オチケン風『日本文学史』近現代Ⅲ【はじめに】

前座【新スマホ宇宙人】①センター試験廃止
 
ああ〜あ、今日は、立冬だ。今日から冬だってさぁ。
つい先日まで、
「どうして、こんなに暑いの?異常気象だねぇ」と嘆いていたのが、嘘のようだ。
 
「ちょうど良い季節になりました」
とあいさつができるような秋や春が、無くなってしまったねえ。僕が、66年間、生きてきた経験から考えると、まさに、異常気象であり、地球規模の異変が始まったといえるねえ。
 
なかには、
「地球が滅びるのであれば、勉強なんかしなくたっていいじゃない。ラッキー!」なんて言う友達がいるかもしれないけれど、甘いよね。現実は現実だもの。
 
ところで、推薦入試が、闌(たけなわ)だねぇ。
いよいよ、入試本番という時期に入ってきたねえ。
 
最近、新聞記事として、しばしば出てくるのに、《大学入試制度改革》というのがあるよ。
センター試験を廃止しようというものだ。おそらく君が、四年制大学を卒業するころには、センター試験というものはなくなるよ。
 
僕が大学入試を受験したころは、センター試験も共通1次試験もなかったよ。国立1期校(旧帝国大学)、国立2期校(公立も含む)、私立大学の3種類の大学が、それぞれ独自の入試問題を作って、試験をしていたんだ。
 
やがて、有名大学を中心に難問、奇問の入試問題が作られるようになったんだよ。
これでは、高校生の学習範囲を脅(おびや)かすということで、昭和54年(1979 )に、共通1次試験が導入されたんだ。
 
共通1次試験は、10年間実施された。
その結果として、大学間格差を助長することになったんだねぇ。
それを是正しようして、平成2年(1990 )に、センター試験を取り入れたんだ。以来、23年間続いているわけだ。
 
そして今度は、その弊害として、点数偏重と受験機会が1回しかないことが取り上げられるようになった。
それで、次の入試制度は、1点、2点というような、わずかな点数差によって合否を決めずに、幅を持たせることと、受験機会を複数回にすることができるような試験方法を考えているんだよ。
 
ふと考えると、センター試験に、廃止しなければならないほどの欠陥があったとすれば、23年間の間、必死になって勉強して挑戦した受験生は、欠陥のある制度に合わした、欠陥のある受験勉強をしたことになるだろう。
さらに、その結果によって、ふるいにかけられ、人生が大きく変わった者もいるわけだ。
 
受験制度が変われば、受験勉強の方法も当然、変わるわけだから、場当たり的な受験制度の変更というのは、実に、受験生にとって迷惑なことだよね。
 
受験制度の変更というのは、もちろん、高校教育や大学教育の、よりよい発展のために考え出されたことは確かだねえ。でも、50年前の僕の世代の入試方法を現在実施したとしても、今、行われているセンター試験を中心にした入試より、選抜方法として見劣りがするか、というとそんなことはないねえ。抜方法として見劣りがするか、というとそんなことはないねえ。
 
いや、むしろ、今の入試制度よりも、教育的効果の上がる方法だったといえるよ。
このことは、長年、大学入試に関わってきた教育関係者であれば、多くの人が感じているに違いない。
 
ということは、この50年間、なんだかんだと、その時々の政府が行ってきた入試制度改革というのは、ほとんど意味がなかったということだねえ。
結果的に、制度変革は、1部の関係者の業績を上げるために利用されたと思われても仕方がない実態だね。
 
どうして、大学入試制度が、普遍性を持った効果的な方法に改善できないのか。
その大きな原因は、入試制度は、単なる制度ではなくて、教育の根幹に関わってくるからだねえ。
 
だって、入試制度が変われば、学校での学習方法が変わってくるのは当たり前だよね。それほど、教育現場に影響を与えるものだね。
 
50年の間、賢い、オエラ方が、一生懸命になって制度を考えたにもかかわらず、何度も変えなければならないほど、出来が悪かったのはなぜか。
答えは簡単だ。人間が判っていないからだ。
 
人間とは何か。人生をいかに生きるべきか。生老病死をどのように捉えるのか。
こういった、人間の本質を把握する深い人間観が、入試制度を考える人たち、さらに、教育関係者全般に、希薄なのだよね。
 
ごく当たり前のことだけれど、教育は人間を教育するんだよね。その教育をする対象が、いったい、どういうものなのかよく判っていないんだ。
例えば、料理をするのに、食材に対する知識がないのと同じだよ。よく理解していない材料を料理しても、うまくいくわけがないよね。
 
単純に考えて、人間が判っていないのに、人間を教育することなんて、できるわけないよ。
 
今の日本の教育に欠けているのは、共感と普遍性を持った人間観が確立されていないことだね。
教育に哲学がない、哲学のない人間になった、ということは、良識的な教育研究者からは、よく聞かれることだよ。
 
だから、世の中の風潮、社会の変化、政治状況の違い、などによって、ふらふらと教育観も変わってくる。それで、入試制度も変わってくるんだねえ。
 
おそらく、6・3・3・4制の学校制度も、こんな頼りない教育観、人間観をもとに、変更しようという動きが大きくなると思うよ。
根っこが確立されていないのだから、うまくいくわけないよね。
 
《教育は100年の大計》
 
この言葉が、むなしく響く世の中になったねえ。
 
ああ、ごめんごめん。
つい、また、愚痴をこぼしてしまったよ。

前座【新スマホ宇宙人】②赤信号突破
 
昨夜のことだ。
僕は車を運転していて、見通しの悪い、信号のある交差点にさしかかった。前方の信号が青であるのを確認して、交差点に入り左折しようとしたんだよ。
その時だ。車の直前に、赤信号を無視して、右から自転車が飛び出してきたんだ。
 
僕は驚いて、クラクションを鳴らしながら、思いっきりブレーキを踏んだよ。
幸い、衝突寸前で車が止まったのでよかった。
僕は頭にきて、自転車に乗っている者をにらみつけた。ヘッドライトに照らされているから、相手からは見えないだろうけれどねえ。
 
顔を見て、また驚いたよ。高校生くらいの男の子だ。片手ハンドルで、もう一方の手には、スマホを握っている。スマホには、イヤホンが接続されていて、両耳に入れられている。
視線はスマホに集中している。それに、スマホを握った指をカニの足のように動かして、画面を操作している。
 
この男の子は、目の前でクラクションを鳴らしながら、急停車した僕の車には、全く気がつかないように、見向きもせずに通り過ぎたよ。
横顔は、無表情そのものだった。
 
「宇宙人だッ!」
僕は、とっさにつぶやいていた。
地球人であれば、交差点での信号の規則を学んでおれば、赤で止まって当たり前だろう。たとえ止まらなかったにしても、クラクションによって気付き、信号無視を謝る表情くらいはするんじゃないの。
 
僕は腹が立ったので、左折して、その子の横を並走させながら、
「コラッ、どこ見て乗っているのだァー、信号守れッ!」と怒鳴ってやったよ。
すると、その子は、チラッと僕の方を見ただけで、相変わらず無表情な顔をして自転車をこいでいるんだ。
 
そのまま少し進むと、次の交差点の信号が赤になったので、僕は車を止めた。するとその子は、またもや、信号無視して交差点を通過しようとしているんだ。
 
僕は、もっと大きな声で怒鳴ってやろうと思って、助手席の方を向くと、窓が閉まったままになっているのに気がついたよ。
先程、怒鳴った時も、閉まったままだったんだねえ。
 
その子は、スマホに目を向けたまま、何のためらいもなく、赤信号を無視して通り過ぎたねえ。
「やはり宇宙人だ」
僕はまた、あきらめ気味につぶやいたよ。
 
街に出ると、歩きながらのスマホは当たり前だねぇ。電車に乗ると、黙々とスマホをやっている人が目につく。
この情景ッて、もし、50年前の人間が見たなら、間違いなく宇宙人の集団に見えるよ。
 
手のひらに入るようなサイズのディスプレーに、無限の情報が表示され、イヤホンからは、世界の音楽が聞こえる。
これは、50年前の人たちが考えれば、宇宙人の生活にほかならないね。

宇宙人といえば、足が何本もあるタコが立って歩く姿とか、映画E.T.に登場したがエイリアンを思い浮かべるかもしれないねえ。だけど、地球人もまた宇宙人だよね。
人間社会の中で生きていくうちに、地球人のようにしつけられるけれど、生命の中には、宇宙人の可能性があるのは当然だ。
 
人間の生命ッてすごいんだよ。
キリストにもなれるし、ブッターにもなれるんだ。
イエスキリストも、お釈迦(しゃか)さんも、人間なんだよ。時折、人間ではない、という人がいるけれど、それは嘘だよ。もし、人間でなければ、空想して作り上げた無用のものだね。
 
キリストさんもお釈迦さんも、僕たち人間には、誰の生命の中にも、想像を超えた優れた存在になれる可能性を持っていることを教えてくれた先駆者なんだよ。
 
だから、僕たちは、神や仏や宇宙人にもなれるんだ。けれどさあ、信号無視する宇宙人ッていうのは、新種の宇宙人だねえ。
それで、僕は、彼のことを、
《新スマホ宇宙人》と名付けたよ。

まあ、こんなことを話していたのでは、いっこうに、文学史に進まないので、この辺でそろそろ、文学史と関連付けるよ。
 
実は、第1次世界大戦以降から現代までの文学の流れは、この、信号無視する新スマホ宇宙人と同じような性格を持ったものなんだよ。
 
多くの人たちが、赤黄青の信号の意味を認めて、それに従って社会生活を営んでいる。文学的な表現にすれば、信号の意味を共感をもって受け入れているわけだ。
ところが、この時期の文学というのは、大多数の共感を無視して、一部の宇宙人にしか通じないような作品が、たくさん出てきたんだねえ。
 
だから、明治維新から第1次世界大戦までの文学主義の流れのように、明確な輪郭を持った流派として捉えることが難しい状況なんだよ。
簡単に言えば、各個人が、文学流派とは無関係に、それぞれ自分の好きな作品を勝手に書いた、と言えるねえ。
 
とは言っても、信号無視する宇宙人を好きになる人がいるわけだから、ある程度、集団になって、文学流派らしき流れを作っていった状況も、もちろんあったよ。
 
どちらにしても、この時期の文学史の流れは、第1次世界大戦までとは違って、複雑雑多で、明確な線引きなどはできないということを、最初に、頭に入れておいてねえ。
 
そんな中で、1つだけ、はっきりした輪郭を持った文学主義があるねえ。それが、
 
《プロレタリア文学》これだ。
 
前にも言ったと思うけど、プロレタリア文学と他の文学とのいちばん大きな違いは、文学を方法論にするか、目的論にするかの違いだったねえ。
プロレタリア文学は、プロレタリアートを中軸にした理想的な社会を築くのが目的で、その実現のために方法論として文学も利用するというものだね。
 
例えば、春に明るい黄色の花を咲かせてくれる菜の花のことを考えてみよう。菜の花は、咲きかけのつぼみは、食用になるんだよ。ホロ苦い味がして、毎年、楽しみにしている人も多いよ。
 
ひとりの人は、食べるために菜の花を栽培したとしよう。別の人は、菜の花を観賞するために栽培したとする。
菜の花が生育して、今にも咲きそうなつぼみになった時、ひとりの人は、摘み取って食べるだろうし、別の人は、花が咲いて満開になるのを楽しむだろう。
 
食用にした人は、菜の花を、食べるという目的のための方法論にしたわけだね。別の人は、花の美しさそのものを楽しむことを目的論としたわけだ。
当然のことだけれど、花の美しさを最大限に発揮させたのは、目的論として育てた人だねえ。
 
菜の花を文学に例えたと考えれば、よく分かるだろう。
プロレタリア文学は、文学を方法論として捉えているが故に、どうしても、文学自体の優れた可能性を限定してしまう傾向にあるんだねえ。
 
だけどまあ、プロレタリア文学は、この時期のあやふやな文学状況の中で、明確な主張性を持った文学流派として、特筆すべきものだろうね。

ああ、そうだ。今日の新聞に、次のような見出しの記事が掲載されていたよ。
 
《スマホ子守、やめて!
アプリ頼み「触れ合い減る」心身へ影響を懸念
小児科医会が啓発》
 
これだ。内容は、乳幼児向けのアプリをスマホにダウンロードして、それを見せて子守に使うというのだ。
赤ちゃんが、ぐずった時にそれを見せると、すぐに泣き止むというんだねえ。
 
やれやれ。これでは、新スマホ宇宙人が、次々に誕生してくるよ。
やがて地球は、新スマホ宇宙人に征服されてしまうだろうねえ。
前座【新スマホ宇宙人】③《2つの考え》の大罪
 
僕は、35年間、高校で国語を教えてきた。だから、その間の高校生の行動や考え方や感覚の変遷(へんせん)を身をもって感じることができたねえ。
 
この35年間に、日本の行ってきた教育は、2つの大きな罪を犯したよ。
どのような罪だったかを知るには、どのような生徒になったかを見れば、明確に分かるだろう。
 
まず1つの大罪は、次のような考え方を持つ生徒を作ったことだ。
「他人の迷惑にならなければ、何をしてもよい」これだ。
 
僕は授業中、生徒が眠ることを放っておけなかったねえ。
眠り始める生徒がいると、そばまで行って、大きな声で目を覚まさせてやった。
時には、机をたたいたり、体を揺さぶったりしたこともあるよ。
そんな時の、生徒の言い分は決まっていたねえ。
 
「オイッ、眠るなよ。起きてしっかりと授業を聴くんだ」
「ああ、眠たい!知らないうちにまぶたがくっつく。僕の責任じゃない。まぶたが悪い」
「我慢するんだ。眠くなったら、自分で自分の頭をたたけ」
「昨日の夜は、遅くまでビデオを見ていたので、今もまだ、目が覚めてない。頭をたたく前に眠ってしまう」
「どうでもいいから、とにかく、起きておくんだ」
「イヤーッ、無理。授業が受けられなくて、自分が損するだけで、他の人にはだれにも迷惑かけないのだから、眠らせてくれてもいいじゃない」
「それは違う。君が眠ることによって、教室の者全員に迷惑をかけているんだ」
「どうして?迷惑なんか、かけていないじゃない」
「君が眠っている姿を見て、周囲の者がどれほど、やる気を無くすか分からない。教室全体の雰囲気もだらけてくるだろう。君は、周囲の者に大きな迷惑をかけているのだ」
「ムッ!」
 
というわけだ。
居眠りに限ったことではないねえ。授業中に行う、アルバイト(他教科の勉強)、イヤホンでの音楽、ゲーム、化粧、などなど。
本人は、他人には迷惑をかけていないと思っているんだねぇ。なによりも、教えている教師から見れば、これほど屈辱的なことはないと思えるねえ。
 
まあ、たまには、生徒のこんな状態には、全く無頓着(むとんじゃく)な教師もいるけれどねえ。
 
学校に限ったことではなく、一般社会でも似たようなことはあるねえ。一時、話題になった、電車の中での、携帯電話の使用や化粧の功罪がそうだね。
 
「他人の迷惑にならなければ、何をしてもよい」
というのは、一見すると、正当性がありそうだけれどさあ、実は、これほど迷惑なことはないねえ。
なにせ、迷惑をかけている本人自身に、その自覚が全くないんだからねぇ。
 
この考え方の誤りは、
「迷惑にならない」という判断基準を、自分を中心にして、自分の都合のいいように考えているということだ。相手の立場、周囲の人々の立場に立っての、判断ができないわけだ。
 
何年か前のアンケートに、面白いものがあったよ。
それは、世界の代表的な国々の高校生世代に行ったアンケートの結果だ。
そのうちの1つに、
「電車の中で携帯電話を使うときに、周囲の人にどれほど気を使うか」という質問があったねえ。
 
結果は、日本人の高校生が、世界の中で最も周囲に気を使わずに携帯電話をかけている、というものだったよ。
これは、異常なことだと思わないかい。
だけど僕は、長年の教育経験の中から、「そうだろう」とうなずけるんだよ。
 
この30年ほどの間の、日本の教育の大罪の1つは、こんな考え方を持った生徒を育ててしまったことだ。

もう1つの大罪は、
「他人の迷惑にならなければ、どんな考え方をしてもよい」これだ。
個人の考え方は、思想、信教の自由であり、基本的人権なのだから他人から、なんだかんだと言われる筋合いはない、というものだ。
 
これも、一見、正当性があるように思えるけれど、根底には、他人との関わりを拒否するところから出ているんだよね。もちろん、様々な人がいて、様々な考え方を持つのは当然だけれど、お互いが、それぞれの考え方をぶつけあって、よりレベルの高い考え方へと止揚(しよう)していくことは、人間の成長にとって、必要不可欠なことだよね。
 
ところが、「どんな考え方をしてもよい」というのは、小さく、もろい自分の考え方を必死になって守ろうとする気持ちの表れなんだねぇ。
周囲の人たちと積極的に関わって、自己を訓練し、錬磨していこうとするのではなくて、小さな世界に閉じこもって、他人から攻撃されるのを避けて、小さな平和と安心を保とうとするものだねえ。
そこには、恐怖心さえともなっているよ。
 
1つの例として、このごろ、他の人と団結をして物事に取り組み、喜びや悲しみを共感しながら、目標を成し遂げるということが、苦手な人が増えたことが挙げられるねえ。
例えば、労働組合の良し悪しは別として、僕が教員として就職したころは、ほとんど全教職員が組合員になっていて、団結して活動したものだ。
 
ところが最近は、組合員はわずかしかいなくなっている。いろいろな原因は挙げられるけれど、根本的には、気に入った少数の人とは付き合いできるけれど、さまざまな考え方を持った多くの人と付き合うことが、できないんだねえ。
 
こんな考え方を持った人は、「他人の迷惑にならなければ」というけれども、実は、世の中の、社会の迷惑になる人だねえ。
こんな人は、たいてい、しっかりとした信念を持っておらず、関わりを持つのを嫌がっているはずの世の中の風潮に流されるんだから面白いねえ。
 
テレビや新聞といったマスメディアに影響されて、浮き草ように、ふらふらと揺れ動く。
マスコミがAといえば一斉にAの方を向き、反対にBだといえば今度は何の検証もせずに、そちらを向いてしまう。あげくの果てに、国民の権利だといって、世の中に迷惑をかけるような政治を選んでしまうんだねえ。
「他人の迷惑にならない考え方」とは、これもまた、自分に都合よく、勝手に迷惑がかからないと思っているだけで、社会に大いに迷惑をかける考え方に他ならないわけだよ。
 
所詮(しょせん)、人間社会の中で生きている以上、物理的にも心理的にも、社会と関わり合わずに生きられるなんてあるわけがないよね。
 
「他人の迷惑にならなければ、どんな考え方をしてもよい」
こんな考え方を持たせるように育てた日本の教育は、大罪を犯したといえるね。
 
現代人の精神的傾向について、アメリカ実践哲学協会会長のルー・マリノフさんは、次のように言っているよ。
 
「問題は、人々に困難や逆境に立ち向かおうとする勇気や気概(きがい)があるか否か、ということです。
現代人にそれが失われてしまっていることを私は恐れます。
誰かが何かをしてくれることに、淡い期待をかけ、それが裏切られると他人や社会を恨み、やがては無気力の病弊(びょうへい)に侵されていくことを危惧(きぐ)するものです」
 
自己中心のわがままな都合主義を身につけさせてしまった、日本の教育は、マリノフさんの恐れている精神状態を持った人を時代の潮流のように育ててしまったわけだねえ。
 
これら《2つの考え》を持った人々が世の中に増えた時、社会はどうなるのか。
 
僕がもし、権力者だったら、こんな人が国民の中に増えてくれればくれるほど、やりやすいねえ。
強権的な政治をやったとしても、反抗しないからねぇ。個人が不満を持っても、他の多くの人々と連帯をして、権力者へ要求を突きつけるというような市民運動ができない人々なんだから、これほど、為政者として、ありがたいことはないよ。
 
何か社会的な不正や不満があったとしても、小さな個人の平安と幸福の中に逃避して、社会との関わりを断絶させようとするんだね。
そのくせ、くすぶっている不満のエネルギーがあるので、マスコミなどによって作り出された社会的風潮には、盲目的に乗せられてしまうんだねえ。
 
こういう状況の中では、権力者は、独裁者にもなり得るよね。
民主主義というのは、当然、権利を有する一人ひとりの市民が、良識的な信念を持っていて初めて成り立つものだ。
《2つの考え》に侵された市民、国民が多数を占める場合は、民主主義は、これもまた当然として、衆愚政治となってしまうねえ。
 
ナチス・ヒトラーは、民主主義によって誕生した。このことを夢にも忘れてはいけないよね。

 少々、社会状況についての話が、長くなったけれども、ここで社会や政治が、どうのこうのというのが目的ではないよ。
第1次世界大戦以降の文学史を見ていく上で、基本になるものとして話をしたんだ。
 
これまでに何度も話をしてきたけれど、言うまでもなく、文学は、社会の潮流と切っても切り離せない関係の中で、変化を遂げているんだねぇ。現代社会が、《2つの考え》に覆われ、個人的なバラバラな思想によって成り立っているのと同じように、文学もまた、
《文学史的流れ》という面からみれば、いわば《流れ》の崩壊した時代であると言えるんだねえ。
 
創作者個人が、バラバラな考え方をもって、バラバラな作品を書いている。
そして時々、マスコミに煽動(せんどう)されて、一部の作品が、ベストセラーになったりする。けれども、それは、《文学史的流れ》とは無関係な出来事にすぎないねえ。
これが現代文学界の現状だ。
 
だから、文学研究者は、だれも、現在の文学状況を、《○○主義文学の時代》というような分析ができないわけだねえ。
多くのを研究者が、
「価値観が多様化した現代は、多様な文学作品が出てきて、文学主義や流派というような捉え方ができる時代ではない」というように、逃げる者ばかりだ。
 
まあ、もともと、〇〇主義とか、〇〇派という名称は、研究者が勝手に付けた名前で、普遍性などはなかったよ。世間的に権威のある学者が使った場合などに、後続の者がそれを継承したので、一般的に使われるようになっただけのことだ。
 
日本文学史協会とでも言うようなものがあって、そこで、文学主義の名称を統一して、学習者の便宜を図ろう、というような殊勝(ゅしょ)な研究者たちはいなかったわけだ。
 
とは言っても、入試には出てくるので、代表的なものはしっかりと覚えておく必要があるねえ。特に、この時期の文学は、さまざまな主義、流派が出てくるので、ポイントを押さえておくことが大事だねえ。
 
多くの研究者が、現代の文学状況には、文学主義の名称はつけることができないというのなら、それじゃあ、というわけで、僕が名称を付けてやったよ。
 
《スマホ主義文学の時代》これだ。
 
スマホ主義文学は、文学主義崩壊の象徴だ。これが、日本文学史の結論であるわけだ。
 
だがら、第1次世界大戦から現代に至るまでの文学史の流れは、文学主義崩壊の歴史になるわけだね。
いったい、どのように崩壊していったのか、これから話をしていくよ。
 
日本にも来たことのあるフランスの美術史家ルネ・ユイグさんは、次のように言っているねえ。
 
「『精神の闘争』なき文明は、やがて衰退していきます」
 
これだ。現在の日本文学は、『精神の闘争』を避け続けてきた結果として出てきた衰退の文学だねぇ。
日本の文学界の衰退が叫ばれて久しいけれど、いや、もうあまりにも衰退の期間が長くなって、声さえ聞こえなくなったけれど、現状は、これ以上、落ちようがないという程のどん底の状態だよ。
 
《闇が深ければ深いほど暁は近い》
 
君が、長く続く文学の闇を打ち破って、《生きる力》になる文学を、《生きていること自体が楽しく》なる文学を、文学主義の本流になるようにするために、大きく活躍してくれることを、期待しているよ。