AⅢ中世(鎌倉・室町時代)(5)【室町時代a】『連歌(れんが)』

やれやれ、やっと朝晩、秋らしくなってきたねえ。朝夕の涼しい風に接すると、ほっとするよ。
夏の間、体の中で、外気の高い気温に対して負けてはいけないと、一生懸命になって身構えて対抗していた緊張感みたいなものが、ふっと消えてしまったような気がするねえ。
それが、秋の感覚というものだろうね。
 
年間通じて、この時期の2週間程だけ、僕の家の窓から夕日が見えるんだ。
僕の家は東向きに建っている。前の道路を隔てて、正面には背の高いマンションが建っている。周囲には同じようなマンションやビルがいたるところに建っている。だから、僕の家はノッポのコンクリートの建物の間に挟まれて、縮こまるようにして建っている。
 
秋のこの時期だけ、西に沈みかける太陽から、ビルやマンションのわずかなすき間を通り抜けて、正面のマンションのベランダのガラス窓に夕日が差してくるんだ。

その反射光が、僕の家の窓に結構な明るさで照り映(は)えるんだ。ただ、明るいといっても、間接光なので、直接の夕日とは違って、どこか夢の中のような、不思議なあやふやさを持った明るさなんだ。
それが僕は好きで、いつも夕日に窓が染まりかけると、ぼんやりと向かい側のマンションのガラス窓を見るんだ。
 
夕焼けの情景が、1枚1枚の間隔の空いたガラス窓に映って、まるで、不揃いでマス目が異常に大きいモザイク画のように見える。
それを見ていると、あの平家の落人の漁村を思い出すんだ。
 
漁村近くの海岸で見た、無辺際(むへんさい)の太平洋に、何ものにも動ずることなく、悠然と沈んでいく大きな夕日が、僕の頭の中にありありと浮かんでくる。
それが目の前のモザイク画と二重写しになり、時の永遠性のようなものが感じられて、幸せな気持ちになるんだ。
 
20分もすると、夕日はコンクリートの建物に遮られて、懐かしい映像は、すっかり消えてしまう。そしてすぐに薄暗くなる。その間、まるで夢でも見ていたような気持ちになれるんだよ。
僕にとっては、1年のうちの、わずかな期間の、わずかな楽しみだ。
 
秋には、何かが終わった感覚、失った感覚が底流となって、そこから、わびしさ、寂(さび)しさ、悲しさ、むなしさ、はかなさ、のようなものが、しみじみと感じられるような気がするね。

古典においては、それらをマイナスに感じるのではなくして、感興(かんきょう)があるものとしてプラスに捉(とら)えられているねえ。
 
1日のうちでも特にその思いを強くする時間帯を、清少納言さんの枕草子に、
 
『秋は夕暮れ(いとをかし)』
 
と書いているねえ。いつの時代の人々も、生活環境は変わったとしても、秋の夕暮れを愛(め)でる心は変わらないんだね。
 
ところで、秋の夕暮れを詠(うた)った歌の中で、最後の句が、
 ・・・・秋の夕暮れ
というように、同じに表現されたものがあるんだ。そのなかで優れた三首の歌を、
 
《三夕(さんせき)の和歌》
 
と言うんだよ。これまでに本稿でも2首を紹介しているよ。
最初に出てきたのは、紀貫之さんの土左日記の冒頭部分の説明で、並列の係助詞「も」の使い方のところだったね。
 
『見渡せば 花も紅葉(もみじ)も なかりけり
浦の苫屋(とまや)の 秋の夕暮れ』 
     (藤原定家)
この歌が出てきていただろう。まず、これが三首の中の1つだ。続いて、平安時代の終わりに活躍した旅する歌人で、『山家(さんか)集』の家集もある西行さんの歌だ。
 
『心なき 身にも哀れは 知られけ
鴫(しぎ)立つ沢の 秋の夕暮れ』
 
これがあったよねえ。最後の3つ目は、まだ紹介してなかったのでここで書いておくよ。
 
『さびしさは その色としも なかりけり
槙(まき)立つ山の 秋の夕暮れ』  
     (寂蓮〈じゃくれん〉)

「常緑樹の立派なヒノキが立ち並んでいる山を歩いていると、秋の寂しさを感じさせられるような、草木の枯れた色合いがあるわけではないけれど、やはり秋の夕暮れには、しみじみとした寂しさが感じられるものだ」
 
というくらいの意味だ。
これら《三夕の和歌》は、いずれも、『新古今和歌集』に載っているんだよ。
『新古今和歌集』といえば、後鳥羽院の命令で、藤原定家、藤原家隆(いえたか)、寂蓮(じゃくれん)さんが撰者となって作られたものだったねえ。鎌倉時代の初期に完成しているね。
 
さてと、この勅撰和歌集の流れだけれど、室町時代に入って、大きな変革の時期を迎えることになるから、ここで、もう一度振り返ってみておこう。
 
まずは平安時代の作品。
 
1.『古今集』
2.『後撰集』
3.『拾遺集』
4.『後拾遺集』
5.『金葉集』
6.『詞花集』
7.『千載集』
 
はじめの3つを《三代集》と言ったね。次に、鎌倉時代に入って、
8.『新古今集』
が出てきたね。これを加えて、《八代集》というんだったね。
新古今集以降の和歌の流れはどうなったのかというと、結論からいえば、分裂、分派をしていくことになるんだ。

権威を守ろうとすると、当然ながら反対勢力が出てきて、分裂していくのは、世の常だね。
特に、この時の分裂は、兄弟の中で起こったことなんだ。1度、争いになると、他人よりも、血のつながりの有る者同士の方が、激しくなるのもまた世の常だねえ。
 
分裂前の和歌の流れの中心人物は、かの有名な藤原俊成さんだ。後白河法皇の命令で撰者となり、平安時代最後の勅撰集、千載和歌集を作った人だ。そして、新たな文学理念《幽玄》を打ち立てたねえ。
この俊成さんの息子さんに、藤原定家さんがいたねえ。俊成さんと定家さんは、親子で力を合わせて、和歌の発展に仲良く頑張ったんだよね。

ところが、定家さんの息子に、藤原為氏(ためうじ)、為教(ためのり)、為相(ためすけ)さんがいたんだけれど、この3人が意地を張り合って、3つの分派を作ってしまったんだ。
それぞれ住んでいた地名を取って、
 
二条家
京極(きょうごく)家
冷泉(れいぜい)家
 
の三家に別れることになってしまったねえ。二条家は、本家を継ぐものだと言って保守的であったのに対して、京極、冷泉家は、進取的だった。結果的には、それぞれの子供の代まで長い間、紛争が続くことになったね。
 
そして、この三家のうちから、天皇や院が、どこの誰を勅撰和歌集の撰者に選ぶのかということが、勢力争いに大きくかかわってきたわけだ。なにしろ、当時、撰者に選ばれるということは、最高の名誉だったんだからねえ。
 
それで、勅撰和歌集として、文学的に優れたものを制作するという本来の目的から離れて、天皇や院の思惑や、三家の勢力争いから撰者が選ばることになり、結果的に、優れた勅撰集が出てこないことになったんだ。
 
それでも、数はたくさん作られていて、新古今和歌集以降、室町時代の最後の勅撰和歌集である『新続(しんしょく)古今和歌集』までに、全部で13冊もの勅撰和歌集ができているよ。
この13冊のことを、
 
《十三代集》
 
ということもあるから、頭のどこかに入れておこう。また、前の八代集を加えて、
 
《二十一代集》
 
ということもあるので、軽く覚えておこう。
十三代集の中で覚えておくのは、次の2つだけでいいよ。これくらいなんだよ、注目に値するような歌集は。
 
『玉葉(ぎょくよう)和歌集』(鎌倉時代)
伏見(ふしみ)院・撰者京極為兼(ためかね)

『風雅(ふうが)和歌集』(室町・南北朝時代)
花園院(撰者も兼ねる)
 
この2つの勅撰集は、京極家の流れから出たものだよ。それ以外のものは、ほとんど、保守的伝統的な二条家の流れを汲(く)んだものになっているね。
二条家のように、単に権威を重んじるような作風では、よい作品ができなかった。それに対して、清新な歌風の京極家から、後世に評価されるものが、少しだけれど、残ったといえるね。
 
だけど、いずれにしても、室町幕府が開かれ、南北朝の時代を過ぎると、和歌の人気は、衰退の一途(いっと)をたどったねえ。その大きな原因は、やはり、和歌を二条家、京極家、冷泉家という特権階級のものにしておこうとする権威主義が影響をしたことは間違いないねえ。

室町時代の1つの時流として、そういう権威的なものに対して、人々がそっぽを向いたということだね。
 
ここで、文化の流れについての大原則を確認しておくよ。
すでに、1つ目は本稿の始めのあたりで言ったよね。

人間が誕生して、素朴で未熟な状態から、青年期に入って力強く、ぐんぐんと成長し、やがて壮年期で成熟、完成させ、老年期に至って、爛熟し衰退していく。
 
という課程を通過することだったね。これは、勅撰和歌集の流れとしても合っているよね。古今集から出発して、三代集に成長し、八代集と成熟する。新古今和歌集で爛熟して、十三代集へと衰退をしていく。
ということだね。
 
続いて、もうひとつの大原則を話しておくよ。それは、

ある文化活動を一部の特権階級の人たちしか、真実の理解はできないんだ、として権威を持たせ、自分たちの立場を守ろうとし始めると、民衆はその文化活動から心が離れてしまって、やがて衰退していく。
 
ということだ。
まさに、二条家、京極家、冷泉家の人たちが、自分たちの権威を守ろうとして、結果的に衰退させてしまった和歌の動向は、この大原則を証明しているね。
 
室町時代というのは、戦いの多い中世という時代の中でも、最も戦闘の激しい時代であったと言えるよね。
 
今から約680年前(1333年)。
鎌倉幕府の倒幕を企(くわだ)てた後醍醐天皇を倒すために、幕府から命じられて京都に攻め込んだ足利尊氏(あしかがたかうじ)さんは、都に着くと後醍醐天皇側に寝返りを打ってしまうんだったねえ。
そして、幕府の出張所のような役割をしていた六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻め落として、京都から幕府の勢力を追い出してしまったね。
 
同じころ、群馬県の、御家人であったに新田義貞さんが倒幕の兵を起こして、鎌倉に攻め入ったんだね。そして、激戦の末、鎌倉幕府を倒したよね。

ここで、150年間続いた鎌倉幕府は、終わりを告げることになったねえ。
その後、足利尊氏さんは、京都の室町というところに、室町幕府を開設したよね。
それでも、いっこうに天下は治まらなかった。
 
朝廷は、南朝と北朝に分かれて、60年間も争いを繰り返すことになったね。
また、鎌倉には、関東地方を統治する行政府として《鎌倉府》というものを置いたね。やがて、この鎌倉府と室町幕府との間に何度もさまざまな争いが起きてしまった。
さらに、それぞれの内部紛争も重なって、世の中は騒然としたものになる。
 
そしてついに、応仁の乱(1467年)が起こり、国中が長期間にわたる戦国時代へと入っていったね。やがて、織田信長さんが出てきて、天下統一への激しい戦いの時代となった。

その結果、京の都も鎌倉も、建物などが壊滅状態となり、人の住めるような状況ではなくなってしまったんだねえ。
 
問題は、こんな時代状況の中で、文学という一見、ナヨナヨよとしたようなものが、存在する意義や余地があったのかということだね。

結論的には、当然ながら、文学どころではないというのが実際だよね。
だから、室町幕府が開かれてから江戸幕府開設(1603年)までの約270年間に出てきた文学作品を調べてみると、日本文学史上に大きな意味を持つようなものは、出てきていないのが現実だよ。
僕が、君に読むことを薦めたいような作品もないねえ。
 
ただ、この時期には、1つだけ文学史上において重要なことがあったんだ。
それは、文字を読み書きできる人が多くなったということなんだ。
 
朝廷や幕府の権威、権限が失墜していく中で、人々は、自分たちの財産や生活や生命は自分たちが、自分たちの地域で、団結して守っていかなければならない、という意識が非常に強くなってきた。

そうすると、さまざまな約束ごとや、取り決めなどを文字として残しておかなければならないことも多くなってくるよね。それで、必要に迫られて文字の読み書きを覚えることになったんだね。
政治形態の変動が、文学の享受者のすそ野を広がらせることにもなったわけだ。
 
これまでであれば文字とはあまり関係のなかった、土着の有力者たちも文字を書いたり読んだりすることができるようになっていったんだ。それが、文学にも興味を示すきっかけとなり、この時代に合った新しい文学形式が出現することになるんだよ。それが、
 
《連歌(れんが)》これだ。
 
連歌には2種類があるんだ。ひとつは短連歌。もう一つは長(ちょう)連歌または鎖(くさり)連歌だ。
短連歌というのは、短歌形式の上(かみ)の句の五七五と下(しも)の句の七七を別の人が詠んで、ひとつの短歌を完成させる方法なんだねえ。

この方法によって作られた和歌は、ずいぶん古くからあって、最も古い短連歌とされるのは、万葉集にすでに出てきているねえ。
 
長連歌というのは、短連歌の後に、さらに別の人が、次々と続けて作っていくものなんだよ。
その句数は、50句、百句、千句、万句、と驚くほど多いものもあるよ。
室町期に大流行したのは、長連歌の方だね。それで、単に、連歌といえば、長連歌のことを意味するようになったんだ。
 
ちょっと、横道にそれた話になるけれどさあ。長連歌の最初の句のことを、《発句(ほっく)》と呼ぶんだ。それから、最後の句のことを、《挙句(あげく)》というんだ。
ここから、「挙句の果ては」(けっきょく最後には)という言葉遣いが、出てきたりしているねえ。
 
和歌と違った、連歌の大きな特徴は、歌作が楽しみであり、遊びであり、社交であったということだよ。堅苦しさのない面白い歌会になったから、多くの人たちが参加できたんだね。
 
それでは、連歌の面白さとは一体何だったのか?例を挙げて考えてみよう。
まずAさんが発句として、次のような上の句を作る。
 
(Aさん)ああ眠い 秋の夜長の 文学史
 
さあ、これを受けて次のBさんは、何らかの関連付けを考えて、下の句を作ることになるね。
この時のポイントになるのが、前の句に対してどのような観点から関連させて自分の句を作るのか、ということだね。
 
この関連のさせ方は、できるだけ意外に、おもしろく、皆が驚き、感心するような観点を考え出すことが最大のポイントなんだ。ここに連歌の面白さの大半があるといってもいいんだよ。
それで、Bさんは、「ぶんがくし」の「ぶん」という音を、関連付けのポイントにした。
 
(Bさん)ぶんぶんカナブン 飛んでも起きぬ
 
さらにこれを受けて次のCさんは、「飛んでも起きぬ」を、「動揺しない」という意味に関連付けて、
 
(Cさん)台風の 目玉がそこに 来ているぞ
 
と次のDさんに託す。DさんはCさんの意向を汲んで、
 
(Dさん)怖がらないで われも同じ風邪(かぜ)
 
などというように、さらに次々と続けて連歌を作っていくんだね。そして、多くの参加者が、お互いに批評しながら楽しむというものだ。
 
連歌は、身分の高い人から庶民にいたるまで、広い層の多くの人たちが享受する大衆文芸へと発展していったんだよ。その結果、落書まで、連歌で書かれるようになったりしたんだ。
そして、連歌師といって、連歌会の司会をしたり、連歌の作り方を教えたりする先生まで出できたね。
 
また、残っている記録によると、戦乱の世の中で、周辺地域の有力者たちが集まって、連歌の会を開いているところがあるんだよ。その場は、連歌を楽しむと同時に、周辺地域の中小集団の武士たちが集まって、自分たちの地域は自分たちで守り治めようと団結する場にもなっていたんだよ。

これを国人一揆(こくじんいっき)と言ったね。一揆というのは、この場合は武装蜂起という意味ではなくして、一致団結ということだったね。
このくらい、連歌は人々の生活のなかに定着していったんだ。
 
やがて、連歌はあまりにも流行しすぎて、文芸としての評価が、できないくらいレベルは低くなっていったんだ。そこで、連歌の文学的価値を高めることに尽力(じんりょく)した人が、出てきたねえ。それが、
 
《二条良基(よしもと)》さん。この人だ。
 
当時、多くの連歌がいたるところで作られていたにもかかわらず、歌集としては1冊もまとめられていなかったんだ。だから、模範とすべきものがなかったので、内容を高めることが難しかったわけだ。
そこで、二条良基さんは、模範となるべき連歌撰集を制作して、愛好者のレベルアップに役立てたわけだね。その歌集名が、
 
『菟玖波(つくば)集』これだ。
 
『菟玖波集』は、わが国初の連歌撰集となったね。
さらに、二条良基さんは、連歌の理論書も出したんだよ。
 
『筑波(つくば)問答』これだ。
 
同じ「つくば」でも漢字が違うので気をつけてね。
こうして、自然発生的にバラバラに出来ていた連歌は、文学的にしっかりした規範の下に、さらに発展することになったね。二条良基さんの功績は実に大きく、連歌道の祖として皆から尊敬されたんだよ。
 
二条良基さんは、連歌は確かに遊戯だけれど、文学性においては和歌と変わらない、という信念で連歌道を発展させなんだね。その思想を受け継いでさらに発展させた連歌師が出できたよ。
 
《新敬(しんけい)》さん。この人だ。新敬さんは、
 
『ささめごと』(連歌論)
 
という文学論を出して、連歌をさらに文学的に深めていったんだ。
やがて、連歌も成熟し、量、質ともに最盛期を迎えることになるね。それに大きく寄与した人が、
 
《宋祗(そうぎ)》さん。この人だ。
 
宋祗さんは、新敬さんに連歌を学び、文学的完成をさせるとともに、上流階級への浸透にも力を尽くしたね。
時の関白の命令を受けて、作ったのが、
 
『新撰(しんせん)菟玖波集』これだ。
 
さらに、弟子とともに優れた連歌集を残しているね。それが、
 
『水無瀬三吟百韻(みなせさんぎんひゃくいん)』この作品だ。
 
長い題名で、覚えにくいかもしれないけれど、連歌の模範とされる作品で、入試にも時々顔を出すので、頭のどこかに残しておこうね。
やがて連歌は、単なる遊びから出発したけれど、文学的にも優れた新しいジャンルとして確立していったんだよ。
 
ところがここで、面白いことが起こるんだ。

それは、あれほど人気のあった連歌から人々の心が離れていくんだよ。
理由は、単純なことで、連歌の文学レベルが高くなったからなんだ。皮肉だよね。二条良基さんや、新敬さん、宗祇さん、などが出てきて、文学的評価向上のための規則や形式を作ったり、連歌論までも完成させたんだけれどねえ。それが逆効果になったんだね。
 
連歌の歴史もまた、文化の流れの大原則に従った過程を通ることになったんだよ。やがて連歌は衰退してしまうことになるんだ。
 
だけど、庶民のエネルギーというのはすごいよ。堅苦しく、高尚(こうしょう)になった連歌を見捨てて、また、気軽に自分たちの心を表現できる文芸を見つけていくんだね。
それが、
 
《俳諧連歌》これだ。
 
《俳諧》という言葉は、俳句と同じような意味に使われたりするけれど、言葉そのものの意味は、冗談とか面白(おもしろ)い、ということなんだ。だから、俳諧連歌というのは《オモロイ連歌》という意味だね。

堅苦しい規則や形式に縛られずに、自由に、面白く、おかしく連歌を作ろうというわけだ。
楽しく、朗らかで、明るいところには、人は寄ってくるものだねえ。
今度は、連歌に代わって、俳諧連歌が人々の人気の中心になったよ。
この俳諧連歌を育て、広く普及した人が、室町時代の終わりに出てきた、
 
《荒木田守武(あらきだもりたけ)》さんと、
 
《山崎宗鑑(やまざきそうかん)》さん。この人たちだ。
 
2人は、《俳諧の祖》とまで言われて、尊敬されていたねえ。山崎宗鑑さんの編集した歌集には、
 
『新撰犬菟玖波(しんせんいぬつくば)集』
 
という有名な歌集があるので、これも、頭のどこかに残しておこう。

俳諧連歌の流れは、次の時代の近世文学にまで通って行き、新たな文学ジャンルとして確立していくことになるねえ。

ただ、この時期の俳諧連歌は、自由奔放に書かれたものだけに、内容的には、
「ナンジャ、コリャア!」と言うようなものも多いけれどね。

さてと、これで連歌についての説明は終わりだ。

ここで、余談をひとつ。
 
君の持っている日本文学史の教科書を見てごらん。連歌の説明は分量が少ないだろう。それはどこの教科書メーカーも同じなのだよ。連歌を専門的に研究している学者が少ないんだよね。それに合わせるように、入試にも時々しか出ない。
だから、出題されたら君はバッチリだ。他の人はバッサリ?だ。よかったね。
 
それはそれとして、入試関係で重要視されていないから、文学史上においても大したことはない、と考えると、大間違いなんだよ。
実は、連歌という文学の流れは、日本文学史上において、革命的な意義を持った大きな出来事だったんだ。
 
この時までの文学史の中で、連歌ほど多くの人々が、特に身分も教養もそれほど高くない人が、文学作品制作の主体者となったことはなかったんだよ。
 
平家物語の語りである平曲によって、多くの人が耳から文芸作品の素晴らしさを楽しむことができたよね。そして連歌によって、今度は自分が文学作品を創作する側に回り、創作の喜びを体験することができたわけだねえ。

文学という、庶民の日常生活とはかけ離れたところに存在するように思えたものを、多くの人々が手の中に入れることができたわけだ。
連歌が果たした、「文学の大衆化」は、日本文学史上において特筆すべきことだったんだよ。