AⅡ中古(平安時代)(6)【第3の100年a】『枕草子・源氏物語』

『枕草子』と『源氏物語』については、平安時代の最高峰の2つの文学だねぇ。
あまりにも有名だから、みんな勉強するので、逆に、あまり入試に出てこない傾向があるようだね。
入試に出ると、多くの受験生が正解してしまう。そうかといって、高校の教科書にないような細部に渡った問題を作ると、大学入試という一般通念から外れたといって、社会問題になる可能性もある。

そうすると、結局、文学史的な問題としては、あまり入試には出なくなってくるよね。
だから本稿でも、安全弁程度の内容にとどめておくよ。もし入試に出たら解答することができるレベルの記述にしておくよ。
とは言え、ついつい、あれもこれも言いそうな気がするけれど、極力、簡潔にしまーす。
 
さあ、それじゃあまず、
 
『枕草子(まくらのそうし)』だ。

もちろん原本はないけれど、当時としてもベストセラーだっただけに、写本の系統も多いね。
まず、題名の意味だけれどさあ。『枕』は、いつも身近に置いて気軽に使えるもの、という意味だ。だから、力んで何かすごい文学作品を書いてやろうと思って書いたのではなくして、日常のなんでもないことを自由に書いたものだ、ということだね。
 
作者は、
 
《清少納言(せいしょうなごん)》さん。この人だ。

ちょっと思いだしてちょうだい。
わが国2番目の勅撰和歌集、『後撰集』の撰者に《梨壺の5人》という人がいたね。そのうちの3人は、
 
《清原元輔(きよはらもとすけ)》さん。
《源順(みなもとのしたがう)》さん。
《坂上望城(さかのうえのもち)》さん。
 
だったよね。この中の清原元輔さんが、清少納言のお父さんなんだ。だから、まあ、言えば、文学的に恵まれた家庭環境の中で育った女性だといえるね。
やはり、男尊女卑だからさあ、清少納言さんも、本人の名前は不明だ。『清』は清原家の清からとられている。少納言は、もちろん男性の役職だから、親族で少納言の官職を受けていた人がいたのだろう。

だから、清少納言は、「清原さんところの、少納言さんの近くにいる娘さん」という呼び方だ。
これは、源氏物語の作者である、紫式部さんや後に出てくる和泉式部さんについても同じことだよ。
こういうう呼び名を女房名と言うんだ。
 
内容は、一条天皇の正妻である中宮定子(ちゅうぐうていし)さんに仕えた時のことを書いているよ。中宮定子さんといえば、当時、政治の中心人物だった関白道隆(かんぱくみちたか)さんの娘さんだ。

この時の状況を考えると、中宮定子さんは朝廷の中で、夫は天皇、父は関白という、絶大な権力によって支えられ、守られる立場にあったといえるね。その人に、清少納言さんは仕えたわけだ。
だから、国の中枢部分で、天皇にも身近に接することができ、朝廷での様々な出来事を見聞きして書くことができたわけだね。
 
内容は、形式上3つに分類されているね。
 
1、『物尽(ものづ)くし』の段。『類聚(るいじゅう)』の段ともいう。類聚というのは、同じようなものを集めて編集することだ。
2、『逸話』の段。『日記的』な段ともいう。
3、『自然描写』の段。『随想』の段ともいう。
 
まず、物尽くしだけれど次のような箇所があるよ。
 
ありがたきもの。舅(しゅうと)ほめらるる聟(むこ)。また、姑(しゅうとめ)にほめらるる嫁(よめ)君。ものをよく抜くる銀(しろがね)の毛抜。
 
「ありがたき」というのは、あることがまれなこと、ということで、めったにないこと、ということだ。
当時の結婚は、始めのうちは、夫が妻の家に通ったのだよ。普通は、父親は、自分の娘の相手の男性に対して、文句を言って、よく思わないのが当たり前だよね。

しばらくすると、今度は、妻が夫の家に引っ越してくる。そうすると息子の母親は、相手の女性に対して、よくは言わないよね。
結婚相手の家では、同性同士というのは、とかく、いがみ合いがちなのに、仲の良いのはまれだということだね。
 
次のありがたきもの、だけれど、平安時代に、銀の毛抜きがあったなんて驚きだね。銀は高級で見た目はきれいだけれど、金属としては柔らかいので、すぐに毛が抜けにくくなってくるよね。
当時の女性も、今と同じだ。眉毛を全部抜いて、墨で書いていたんだ。抜いても生えてくるから、毛抜きは必需品だったんだね。
無理に、生えているものを抜かなくったっていいのじゃないの?
 
また、次のような物尽くし、もあるよ。
 
むつかしげなるもの。猫の耳のうち。鼠(ねずみ)の子のいまだ毛も生(お)ひぬを巣のうちより数多(あまた)まろばし出(い)でたる。
 
「むつかしげなるもの」というのは、不快なもの、むさくるしいもの、という意味だ。
猫の耳の内側、なんて、確かにむさくるしいね。周囲からいっぱい毛が生えていて、奥の方は耳くそがこびりついて汚れている。おそらく、清少納言さんは猫の耳を引っ張って、じっくりと中をのぞいたんだろうね。
面白いなあ。この感性は、現代の女子高生の新鮮な見方、感じ方と全く変わりがないねえ。

猫が眠っているとき、耳の中の毛にちょっと指を触れさせると、ごみが入ってきたのかと思って、目を開けずに無意識に、耳をブルブルと振るわせるね。
耳の中の毛を1、2本、指先でしっかりとつまんで、一気に引き抜いてやると、「ギャオー!」とすさまじい声を出して跳び起き、手をひっかき指にかみつくよ。血を見ることになるから絶対にこんなことはしないように。
 
また、毛の生えないネズミの赤ちゃんが、たくさん巣から転がり出てくる様子なんて、君は見たことないだろうけれど、まさに、「むつかしげなるもの」だよ。
 
よく流行(はや)った歌謡曲に次のようなものがあったね。
 
こがらし 想い出 グレーのコート 
あきらめ 水色 つめたい夜明け (以下略) (山口洋子作詞)
 
これなど、まさに、物尽くしの流れを汲む作詩だね。清少納言さんは、1000年も前(1001年)にこんな新感覚の文章を書いたんだよね。
 
次に、逸話の内容の部分だけれど、これは、もう、あまりにも有名すぎるものがあるよね。次のところだね。
 
雪いと高く降りたるを、例ならず御格子(みこうし)まゐらせて、炭櫃(すびつ)に火起して、物語などして集り侍(さぶら)ふに、
「少納言よ、香爐峯(こうろほう)の雪はいかならん」と仰せられければ、御格子あげさせて、御簾(みす)高く卷き上げたれば、笑はせたまふ。人々も「皆さる事は知り、歌などにさへうたへど、思ひこそよらざりつれ。なほこの宮の人には、さるべきなめり」といふ。
 
中宮定子さんと清少納言さんの、美しくて感動的な、また暖かい主従の関係がうかがえるね。清少納言さんは、中宮定子さんを普通の主人を尊敬するレベルではなく、まるで、信仰の対象者のように身も心も捧げていたんだ。
そして中宮定子さんも、文学的才能に優れ、自分の心をよく知ってくれている清少納言さんをこよなく愛していたんだね。

おそらく、中宮定子さんと清少納言さんの人間関係をテーマにすれば、1本の感動的なドラマができることは間違いないね。
 
清少納言さんは、信念の強い人だったことは間違いないだろうけれど、当然、謙虚(けんきょ)なところもあったね。それが、
「なほこの宮の人には、さるべきなめり」
というところに現れているなあ。
「やはり、清少納言さんあなたは、この中宮の女房としては、非常にふさわしい資質を持った人のようですね」
と自分を誉(ほ)めるのに、他の女房たちの言葉を借りて言っているね。
ただまあ、ここにこそ、鼻持ちならない強い自尊心が現れている、という人もいるけどね。
 
次は自然描写だ。これは、超、超有名だけれどやっぱり書いておくよ。枕草子の冒頭部分だ。
 
春は曙(あけぼの)。やうやう白くなりゆく山際(やまぎわ)すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
夏は夜。月の頃はさらなり、闇もなほ螢の多く飛びちがひたる。また、ただ、一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。
 
この始まりの部分を読んだだけで、枕草子という作品が、これまで出てきていた文学作品とは全く違うものであることがわかるね。
随筆文学という新しいジャンルを切り開き、見事に完成させたのが枕草子だね。
 
随筆というのは、日記の日付をなくしたようなものだ、ということになっている。入試はこれで結構。
だけど、枕草子の冒頭部分を読めば、そんな中途半端なものではないのがわかるよね。明らかに、日記文学とは全く別の、新しい文学ジャンルを創造しようとしたのが分かるよね。

だから、清少納言さんは、当時の文学界の革命児だ。
そして、文体は未だかつてなかった新鮮なものだ。文章の革命家でもあったのだ。
 
さらに、新たな文学理念までも創造したねえ。
それは、「をかし」の文学理念だ。後に出てくる源氏物語は、「あはれ」の文学といわれ、よく対比されて述べられるね。
「をかし」も「あはれ」も、どちらも心が引かれて感動するという意味は同じだ。違うのは、感動の仕方だ。

「をかし」は知性的、理知的、客観的、観察的な感動で、物事に心ひかれるが、のめり込むようなことはなく、ある程度、自分と物事の間に間隔をおいて、趣深さを感じるというものだ。
それに対して、
「あはれ」は、主観的、感情的、共感的な感動で、対象に対して自分を同化させるようにのめり込んでいく状態だ。
 
簡単に言えば、「あはれ」は、演歌を聴いて感動して涙を流して、楽しむようなものだな。
それに対して「をかし」は、クラシックを聴いて、涙を流して感動などしないけれど、快い気持ちになって楽しめるようなものだ。
 
枕草子を読み進めていると、僕は、ふと錯覚に陥るね。まるで自分が、1000年前の平安時代の朝廷の中で生活をしているような感覚になってくるんだ。
これは、清少納言さんの驚異的な文章力と文学力によって出てくる感化力だね。

この当時はもちろん、書く言葉と、話す言葉は別けられていた。ところが、枕草子は確かに書くための文体にはなっているけれど、ここが大事なところだよ、読んでいるうちに、まるで清少納言さんが僕に、宮中でのさまざまな出来事を話して聞かせてくれているような実感がわいてくるんだ。
すごいねえ。この当時に、こんな文章力があるなんて、まさに文学界の大革命家以外の何者でもないよ。
 
以上で枕草子は終わり。

次に久しぶりに、勅撰和歌集が編さんされたよ。歌集の名前は、

『拾遺(しゅうい)和歌集』これだ。

撰者は、花山(かざん)天皇のようだ。まだ明確にはなっていないけど。
集められている歌は、題名の通り、古今集や後撰集に載らなかった歌を「拾って」残したものだ。古今集や後撰集と同じような流れを持った歌集になっているよ。
 
ただ、古今集のように初々しい新鮮さはなくて、全体的に精彩のない歌集になっているね。
僕もずいぶん以前に、仕事上、一応は全部の歌に目を通しておかなければいけないと思って、読み始めたけれど、半分まで行かないうちに、面白くなくなって読むのをやめたよ。
 
ただ、ここで覚えておくことは次のことだ。

『古今集、後撰集、拾遺集』のことを一般的に『三代集』という。

「代」の字を「大」と間違えないようにね。
 
ところで、当時の文学界の状況を考えると、朝廷人にとっては、素晴らしい出来栄えの枕草子は出てくるし、すぐに源氏物語も出てきて、それらの話題で持ちきりだった。散文学の最高峰の作品に接すると、拾遺集の出来栄えがよくないことと共に、和歌に対する情熱が薄れていったことは間違いないようだね。

拾遺集の後、次の勅撰和歌集が出るのは、約90年も後のことになるのを考えても、枕草子、源氏物語が朝廷人の心にどれほどのショックを与えたのかが分かるような気がするね。
 
さて、平安時代も200年を超えてくると、文化的に成熟し、爛熟期になってゆくねえ。
爛熟期に入ると、人間というのは不思議なもので、男女の関係に興味がいくようだ。それも、仲がうまくいかない状態に興味を多く示すようになってくるようだね。
文学作品についてもその傾向が強く表れてくる。そこで出てきたのが、
 
『和泉式部(いずみしきぶ)日記』これだ。作者は、

《藤原道綱の母》この人だ。
 
和泉式部日記は、わが国初の女流日記である蜻蛉日記のような、「女の一生」的な長いものではないね。わずかは10日ばかりの期間の日記だよ。
内容は次のようなものだね。
 
男性に対して気の多い式部は、夫があるにもかかわらず、別の男性である親王に愛された。やがてその親王もなくなってしまう。はかなく寂しい気持ちになっていた時、また、別の親王が現れてくる。そして恋愛が始まる。しかし、また、間もなくその親王もなくなってしまう。
 
というものだね。作者は和泉式部と、もちろん言われているけれど、筆者のことを「女」と第3人称で表現しているねえ。だから、「和泉式部物語」なんて言われたこともあるよ。
どちらにしても、自伝風の物語のような日記なんだ。男女の仲の微妙な機微を、風情豊かに描いているね。
 
ここで、こういう男女の普通でない関係に、当時の人々が、深く興味を示すような時代になったということはしっかり押さえておこう。
 
話は変わるけど、平安時代も今も同じだね。最近のテレビ番組では、有名人が離婚すると、大騒ぎをするねぇ。ひどい時には、どこの放送局も長時間をその報道に費やしている時があるね。
余りにもしつこいので、見ている方が嫌気がさすことが多いよ。
 
世界に目を転じれば、中東のシリアでは内戦状態となり、昨日も、1度の戦闘で、220人もの人々が殺されたと報道されていた。亡くなった多くの人は、社会的に弱い立場である子供や女性だという。
 
その報道は、義理程度にして、離婚だと大騒ぎする、日本の平和ボケしたテレビを見ながら、
「世界にはこんな非人道的な戦闘が行われているというのに、なにが離婚だ、なにが慰謝料だ、日本のテレビ局というのは、世界的なレベルから見れば、50年以上遅れた、低レベルな放送局なのは確かだ」
と腹立たしく思っていたよ。
 
そんな時、離婚報道のテレビ画面を注視していた妻と娘は、
「ああ、結局、離婚になったね。どうもあの顔は、怪しいと思ったわ。やはり浮気をしていたんだねえ」
とお菓子を食べながら、興味深そうにしゃべっている。
僕は2人の後ろ姿を見ながら、自分の心の中にあった、張りつめていた糸がプツンと切れたように感じたね。
やれやれ、やはり、平安時代も今の時代も和泉式部日記は大事なんだねぇ。
 
というところで、次はいよいよ、

『源氏物語』これだ。作者は、言わずと知れた、
 
《紫式部》さん。この人だ。

源氏物語は、これまでの文学の成果をすべて取り入れて、最高峰の作品に仕上げたといってよいねえ。
竹取物語のしっかりとした構成力、伊勢物語の叙情的な和歌を作品の中に取り入れる方法、土佐日記の優れた自然描写、蜻蛉日記の現代小説にも通じるような心理描写、これらの優れた要素を見事に調和させて完成させているねえ。
 
しかも、非常に雄大な時代構成とともに、膨大な登場人物が出てくるね。全体で約54帖からなる一大長編小説だ。最初の桐壺(きりつぼ)の巻から終わりの宇治十帖までを見れば、母親、主人公、子供と、3代にわたって記述されている。その中に天皇を中心にした政治状況や時代状況を違和感なく溶け込ませているね。
 
それが、歴史小説のような、歴史の流れを中心にして、それを支えるためにさまざまな出来事を配列するというのではなくして、一つひとつの出来事が中心テーマでありながら、その背景にしっかりとした歴史の流れが染み込まされているんだね。見事としか言いようがないよ。
また、非常に多くの登場人物が出てくるけれど、一人ひとりの個性が豊かに描き分けられているのには、脱帽するしかないねえ。
 
なによりも、どの巻から読んだとしても、たちまち読者を物語りの世界に引きずり込み、目を離させないようにする文章力、表現力は紫式部さんの天才に近い文学才能をひしひしと感じさせるね。
 
源氏物語はあまりにも優れていたので、当時、多くの宮廷女性に読まれていたことは当然として、特に、女性の書いた小説などをあまり読まない男性も、よく読んでいたことがうかがわれるね。
日本が世界に誇れる文学作品だ。実際に外国語に翻訳もされているよ。
こんな作品を、1000年も前(1010年)の1女性が書いたなんて、素晴らしいことだね。まさに、ノーベル文学賞ものだよね。
 
さあ、それじゃあ、始めの部分だけでも読んでおこうかね。
 
『いづれの御時(おおんとき)にか、女御(にょうご)、更衣(こうい)あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際(きわ)にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。
はじめより「我は」と思ひ上がりたまへる御方(おんかた)がた、めざましき者におとしめ嫉(そね)みたまふ。
同じほど、それより下臈(げろう)の更衣たちは、ましてやすからず。朝夕(あさゆう)の宮仕(みやづか)へにつけても、人の心をのみ動かし、恨(うら)みを負(お)ふ積もりにやありけむ、いと篤(あつ)しくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、いよいよ、「あかずあはれなるもの」に思(おぼ)ほして、人のそしりをもえ憚(はばか)らせたまはず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり』
 
(口語訳)
「どの天皇の頃だったでしょうか、天皇の周囲には、正妻の皇后様以外に、身分の高い女御や少し低い更衣など、たくさんの女性が仕えていました。
その中で、位が高く優れた身分ではないけれど、大変、天皇の寵愛を受ける桐壺の更衣という女性がいらっしゃいました。

女御や更衣の中には、宮中にお仕えに来たときから、『私は家柄も容姿も優れているので、天皇の寵愛を受けられる』と自信を持っていた方々は、桐壺の更衣を気にくわない者だと軽蔑し、憎みなさる。
また、桐壺の更衣と同じくらいの身分の出身の者やそれ以下の更衣たちは、天皇が独り占めされるのではないかと、気がかりで仕方がないのです。

そういう訳で、桐壺の更衣は、朝夕の宮仕えをするにつけても、他の女御や更衣の憎しみを受け、それが重なったからでしょうか、ご病気が重くなってゆき、心細い様子で、実家に下がっていることが多くなりました。

それを天皇はますます、『残念なことだ、不憫でかわいそうな者』と思われ、他の人からその愛し方が、度を超していると批判されても全く気にされず、世間の人々のうわさになってしまうほどの、桐壺の更衣への愛情の注ぎ方でした」
 
というくらいの意味だ。
冒頭の「いづれの御時(おおんとき)にか」という一文で、この作品がフィクションであるということ明確にしているね。「昔々あるところに」と同じようなものだね。
それに続く内容は、読者をぐいぐいと物語の世界の中へ引きずり込む力を持っているね。特に女性の読者には、自分が桐壺の更衣と同化され、ロマンの世界に浸れるような感じだね。実にうまい。
この桐壺の更衣が、主人公、光源氏の母親だ。ここから物語りが始まるわけだね。
 
さて、平安時代の、というよりも日本の文学界の最高峰に到達した2人の文学者である、清少納言さんと紫式部さんは、面白い関係にあるねえ。
 
2人が使えた中宮の定子(ていし)さんと彰子(しょうし)さんは、同じ一条天皇の正妻であったということだよ。まあ、いくらなんでも中宮が2人いるのはまずいので、時期的に早く天皇のもとに入内してきた定子さんを皇后にして、後から入内した彰子さんを中宮としたんだね。
1人の天皇に2人の后がいるという異常事態を形式的に解消したわけだ。
 
定子さんの父親は、藤原道隆さんだ。その弟が、彰子さんの父親の藤原道長さんだ。だから、ここには、兄弟の権勢争いもからんでいるよね。
当時は、藤原貴族の人たちは、とにかく娘を天皇の后として入内させ、男の子を産ませて、皇位を継承することを最大の願いとしていたんだ。そして、天皇の外戚となって、権力を握ることが最高の人生だったわけだねえ。
 
それで、中宮となって入内させる娘には、優れた教養を持った女性たちを付き添いとして選んだんだねえ。
定子さんには、清少納言さん。
彰子さんには紫式部さん、和泉式部さん。
などという文芸にも優れた人物を集めたわけだ。そこで、后を中心に、文学サロンのような場が作られたわけだ。そこから出てくる文学作品もまた、后としてどちらが優れているかを争う材料にもなったわけだ。
 
実際に清少納言さんと紫式部さんが会って、こんな会話を交わした、というような記録はないねえ。だけど年代的には、一条天皇に后として仕えていた定子さんと彰子さんが、数年間は重なっていることは間違いないよ。
 
最初に出てきたのは、定子さんの女房、清少納言さんだ。枕草子を書き上げて、文学界革命者として多くの人たちから称賛されたね。どれほどか、定子さんも、鼻が高かっただろう。
負けていられないと対抗して彰子さんの女房、和泉式部さんが、「和泉式部日記」を出した。ちょうど、彰子さんの女房として彼女が出仕し始めたころのことだ。内容は衝撃的なもので、近代の私小説のようなものだが、残念、枕草子には太刀打ちできなかったね。
 
そこで、最後の切り札、紫式部さんの源氏物語を登場させたというわけだ。これは、大ヒットしたねえ。枕草子と同等、またはそれ以上の評価を得ることができたんだ。
これで彰子さんも、
「どうだ、定子め、まいったか」
とガッツポーズをしたんだなぁ。
 
紫式部さんについては、

『紫式部日記』を読むと、興味深いことがよくわかるよ。

短い期間の日記で、速めに読めば、1時間ほどで読み終えることができるくらいの分量だから、また、暇があったら読んだら面白いよ。

内容的には、前半は、彰子さんが懐妊され、出産する前後のことが詳しく述べられているね。どうしてこんなに詳しく書いたのかといえば、当然、中宮に男の子が生まれてくれば、皇位継承が可能になるわけだから、関係者全員が大喜びするんだね。だから非常に大切なんだ。
 
実際に、彰子さんに、第二皇子が生まれて、父親の道長が大変な喜びようだったという記載もある。
例えば、次のようなところがあるよ。
 
『「あはれ、この宮の御しとに濡(ぬ)るるは、うれしきわざかな。この濡れたるあぶるこそ思ふやうなるここちすれ」と、よろこばせたまふ』
 
道長さんは、娘の彰子さんが生んだお孫さんを抱いているとき、おしっこをされて服が濡れてしまった。お孫さんに汚されることも、うれしいし、ぬれた服を火にあぶって乾かしていると、望が叶ったような気がすると言って喜んでいる様子だ。

それもそうだよね。お孫さんが天皇になれば、自分は、天皇のおじいちゃんになれるんだからさあ。おしっこさえ、うれしくなるんだなあ。
 
ところで、彰子さんが産んだ子がどうして第二皇子なのかといえば、定子さんが、第一皇子を生んでいるからだ。
しかし、実際に天皇になったのは彰子さんの生んだ第二皇子が、後一条天皇となった。
結局、道隆さんと道長さんの兄弟の権力争いは、弟の道長、娘彰子さんに軍配が上がったというわけだ。
 
紫式部日記の中には、よく、引用される有名な箇所もあるよ。
例えば、紫式部さんは和文、漢文という文学に限らず、音楽や楽器にも非常に優れた才能を持っていたようだ。父親がいつも、嘆いて次のように言ったと書いている。
 
『口惜(くちお)しう、男子(おのこご)にてもたらぬこそ幸(さいわい)なかりけれ』
 
「残念なことだ。この子を男の子として授かることができなかったことは、幸運がなかったとしか言いようがない」
こんなことを父親は言っていたらしい。まあ、そのくらい才能のあった人だったんだねえ。
 
また、次のような興味深い人物評もあるよ。まず、同じ中宮彰子さんに使える和泉式部さんについての人物評だ。
 
『和泉式部といふ人こそ、面白う書き交(かわ)しける。されど、和泉はけしからぬ方こそあれ。うちとけて文走り書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見え侍(はべ)るめり』
 
「和泉式部さんは、私と興味深い趣のある手紙をやりとりした人です。けれど、彼女は、夫のある身でありながら他の男性と心を通わすなど、よくない行いもある人です。それでも、気軽に手紙を走り書きしたようなときに、文章的な才能があるのが分かる人で、ちょっとした言葉にも趣や気品が感じられる気がします」
 
というように、和泉式部さんについては好意的に書いているが、次に、敵対心のある清少納言さんについては次のように書いているよ。
 
『清少納言こそ、したり顏にいみじう侍り(はべり)ける人。さばかり賢(さか)しだち、眞字(まな)書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいとたらぬこと多かり。
かく人に異ならんと思ひ好める人は、必ず見おとりし、行く末、うたてのみ侍れば、艶(えん)になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすゝみ、をかしきことも見過(みす)ぐさぬ程に、おのづからさるまじく、あだなる様にもなるに侍るべし。
そのあだになりぬる人のはて、いかでかはよく侍らん』
 
「清少納言さんは、得意顔をして大変にキザで、不愉快な人です。あれほど賢こがって、漢字を書き散らしてはいるけれども、よく読んでみれば、まだ漢学には知識が不十分なところがたくさんあります。
こんなに、他の人とは違った特色を発揮しようとしたがる人は、必ず見劣りがして、将来は悪くなってゆくばかりです。
無理に風流人ぶっている人は、ひどく殺風景で何の趣もないときでも、しんみりと感動しているような様子になり、趣あることを見逃さないようにするうちに、自然に、見当はずれの無意味な行動になっていくでしょう。
その軽薄になってしまった人の身上は、最後は、どうしてよいことがありましょう」
 
このように書いているね。実に面白いね。鋭い指摘ではあるけれどね。
どちらにしても、清少納言さんと紫式部さんは、日本文学界の頂点の2人であることに間違いはないよ。
 
さあ、それじゃこれで、枕草子、源氏物語については一応、終わりにしておこう。
 
ここで、歌謡のジャンルで有名なものが出てきたよ。歌謡は、古い時代では、和歌と分離できなかったけれど、勅撰和歌集ができるにつれ、両者は別個に発展していったんだ。
歌謡というのは、簡単に言えば流行歌や詩吟のことだ。宴会の時なんかに貴族が節を付けたり、琵琶などの伴奏楽器に合わして大きな声を出して歌ったんだ。こういうのを朗詠(ろうえい)というんだ。
まさに、現在のカラオケだ。
そんな朗詠の歌詞を集めたものが、

『和漢朗詠集』これだ。制作の中心人物は、
 
《藤原公任(きんとう)》さん。この人だ。

藤原公任さんというのは、『三代集』(古今集、後撰集、拾遺集)の中の『拾遺(しゅうい)和歌集』の撰者ではないかとも言われている人なんだ。前述のところでは、撰者は、花山(かざん)天皇のようだ、と書いていたけどね。

どちらにしても藤原公任さんという人は、大変、文学的な才能のあった方だね。
内容は、漢詩文が約600句、和歌が約200首ほど入ってるよ。だから、歌謡のジャンルとして大作であるといえるね。実際に、当時多くの人々に朗詠されたものが、たくさん載っているようだ。
 
ところで、平安時代も後半になってくると少しずつ、世の中が創造的な勢いをなくし、たまった水が濁り、腐っていくような状況を見せてくるんだね。これは、前にも言ったけれど、流れ行く世の中の常の姿といえるだろうね。
 
そういう世相の中で、新しく出てきた文学のジャンルがあるよ。
それは歴史物語といわれるジャンルなんだ。世の中があまりうまくいかなくなり、もう一度、過去の華やかな頃を歴史物語りとして、再現し懐かしく振り返ろうとしたんだね。
「物語」と名前をつけているように、単なる歴史の記述ではなくして、それに新しい見方を取り入れて、物語風にしたものだ。だから純粋な歴史書とは違って、興味深く読めるものになっているね。
最初に出て来た作品は、

『栄花物語』これだ。

「花」を「華」と書く場合もあるよ。原本がないからどれがホントか分からないけれど、気にすることはないよ。
内容は、約200年間にわたる歴史を、あの中宮彰子さんの父親である藤原道長さんの栄華を中心に、編年(へんねん)体(年代順に記述する形式)で書かれているんだ。
 
なにせ道長さん、娘さんに皇子を産ませ、その子が、後一条天皇となり、絶大な権力を握ることになったねえ。お寺を造営寄進したところから、御堂関白(みどうかんぱく)と言ったね。
自らは太政(だいじょう)大臣となり、長男の藤原頼通(よりみち)さんは摂政(せっしょう)となったね。藤原一門の隆盛の頂点を築いたわけだ。
 
平安時代も後半になると、現実が思うようにいかないだけに、このような過去の華やかな歴史に興味がいくようになったわけだね。

君も今、受験で苦しい思いをしたり、学校や家庭で人間関係に悩んだりすることが続くと、幼いころ、なんの不安や心配もなく無邪気に遊んだ頃が懐かしく思い浮かんできて、慰められることがあるだろう。
それだよ、歴史物語の出発は。
 
だけど、不思議なものでねえ、僕の年になると、ちょうど君ぐらいの歳の高校時代が、最も幸せな時期として懐かしく思い出されるんだよ。
人生っていうのはこんなもんかもしれないよ。
君も君の栄花物語が書ければいいね。
 
ともかく、歴史物語であるこの栄花物語は、新しいジャンルの出発としても非常に意義のある作品になったわけだ。
 
ここで珍しく、漢詩文が1つ出てきたね。
和歌や、かな文学が隆盛を極めていたので、漢文関係は、衰えていったけれど、男性の教養としては、日常的に使われていたわけだ。そこで、1つのまとまった作品集ができたよ。それが、

『本朝文粋(ほんちょうもんずい)』これだ。編集者は、
 
《藤原明衡(あきひら)》さん。この人だ。

本朝文粋は、大作だね。全部で14巻もある。その中に、400編以上の詩文が載せられているよ。それらの中には、和漢朗詠集に掲載された詩文のように、朗詠されるものも多かったんだ。
華やかな、かな文学に隠されているようだけれど、実際には後の文学にかなりの影響を与えた作品だよ。
 
それではこれで、平安時代第3の100年の前半は終わりだ。
続いて、源氏物語が出てきて以降、どのような文学状況になったのか、という話に進んでゆこう。