、この地震の大混乱に乗じて、日ごろ、危険人物だと思われていた人を抹殺しようという動きが出てきたねえ。その中には、社会主義者や労働運動の指導者も含まれていたんだ。当然のように、プロレタリア作家も、危険人物として目を付けられ、検挙、投獄されたよ。
この弾圧によって、一時、プロレタリア文学は、下火となってしまったねえ。
それでも、1年後の大正13年(1924)に、『種蒔く人』の後を継ぐプロレタリア文芸雑誌として、発刊されたのが、
『文芸戦線』これだ。
『文芸戦線』は、後には『文戦(ぶんせん)』と改名されたね。
プロレタリア文学者は、もともと思想性を持った文芸集団だったので、内部的にも、政治や芸術に対する理論の対立によって、何度も分裂、統合を繰り返すことになるよ。
昭和3年(1928 )には、全日本無産者芸術連盟(エスペラント語で略称してナップともいう)が結成され、翌年にその機関紙である、
『戦旗』が発刊されたよ。
ここから、プロレタリア文学は、急進的な内容の『戦旗』派と社会民主主義的な『文戦』派と対立しながら発展していくことになったねえ。
そうしながら、プロレタリア文学は、文学界の1つの潮流としての存在を確立することになったんだねえ。
さあ、それじゃあ、作者と作品を見てゆくことにしようかねえ。
まず、プロレタリア文学の初期の作品として、大正10年(1921)『種蒔く人』が発刊された年に発表された作品が、
『三等客船』これだ。作者は、
《前田河広一郎(まえだこう・ひろいちろう)》さん。この人だ。
読みづらい名前の人だねぇ。だけど、プロレタリア文学のさきがけをなした作家だよ。
内容は、前田河広一郎さんが、アメリカで、さまざまな仕事をして帰国した体験をもとに書いたものだよ。
小説の舞台は、アメリカから日本に帰国する船室の中での話だ。三等客船と題名がついているように、広い物置場のような劣悪な客室に、人々が雑魚寝(ざこね)をしている状態で詰め込まれている。
この乗船客の集団は、お互いには何の関係もない者たちの集まりだ。共通しているのは、皆、臭い息を吐いているということだ。
それと、異国での苦しい労働と孤独な生活を耐え抜いて、やっとの思いで、帰国の途についたということだ。
このバラバラな乗船客が、日本が近づくにつれて変化を見せる。日本が間近になればなるほど、不思議にお互いが心を許し合えるような雰囲気になる。
そして、到着する日になると、同じ目的を持って生きてゆく同志になってしまう。
まあ、こんな話だ。
群衆の心理は、情勢の変化によって、どのように変わるのかということを、リアリティーに描いているねえ。
読んで面白い作品ではないけれど、集団の心理描写には、体験を通じて得た確信のようなものが感じられるね。
『三等客船』は、これまでの小説には無かったテーマを取り上げた作品として、注目を集めたよ。
余談だけどさぁ。
当時は、列車や船などといった乗り物に、1等、2等、3等という、座席や船室のレベルの違いがあったんだ。1等が最も豪華で、3等は劣っていたんだ。もちろん、値段も1等が高かったねえ。
僕の小学校ごろには、この制度がまだ残っていたよ。ただ、3等というのは気分が悪いだろうということで、1等と2等に分けられていたねえ。
やがて、1等がグリーン車というように名前が変わったんだよ。
さてと、次には、『文芸戦線・文線』派の作品を見てみよう。
まずは、教科書にもよく掲載されている有名な作品だ。大正15年(1926)に発表された、
《葉山嘉樹(はやまよしき)》さんの書いた、
『セメント樽(だる)の中の手紙』これだ。
『セメント樽の中の手紙』は、教科書に全文が載せられるほどの短編だねぇ。
内容は、登場人物の女性の恋人は、劣悪な環境のセメント工場で働いていて、石と一緒に破砕機の中に落ちてしまい、細く砕かれた。
彼女は、せめてもの供養に、粉々にされてセメントになった恋人が、いったい、どのようなところに使われるのか知りたくて、製品になったセメントの中に、それを使用するであろう人に託す手紙を入れた。
こんな話だねえ。
この作品も、『三等客船』と同じように、作者の葉山嘉樹さんがセメント工場で、実際に工員として働いた体験をもとに書いたものだよ。だから、リアルさと説得力がはあるわけだねえ。
同年の大正15年(1926)に、同じく葉山嘉樹さんは、もう1つ、作品を書いているねえ。それが、
『海に生くる人々』これだ。
内容は、北海道から横浜へ石炭を運ぶ船の中での船長(ブルジョアジー)と船員(プロレタリアート)の闘争を描いているよ。
炊事係りの船員が、大けがをしたのに、それを船長が無視したことから騒動が起こる。船員たちは、労働運動の経験のある者を中心者にして、船内で待遇改善の闘争をする。
ストライキなどもやった結果、船員側が勝利して、8時間労働制、疾病手当てなどの要求を勝ち取った。
ところが、横浜に到着すると、運動家を逮捕する警察が待っていた。
こんな話だ。結末の部分は、葉山嘉樹さんが何度も労働運動中に逮捕投獄された経験に基づいているねえ。国家権力の巨大さと、ある種の労働運動の空しさを実感していたのだろうねえ。
その後、葉山嘉樹さんは、太平洋戦争中は満州にいて、終戦の年、昭和20年(1945)、日本への引き上げの途中の列車の中で病死したよ。
波乱万丈の人生を51歳で閉じたねえ。
それでは、次の作家へ進もう。
昭和2年(1927)『文芸戦線』に、読者の目を引く作品が載せられたねえ。作者は、
《平林たい子》さん。この人だ。作品は、
『施療室にて』これだ。
施療というのは、貧しい人に無料で病気の治療をすることだ。
内容は、中国の旧満州が舞台となっているねえ。
主人公の夫は、線路を破壊したということで投獄されている。主人公も共犯として投獄されるはずだったが、出産間近ということで、慈善病院の施療室に入っている。
出産が終われば、すぐに投獄される予定だ。
同室の者は、自殺未遂をした元売春婦など、皆、社会の底辺で絶望的な生活を送る者たちばかりだった。何の希望もない暗い空気に包まれた病室だった。
主人公はやがて、ひどい産痛のなか、猿のような女の子を産む。
赤ん坊は、新しい希望になった。
だが、赤ん坊は、母乳の出ない主人公の乳首を吸って、翌日、緑青色の便をし、黒い物を口からはいて死んでしまう。
ミルクさえあれば、子供は死ななくても済んだかもしれないと思ったが、買う金もなかった。病院は、貧しい施療患者には経費のかかる治療をしなかった。そのうえ、市からの補助金を私生活に流用している病院長夫婦に強い怒りを感じた。
赤ん坊の解剖が済んでから、主人公は、収監の手続きをとった。
まあ、こんな話だねえ。
『施療室にて』も、作者が、何度か刑務所に留置される中で、結核に苦しんだ体験がもとになっているよ。
『施療室にて』は、芥川賞の前身ともいえる渡辺賞を受賞したねえ。これによって、平林たい子さんは、特異なプロレタリア作家として世の中に認められることにもなったよ。
さあ、それじゃ、続いて《戦旗》派だ。
代表的な作家は、
《小林多喜二(たきじ)》さん。この人だ。代表作は、
『蟹工船(かにこうせん)』これだ。
『蟹工船』は、昭和4年(1929)、戦旗に掲載されたものだよ。
「おい、地獄さ行(え)ぐんだで!」
2人はデッキの手すりに寄り掛かって、カタツムリが背伸びをしたように伸びて、海を抱え込んでいる函館の街を見ていた。
これが、『蟹工船』の有名な書き出しだよ。
内容は、北の海で、蟹を取って加工する蟹工船の中での過酷な労働と、船員たちが団結をして闘争する姿が描かれているねえ。
『蟹工船』は、オホーツク海で奴隷のように酷使される労働者の実態を告発した小説だといえるねえ。
小林多喜二さんは『蟹工船』で、作家としての地位を確立したよ。
だけど逆に、権力からは睨(にら)まれることになったんだ。
『蟹工船』は、不敬罪という法律を犯したということで発売禁止になる。また、勤めていた銀行もクビになったねえ。
その後、共産主義活動に突き進んでいった。そのなかで書かれたのが、昭和8年(1933)に出された、
『党生活者』これだ。
これらの創作活動を通じて、小林多喜二さんは、プロレタリア文学運動の指導的な役割を果たすようになったねえ。
しかし、権力者からの追及は激しさを増し、同年2月、東京都内の路上にいたところ警察に逮捕されたよ。
そして当日、顔も体も本人のものとは思えないほど変形するような拷問を受けて、獄死したねえ。
とくに痛ましかったのは、足には15、6カ所も釘を打ち込まれた穴があいていたことと、ペンを握っていた右手の人さし指は、簡単に手の甲にくっつくように骨折させられていた、ということだった。
29歳だった。
警察は翌日、死因を心臓麻痺(まひ)と発表したねえ。
ところで、戦後のことだけれどねぇ。若くて優秀な文学者だった小林多喜二さんに、ひどい拷問を加えて殺したのは、いったい誰だったのかという、犯人捜しが行われたことがあった。
対象者は皆、戦時中のことだと言って、逃げたね。
これが、世の中なのか。
どういう風の吹き回しなのか、僕には、さっぱり分からないけれど、最近、小林多喜二さんの『蟹工船』が売れたんだってねぇ。
同じく戦旗に昭和4年(1929 )に発表された作品に、
『太陽のない街(まち)』これがあるねえ。作者は、
《徳永直(すなお)》さん。この人だ。
この作品もまた、徳永直さんが、印刷会社に勤めていたときに、労働組合運動の中心者として闘争した体験をもとに書かれているよ。
内容は、資本家の横暴な首切りに対して、労働者が立ち上がり、ストライキをするが、結果的に負けてしまう様子が描かれているねえ。
その主人公の印刷会社が、川沿いの谷底のような、日の当たらない場所にあったので、『太陽のない街』と題名をつけたわけだ。
さてと、これで、プロレタリア文学の主だった作品は説明したことになるねえ。
この後、プロレタリア文学はどうなったのか、ということだけどさぁ。
昭和6年(1931 )に、満州事変が起きるねえ。さらに翌年には、大日本帝国海軍の青年将校たちが犬養毅(いぬかいつよし)総理大臣を殺害するという5.15事件が起きたねえ。
こうした情勢の下で、政府は徹底して左翼思想、左翼文学を弾圧した。その結果、多くの人たちが検挙されて、拷問死、獄死者も多数出たねえ。
ああ、そうだ。ちょうど、この1週間、北朝鮮のナンバー2だった張成沢(チャンソンテク)さんが拷問されて、処刑されたというニュースが流れ続けているねえ。
その時の様子は、90発の銃弾で原形をとどめないほど損傷させられた上に、火炎放射器で焼き尽くされた、などとも報道されているね。
全体主義国家というのは、ナチスドイツを引き合いに出すまでもなく、反動的なものに対して、非人道的な迫害を加えることは、歴史が証明しているところだよね。
それで結果的に、昭和9年(1934 )ごろには、プロレタリア文学の、個人も組織も、壊滅状態になってしまったねえ。
燃えた後の煙のように残ったのは、左翼思想をどのように捨てたのか、ということをテーマにした文学だったよ。これだったら、警察に捕まることもないからね。
この文学のことを、
《転向文学》と呼んでいるよ。
代表作家としては、中野重治(しげはる)さん、島木健作(けんさく)さん、前出の徳永直さんなんかが挙げられるねえ。
ここに至って、日本のプロレタリア文学は終焉(しゅうえん)を告げることになったと言えるねえ。
太平洋戦争後は、プロレタリア文学の流れは、民主主義文学として雑誌《新日本文学》などに受け継かれたけれど、それは、純粋な意味でのプロレタリア文学ではなくなったねえ。だから、考えてみると、プロレタリア文学の流れは、大正10年(1921)『種蒔く人』に発表された前田河広一郎さんの『三等客船』から始まり、昭和8年(1933)に出された、小林多喜二さんの『党生活者』に終わったといえるねえ。
わずかは10数年で1つの文学主義の流れが終わっているわけだ。
どうしてこんなに短期間だったのか。
もちろん、思想弾圧という外的な要因があったことは確かだね。その上さらに、内的な要因も大きかったといえるよ。
その1つは、プロレタリア文学者同士の間で常に、政治が優先か、文学が優先かという論争があった、ということだよ。
文学を方法論として捉えるのか、目的論として捉えるかということだね。
この根本的な課題が、理論的に解決されないままだったがゆえに、長く続く潮流とはならずに、途切れてしまったんだねえ。
次には、戦後の日本の社会は、プロレタリア文学がテーマとして捉えているような、単純なものではなくなったということだよ。
資本家階級と労働者階級、という階級闘争の基盤になるような社会構成が姿を消していって、そんな捉えかたをすること自体が時代遅れになったということだね。
なによりも、どこまでが資本家で、どこまでが労働者なのか、という境界が、誰にも分からなくなったわけだ。
さらにもう1つ、根本的な問題だけれど、プロレタリア文学は、日本人の体質に合わなかったということだ。
日本は島国だよねぇ。道を隔ててすぐ隣が外国であったり、異民族であったりというヨーロッパとは違うよね。
直接的な異文化との交流の少なかった日本人は、多くの場合、同じ人と長期間一緒に生活をしていかなければならない状況だったわけだ。
狭い人間関係の中で生きていると、一度、関係がこじれると、下手をすると一生涯、こじれたままで過ごさなければならないこともあるわけだよね。
そんな中で、人間関係をうまく保とうと思えば、物事を白か黒かとはっきりさせない方が、円滑な生活ができる、ということを無意識に身につけてきたわけだね。
古文の助動詞の働きに《婉曲(えんきょく)》というのがあったね。《〇〇のような・・・》という表現法だねぇ。これなどは、あえて物事を明確にしないことによって、人間関係や意思の伝達をスムーズにするための知恵だねえ。
「角(かど)を立てない」
こんな言葉も、他国や他民族から征服されて、異文化に晒(さら)される事がなかった島国日本の処世術から生まれたものだねぇ。
それに対してプロレタリア文学は、白黒を明確にするものだ。資本家なのか、労働者なのか。搾取する側なのか、搾取される側なのか。被害者なのか、加害者なのか。
正と邪を見抜く眼をもって、正義の闘争をテーマに据(す)えたのが、プロレタリア文学の最大の特質だね。
これは、婉曲表現に培(つちか)われた伝統的な日本人の体質とは合わないわけだよね。
プロレタリア文学は、出発地点はヨーロッパだ。日本の作家の書いたプロレタリア文学だといっても、当然、ヨーロッパの文化的な発想を基本にしているわけだよね。
『戦争と平和』が書かれるような文化的土壌と、婉曲表現が尊重されるような文化的土壌とは、所詮(しょせん)、相入れないよね。
この傾向は、現在の日本人にも色濃く受け継がれているよ。
白黒が明らかになるような、政治や、思想や、社会運動などを真正面からテーマに据えた小説は、全くと言っていいほど、世の中に出ていないだろう。
もし書いたとしても、売れなくて、儲(もう)けないから、出版社が出版しないものねえ。
これが、今の日本の文学界の1つの実情だよ。
さてと、少々長くなったような気がするけど、これでプロレタリア文学は終わりにすることにしよう。
大正3年(1914)に始まった第1次世界大戦は、ヨーロッパが発端であり、主戦場となったけれど、日本も、連合国の中に加わって参戦したのだったねえ。
日本は自国外への派兵先で、敵対する同盟国との戦いになったので、自国は戦場とはならず、甚大な損害や犠牲は免れたねえ。
そして、戦勝国として、中国や南洋諸島の一部の権益を得ることになった。
さらに、大戦景気で近代工業を中心に大きく発展し、経済的にも豊かになった。また、国際連盟の常任理事国にもなり、世界に対して存在感を示すこともできたわけだねえ。
もうひとつ、注目すべきことは、大戦中に、ロシア革命が勃発して、ロシア帝国は、ソビエト社会主義共和国連邦という、世界で初めての社会主義国になったことだよ。
これは、社会主義が世界に広がる契機ともなったんだ。
この専制君主政治から社会主義への潮流は、日本の社会にも大きな影響与えたよ。
デモクラシー(民主主義)の思潮が幅広く社会運動として発生することになったねえ。
プロレタリアート(労働者階級)とブルジョワジー(資本家階級)との階級対立が激しさを増してくる中で、文学においても、資本主義に対する批判が高まっていったんだ。
そして、文学を通して、プロレタリアートの権利の主張と社会体制の矛盾を明確にしようとする流れが生まれたねえ。
ここから出てきたのが、
《プロレタリア文学》これだ。
プロレタリア文学は、これまでの日本文学史上、今までになかった特異な性質を持ったはものなんだよ。
それは、日本の文学は、近代に入ってさまざまな変遷(へんせん)はあったにしても、伝統的に、政治体制とは次元を異にしたものとして捉えていたんだよね。
もちろん、これまでも、文学を通して、世の中を嘆く、というものはあったよ。
例えば、最も古いものでは、万葉集に山上憶良さんが、『貧窮(ひんきゅう)問答歌』として載せている。これは、当時の律令体制下での過酷な徴税の苦しみを、具体的な庶民の生活を通して詠っているねえ。
また、明治の浪漫歌人、与謝野晶子さんは、弟の出兵を嘆いて、『君死にたまふことなかれ』を文芸誌『明星』に発表したねえ。
その中で晶子さんは、《天皇は、戦争に自ら出かけられない》と天皇制を批判するような事を書いているよ。
このような作品と、プロレタリア文学との違いはどこにあるのか。
山上憶良さんや与謝野晶子さんは、文学者個人の感情を、個人的に発表したものだね。
それに対してプロレタリア文学は、明確な社会主義思想をもとに、社会民主主義運動として書かれたものなんだよ。
文学と政治は、切り離して捉えるべきだ、という日本の伝統的な文学観を逸脱したのが、プロレタリア文学だったわけだねえ。
それだけに、当時の人々に、困惑と新鮮さを与えることになったよ。それだけに、当時の人々に、困惑と新鮮さを与えることになったよ。
プロレタリア文学の基本的なスタンスは、資本家に搾取(さくしゅ)された労働者(第4階級とも言った)が、団結をして個人主義、資本主義を批判し、戦うというものだねぇ。
だから、内容的には、労働者が作家となって、劣悪な労働環境での仕事の実態を描き、労働運動による社会変革の必要性を訴えるものが多いねえ。
だから、民衆文学、労働文学ともいわれるものだ。
こうした潮流の中で、文学者たちの発表の場を作ろうとして、大正10年(1921)に出てきた雑誌が、
『種蒔(ま)く人』これだ。
『種蒔く人』は、プロレタリア文芸評論雑誌と言えるような性質のものだよ。『種蒔く人』という活躍の場を得て、多くの文学者たちが成長し、また、糾合(きゅうごう)することにもなったねえ。
プロレタリア文学は、『種蒔く人』の発刊によって、文学流派としての存在を世の中に認められ始めたと言えるねえ。
ところが、2年後の大正12年(1923 )に、関東大震災が起きた。死者が10万人を超えるわが国最大の自然災害だ。
軍部には、この地震の大混乱に乗じて、日ごろ、危険人物だと思われていた人を抹殺しようという動きが出てきたねえ。その中には、社会主義者や労働運動の指導者も含まれていたんだ。当然のように、プロレタリア作家も、危険人物として目を付けられ、検挙、投獄されたよ。
この弾圧によって、一時、プロレタリア文学は、下火となってしまったねえ。
それでも、1年後の大正13年(1924)に、『種蒔く人』の後を継ぐプロレタリア文芸雑誌として、発刊されたのが、
『文芸戦線』これだ。
『文芸戦線』は、後には『文戦(ぶんせん)』と改名されたね。
プロレタリア文学者は、もともと思想性を持った文芸集団だったので、内部的にも、政治や芸術に対する理論の対立によって、何度も分裂、統合を繰り返すことになるよ。
昭和3年(1928 )には、全日本無産者芸術連盟(エスペラント語で略称してナップともいう)が結成され、翌年にその機関紙である、
『戦旗』が発刊されたよ。
ここから、プロレタリア文学は、急進的な内容の『戦旗』派と社会民主主義的な『文戦』派と対立しながら発展していくことになったねえ。
そうしながら、プロレタリア文学は、文学界の1つの潮流としての存在を確立することになったんだねえ。
さあ、それじゃあ、作者と作品を見てゆくことにしようかねえ。
まず、プロレタリア文学の初期の作品として、大正10年(1921)『種蒔く人』が発刊された年に発表された作品が、
『三等客船』これだ。作者は、
《前田河広一郎(まえだこう・ひろいちろう)》さん。この人だ。
読みづらい名前の人だねぇ。だけど、プロレタリア文学のさきがけをなした作家だよ。
内容は、前田河広一郎さんが、アメリカで、さまざまな仕事をして帰国した体験をもとに書いたものだよ。
小説の舞台は、アメリカから日本に帰国する船室の中での話だ。三等客船と題名がついているように、広い物置場のような劣悪な客室に、人々が雑魚寝(ざこね)をしている状態で詰め込まれている。
この乗船客の集団は、お互いには何の関係もない者たちの集まりだ。共通しているのは、皆、臭い息を吐いているということだ。
それと、異国での苦しい労働と孤独な生活を耐え抜いて、やっとの思いで、帰国の途についたということだ。
このバラバラな乗船客が、日本が近づくにつれて変化を見せる。日本が間近になればなるほど、不思議にお互いが心を許し合えるような雰囲気になる。
そして、到着する日になると、同じ目的を持って生きてゆく同志になってしまう。
まあ、こんな話だ。
群衆の心理は、情勢の変化によって、どのように変わるのかということを、リアリティーに描いているねえ。
読んで面白い作品ではないけれど、集団の心理描写には、体験を通じて得た確信のようなものが感じられるね。
『三等客船』は、これまでの小説には無かったテーマを取り上げた作品として、注目を集めたよ。
余談だけどさぁ。
当時は、列車や船などといった乗り物に、1等、2等、3等という、座席や船室のレベルの違いがあったんだ。1等が最も豪華で、3等は劣っていたんだ。もちろん、値段も1等が高かったねえ。
僕の小学校ごろには、この制度がまだ残っていたよ。ただ、3等というのは気分が悪いだろうということで、1等と2等に分けられていたねえ。
やがて、1等がグリーン車というように名前が変わったんだよ。
さてと、次には、『文芸戦線・文線』派の作品を見てみよう。
まずは、教科書にもよく掲載されている有名な作品だ。大正15年(1926)に発表された、
《葉山嘉樹(はやまよしき)》さんの書いた、
『セメント樽(だる)の中の手紙』これだ。
『セメント樽の中の手紙』は、教科書に全文が載せられるほどの短編だねぇ。
内容は、登場人物の女性の恋人は、劣悪な環境のセメント工場で働いていて、石と一緒に破砕機の中に落ちてしまい、細く砕かれた。
彼女は、せめてもの供養に、粉々にされてセメントになった恋人が、いったい、どのようなところに使われるのか知りたくて、製品になったセメントの中に、それを使用するであろう人に託す手紙を入れた。
こんな話だねえ。
この作品も、『三等客船』と同じように、作者の葉山嘉樹さんがセメント工場で、実際に工員として働いた体験をもとに書いたものだよ。だから、リアルさと説得力がはあるわけだねえ。
同年の大正15年(1926)に、同じく葉山嘉樹さんは、もう1つ、作品を書いているねえ。それが、
『海に生くる人々』これだ。
内容は、北海道から横浜へ石炭を運ぶ船の中での船長(ブルジョアジー)と船員(プロレタリアート)の闘争を描いているよ。
炊事係りの船員が、大けがをしたのに、それを船長が無視したことから騒動が起こる。船員たちは、労働運動の経験のある者を中心者にして、船内で待遇改善の闘争をする。
ストライキなどもやった結果、船員側が勝利して、8時間労働制、疾病手当てなどの要求を勝ち取った。
ところが、横浜に到着すると、運動家を逮捕する警察が待っていた。
こんな話だ。結末の部分は、葉山嘉樹さんが何度も労働運動中に逮捕投獄された経験に基づいているねえ。国家権力の巨大さと、ある種の労働運動の空しさを実感していたのだろうねえ。
その後、葉山嘉樹さんは、太平洋戦争中は満州にいて、終戦の年、昭和20年(1945)、日本への引き上げの途中の列車の中で病死したよ。
波乱万丈の人生を51歳で閉じたねえ。
それでは、次の作家へ進もう。
昭和2年(1927)『文芸戦線』に、読者の目を引く作品が載せられたねえ。作者は、
《平林たい子》さん。この人だ。作品は、
『施療室にて』これだ。
施療というのは、貧しい人に無料で病気の治療をすることだ。
内容は、中国の旧満州が舞台となっているねえ。
主人公の夫は、線路を破壊したということで投獄されている。主人公も共犯として投獄されるはずだったが、出産間近ということで、慈善病院の施療室に入っている。
出産が終われば、すぐに投獄される予定だ。
同室の者は、自殺未遂をした元売春婦など、皆、社会の底辺で絶望的な生活を送る者たちばかりだった。何の希望もない暗い空気に包まれた病室だった。
主人公はやがて、ひどい産痛のなか、猿のような女の子を産む。
赤ん坊は、新しい希望になった。
だが、赤ん坊は、母乳の出ない主人公の乳首を吸って、翌日、緑青色の便をし、黒い物を口からはいて死んでしまう。
ミルクさえあれば、子供は死ななくても済んだかもしれないと思ったが、買う金もなかった。病院は、貧しい施療患者には経費のかかる治療をしなかった。そのうえ、市からの補助金を私生活に流用している病院長夫婦に強い怒りを感じた。
赤ん坊の解剖が済んでから、主人公は、収監の手続きをとった。
まあ、こんな話だねえ。
『施療室にて』も、作者が、何度か刑務所に留置される中で、結核に苦しんだ体験がもとになっているよ。
『施療室にて』は、芥川賞の前身ともいえる渡辺賞を受賞したねえ。これによって、平林たい子さんは、特異なプロレタリア作家として世の中に認められることにもなったよ。
さあ、それじゃ、続いて《戦旗》派だ。
代表的な作家は、
《小林多喜二(たきじ)》さん。この人だ。代表作は、
『蟹工船(かにこうせん)』これだ。
『蟹工船』は、昭和4年(1929)、戦旗に掲載されたものだよ。
「おい、地獄さ行(え)ぐんだで!」
2人はデッキの手すりに寄り掛かって、カタツムリが背伸びをしたように伸びて、海を抱え込んでいる函館の街を見ていた。
これが、『蟹工船』の有名な書き出しだよ。
内容は、北の海で、蟹を取って加工する蟹工船の中での過酷な労働と、船員たちが団結をして闘争する姿が描かれているねえ。
『蟹工船』は、オホーツク海で奴隷のように酷使される労働者の実態を告発した小説だといえるねえ。
小林多喜二さんは『蟹工船』で、作家としての地位を確立したよ。
だけど逆に、権力からは睨(にら)まれることになったんだ。
『蟹工船』は、不敬罪という法律を犯したということで発売禁止になる。また、勤めていた銀行もクビになったねえ。
その後、共産主義活動に突き進んでいった。そのなかで書かれたのが、昭和8年(1933)に出された、
『党生活者』これだ。
これらの創作活動を通じて、小林多喜二さんは、プロレタリア文学運動の指導的な役割を果たすようになったねえ。
しかし、権力者からの追及は激しさを増し、同年2月、東京都内の路上にいたところ警察に逮捕されたよ。
そして当日、顔も体も本人のものとは思えないほど変形するような拷問を受けて、獄死したねえ。
とくに痛ましかったのは、足には15、6カ所も釘を打ち込まれた穴があいていたことと、ペンを握っていた右手の人さし指は、簡単に手の甲にくっつくように骨折させられていた、ということだった。
29歳だった。
警察は翌日、死因を心臓麻痺(まひ)と発表したねえ。
ところで、戦後のことだけれどねぇ。若くて優秀な文学者だった小林多喜二さんに、ひどい拷問を加えて殺したのは、いったい誰だったのかという、犯人捜しが行われたことがあった。
対象者は皆、戦時中のことだと言って、逃げたね。
これが、世の中なのか。
どういう風の吹き回しなのか、僕には、さっぱり分からないけれど、最近、小林多喜二さんの『蟹工船』が売れたんだってねぇ。
同じく戦旗に昭和4年(1929 )に発表された作品に、
『太陽のない街(まち)』これがあるねえ。作者は、
《徳永直(すなお)》さん。この人だ。
この作品もまた、徳永直さんが、印刷会社に勤めていたときに、労働組合運動の中心者として闘争した体験をもとに書かれているよ。
内容は、資本家の横暴な首切りに対して、労働者が立ち上がり、ストライキをするが、結果的に負けてしまう様子が描かれているねえ。
その主人公の印刷会社が、川沿いの谷底のような、日の当たらない場所にあったので、『太陽のない街』と題名をつけたわけだ。
さてと、これで、プロレタリア文学の主だった作品は説明したことになるねえ。
この後、プロレタリア文学はどうなったのか、ということだけどさぁ。
昭和6年(1931 )に、満州事変が起きるねえ。さらに翌年には、大日本帝国海軍の青年将校たちが犬養毅(いぬかいつよし)総理大臣を殺害するという5.15事件が起きたねえ。
こうした情勢の下で、政府は徹底して左翼思想、左翼文学を弾圧した。その結果、多くの人たちが検挙されて、拷問死、獄死者も多数出たねえ。
ああ、そうだ。ちょうど、この1週間、北朝鮮のナンバー2だった張成沢(チャンソンテク)さんが拷問されて、処刑されたというニュースが流れ続けているねえ。
その時の様子は、90発の銃弾で原形をとどめないほど損傷させられた上に、火炎放射器で焼き尽くされた、などとも報道されているね。
全体主義国家というのは、ナチスドイツを引き合いに出すまでもなく、反動的なものに対して、非人道的な迫害を加えることは、歴史が証明しているところだよね。
それで結果的に、昭和9年(1934 )ごろには、プロレタリア文学の、個人も組織も、壊滅状態になってしまったねえ。
燃えた後の煙のように残ったのは、左翼思想をどのように捨てたのか、ということをテーマにした文学だったよ。これだったら、警察に捕まることもないからね。
この文学のことを、
《転向文学》と呼んでいるよ。
代表作家としては、中野重治(しげはる)さん、島木健作(けんさく)さん、前出の徳永直さんなんかが挙げられるねえ。
ここに至って、日本のプロレタリア文学は終焉(しゅうえん)を告げることになったと言えるねえ。
太平洋戦争後は、プロレタリア文学の流れは、民主主義文学として雑誌《新日本文学》などに受け継かれたけれど、それは、純粋な意味でのプロレタリア文学ではなくなったねえ。だから、考えてみると、プロレタリア文学の流れは、大正10年(1921)『種蒔く人』に発表された前田河広一郎さんの『三等客船』から始まり、昭和8年(1933)に出された、小林多喜二さんの『党生活者』に終わったといえるねえ。
わずかは10数年で1つの文学主義の流れが終わっているわけだ。
どうしてこんなに短期間だったのか。
もちろん、思想弾圧という外的な要因があったことは確かだね。その上さらに、内的な要因も大きかったといえるよ。
その1つは、プロレタリア文学者同士の間で常に、政治が優先か、文学が優先かという論争があった、ということだよ。
文学を方法論として捉えるのか、目的論として捉えるかということだね。
この根本的な課題が、理論的に解決されないままだったがゆえに、長く続く潮流とはならずに、途切れてしまったんだねえ。
次には、戦後の日本の社会は、プロレタリア文学がテーマとして捉えているような、単純なものではなくなったということだよ。
資本家階級と労働者階級、という階級闘争の基盤になるような社会構成が姿を消していって、そんな捉えかたをすること自体が時代遅れになったということだね。
なによりも、どこまでが資本家で、どこまでが労働者なのか、という境界が、誰にも分からなくなったわけだ。
さらにもう1つ、根本的な問題だけれど、プロレタリア文学は、日本人の体質に合わなかったということだ。
日本は島国だよねぇ。道を隔ててすぐ隣が外国であったり、異民族であったりというヨーロッパとは違うよね。
直接的な異文化との交流の少なかった日本人は、多くの場合、同じ人と長期間一緒に生活をしていかなければならない状況だったわけだ。
狭い人間関係の中で生きていると、一度、関係がこじれると、下手をすると一生涯、こじれたままで過ごさなければならないこともあるわけだよね。
そんな中で、人間関係をうまく保とうと思えば、物事を白か黒かとはっきりさせない方が、円滑な生活ができる、ということを無意識に身につけてきたわけだね。
古文の助動詞の働きに《婉曲(えんきょく)》というのがあったね。《〇〇のような・・・》という表現法だねぇ。これなどは、あえて物事を明確にしないことによって、人間関係や意思の伝達をスムーズにするための知恵だねえ。
「角(かど)を立てない」
こんな言葉も、他国や他民族から征服されて、異文化に晒(さら)される事がなかった島国日本の処世術から生まれたものだねぇ。
それに対してプロレタリア文学は、白黒を明確にするものだ。資本家なのか、労働者なのか。搾取する側なのか、搾取される側なのか。被害者なのか、加害者なのか。
正と邪を見抜く眼をもって、正義の闘争をテーマに据(す)えたのが、プロレタリア文学の最大の特質だね。
これは、婉曲表現に培(つちか)われた伝統的な日本人の体質とは合わないわけだよね。
プロレタリア文学は、出発地点はヨーロッパだ。日本の作家の書いたプロレタリア文学だといっても、当然、ヨーロッパの文化的な発想を基本にしているわけだよね。
『戦争と平和』が書かれるような文化的土壌と、婉曲表現が尊重されるような文化的土壌とは、所詮(しょせん)、相入れないよね。
この傾向は、現在の日本人にも色濃く受け継がれているよ。
白黒が明らかになるような、政治や、思想や、社会運動などを真正面からテーマに据えた小説は、全くと言っていいほど、世の中に出ていないだろう。
もし書いたとしても、売れなくて、儲(もう)けないから、出版社が出版しないものねえ。
これが、今の日本の文学界の1つの実情だよ。
さてと、少々長くなったような気がするけど、これでプロレタリア文学は終わりにすることにしよう。