AⅡ中古(平安時代)(5)【第2の100年c】『土佐日記・蜻蛉日記』

『日記文学』というけれども、果たして、日記は文学なの?
そうだね、君の書いている日記は、文学といえるだろうか。文学作品ではなくて単なる日記だよね。

平安時代の日記文学は、君の書いている日記とは違うんだ。君は今書いている日記を、誰かに見せることを目的に書いているかい?交換日記などのように、限定された人に見せることはあったとしても、不特定多数の人に公にするために書いてはいないよね。
 
文学史で扱う日記は、作者が初めから、他人に読んでもらうことを目的に書かれた文学作品なんだ。
文学の1つのジャンルとして、この時代に、日記形式を取り入れた文学意識は驚きだね。
 
1914年(大正3年)に哲学者、阿部次郎さんが『三太郎の日記』を発表しているね。大変な人気で、学生のバイブルにまでなったよ。ただ、内容は題名とは反対に、哲学的な難しいものだね。
また、1947年にオランダで初出版された『アンネの日記』は世界的な広がりをもって、多くの人々に今も読まれているね。
これ以外にも多くの日記形式の文学作品があるね。
 
このように、日記という形式は、特別な筆者の思いを表現するのに、大変に適した創作形式だ、といえるね。
それを平安時代に完成させたのだから、素晴らしいとしか言いようがないよ。
 
それじゃ、わが国で初めての日記文学とはどんなものか、見ていこう。
物語は竹取物語と伊勢物語という2つの大きな流れから出発して、それぞれの系列の物語が、新しく創作されながら発展していったね。
同じように日記文学も、2つの系列の流れがあるんだ。1つは、
 
『土佐日記』これだ。2つめは、
 
『蜻蛉(かげろう)日記』これだ。
 
まず、『土佐日記』からだ。
ひょっとしたら、君の教科書には『土左日記』と《左》という字で書かれているかもしれないね。原本はすでに無くなっていて何種類かの写本によって伝わっているから表記が違うんだよ。
ただ、どうやら、原文では《左》のようだったらしい。
作者は誰か。

《紀貫之(きのつらゆき)さん》この人だ。
 
紀貫之さんは、わが国初の勅撰和歌集『古今集』の選者であり、わが国初の歌論である『仮名序』を書いた人だったねえ。
さらに、作者未詳といわれている伊勢物語も書いたのではないかという研究者もいるよ。
とにかく平安時代に大活躍をした文学者だね。
 
土佐日記の書き出しは不思議なものになっているねえ。
 
『男もすなる日記(にき)といふものを、女もしてみむとてするなり。某年(それのとし)の十二月(しはす)の二十日余一日(はつかあまりひとひ)の日の戌(いぬ)のときに、門出(かどで)す。その由(よし)、いさゝかものに書きつく』 
 
「男性も漢文で書いているという日記というものを、女性である私も仮名文で書こうと思って書くのである。
ある年の12月21日の、午後8時ごろに出発する。その時の事情を少々書いておく」
 
というくらいの意味だね。
ここで紀貫之さんは、自分を女性にしているね。このことを女性仮託(かたく)という。
どうして女性仮託にしたのか。それは、かな文字を使って日記を書いたからだ。
当時、男性によって作られていた、公の書類はすべて漢文で書かれていたんだよ。私的な備忘録のような日記にも、男性は漢文を使っていた。当時は、男尊女卑の社会だったけれど、文字にも格付けがなされていたんだね。
 
男性は身分が高く、それにふさわしい教養のある文字として漢文が認められていた。それに対して、かな文字は、身分の低い、また教養のない女性や子供が使うものとされたんだ。
だからかな文字のことを、《女文字》とか《女手(おんなで)》といって、卑しいものとされたんだ。
 
紀貫之さんは、宮廷内では誰でも知っている教養高い優れた文学者で、男性だったから、自分が卑しいかな文字を使うことには、随分、抵抗感があったんだね。それで、気軽に思うことを書くために、自分を仮に女性としたわけだ。
これを女性仮託と言うんだね。
 
以上、入試用の解説としてはバッチリだ。
でも、何かおかしいよね。これから書くことは、入試には100%出ないから、気軽に読んでちょうだい。
 
まず、「男も」の「も」だけどさぁ。当然、下に続いている「女も」の「も」と対応している並列の係助詞だよね。
この「~も~も」という使い方は、例えば、次のようなときだ。
 
『見渡せば 花も紅葉(もみじ)も なかりけり
浦の苫屋(とまや)の 秋の夕暮れ』
 
「見渡すと、色彩のある華々しい花も紅葉も、なんにもない。浦の漁師の家の、秋の夕暮れは」
 
というくらいの意味だ。また、
 
「私の田舎の町のマラソンは、男の人も女の人も、みんな一緒になって走るんです」
 
というように、「~も~も」の後に、「みんな、なんにも~」ということが強調される場合に使われるよね。
とすると土佐日記では、
「男の人も女の人も、みんな書いている日記というものを、私も書こうと思って書くのである」
ということになっておかしいね。本来の書き方ならば、
『男《の》すなる・・・』
とすべきだよね。
 
次におかしいのは、
『男もすなる日記といふもの』の「なる」だ。伝聞推定の助動詞だから、基本的に耳から以前に聞いて認識しているということを表すよね。そうすると、
 
「男の人が書くということを伝え聞いて知っている日記というもの」
 
ということになる。これも、ふと考えれば、実におかしいよね。当時の男性は、職場である朝廷の建物の中でも、仕事として日記を書くし、自宅でも、私的な日記を書いていたんだ。
朝廷には女性もいるし、自宅には、妻やその他の女性もたくさんいるわけだ。
男性は、女性に絶対に見られないように隠れて日記を書いたのかい?
そんなことはないよね。実際には、女性もいくらでも男性が日記を書いているのを直接、見ることができたはずだ。それなのに伝聞推定なんて、おかしいだろう。
 
やれやれ、こんなことを書いていると、ますますこの文章が長くなってくるので、もういい加減にするけど、最後のおかしいこと。
『女もしてみむとてするなり』の「む」は意志だよね。「なり」は断定だね。だから「書こうと思って書くのである」と訳すわけだなあ。
だけどさぁ、こんな文章をもし、小論文の入試で書いたとしたら、減点ものだよね。
本来、口語で、「~しようと思って~する」という表現は、例えば、
 
「足首を骨折しているので、お医者さんからは、まだ歩くな、といわれているけれど、早く歩けるようになろうと思って、歩いているんだ」
 
というように、「~しようと思って~する」の前提には、禁止、あるいは好ましくない、という条件があるにもかかわらず「~する」という使い方が多いよね。土佐日記の場合、これに合致した口語訳ができそうにないね。
 
何よりおかしいのは、かな文字で書くことを卑下しているというけれど、わが国初の勅撰集、古今集には、男性が和文で多く歌を書いているじゃない。それに、紀貫之さん、わが国初の歌論である仮名序を、まさに仮名で書いているじゃない。
なんだかんだで、結局、どうしてこんな書き出しにしたのか、本人に聞いてみなければ分からないけれどさあ、ある研究者などは、紀貫之さんの自虐趣味的な性格からきているのではないかと言っているね。

自分を卑下して、身分の低い女性に見立てて、気軽な気持ちになって、学問のある男性に読まれると、軽く見られるようなことも気にせずに、のびのびと土佐日記を書いてやろうとしたのかもしれないねえ。
以上、入試に関係ないことでした。
 
それにしても、土佐日記は、完成度の非常に高い日記文学だね。途中に、所々、上品なユーモアなどを入れて、読者に飽きさせないようにしているよ。
何回読んでも、心がさわやかになり、作者の紀貫之さんの温かい人間性に感動するね。
 
土佐日記は、紀貫之さんが、土佐の守として、高知県に赴任して、5年の任期を終えた後、海路を京都まで帰ってくる間の55日間のことを日付順に書いたものだよ。
和歌あり、地元や周囲の人々との温かい交流談あり、天候に左右される船旅の不安な様子あり、の素晴らしい内容だね。

まあ、特に僕は大阪に住んでいるから、高知から船で、泉大津に渡り、それから大阪湾を通って、淀川を京都まで帰郷する場面の情景描写には、興味しんしんとしたものを感じるね。
1100年以上も前の、泉大津のあたりの松原の情景など、当時の風景が今の状態と対比されながら頭に浮かんで、面白いね。
 
『見しひとの 松のちとせに 
みましかば 遠く悲しき 別れせましや』
 
任期中に亡くなった娘が、松のように1000年も見ることができたのなら、永遠の悲しい別れをしなくてもよかったのに。
 
最後の場面で、都のわが家にたどり着いて、庭に植えていた松の成長を見て作った歌だよ。
任期中かどうかは、はっきりしないけれど、貫之さん夫婦は、幼い娘さんを亡くしていた。
その娘さんに対する愛惜の情が、作品の所々に出てきている。そして最後に我が子への思いを夫婦でかみしめて終わっているねえ。
この、親が、亡くした子を思う情感が、土佐日記を見事な文学作品へと高めているね。
 
さあ、ここで、日本の日記文学の一つの流れは、土佐日記から出発したことを再確認。そして、次の土佐日記の特徴をしっかりと覚えておこう。

《明るい旅の日記》これだ。
 
紀行文学の先駆的な作品ともいえるね。
これで土佐日記は終了。

このように、平安の第2の100年は、かな文学がすばらしく発展した時期だね。
和歌についても、わが国初めての勅撰和歌集である古今集以降も、次々と天皇を中心に撰者が選ばれ、歌集が作られているよ。
第二の勅撰和歌集は、
 
『後撰和歌集』これだ。

このころになると、宮中に和歌を選ぶ専門の部署ができたね。それが和歌所(わかどころ)といわれたものだ。
後撰集は、今から1050年ほど前(951年)に、
 
《村上天皇》が和歌所に撰者である寄人(よりうど)を任命して、作ったものだよ。

5人が任命されて、和歌所が後宮の建物の梨壺(なしつぼ)というところに置かれたので、この5人のことを、
 
《梨壺の5人》と呼んだよ。そのうちの3人を覚えておこうかい。
 
《清原元輔(きよはらもとすけ)》さん。

《源順(みなもとのしたがう)》さん。

《坂上望城(さかのうえのもちき)》さん。
 
この撰者の人たちは、古今集とは違って、だれも一首も後撰集のなかには入っていないね。
後撰集に載っている歌数が最も多い歌人は、紀貫之さんではないかなぁ。77首も載っているよ。貫之さん、大活躍だね。
歌風としては、古今集よりも、明るくのびのびと自由で豊かな情感があるね。
 
さて、続いては、物語の続きの流れだ。

この時期は、古今集、竹取物語、伊勢物語、土佐日記、後撰集と優れた作品が完成していったわけだけれど、創作する側の人々の盛り上がりとともに、読む側の人々もまた多くなっていったんだよ。
原本を回し読みすると同時に、写本も作られるようになったね。そして読んだ人々は、文学というものの素晴らしさ、魅力に大変な影響を受けたわけだ。
読んで感動するとともに、今度は自分が書いてやろうという気になった人も多かったようだね。
それで物語りや日記など、多くの作品が創作されたんだ。
 
ただ、現在まで、写本だったとしても残っているのはわずかでしかないよ。
また、現在まで伝わってない作品であったとしても、題名だけが、何かの文書に残っているものもあるんだよ。

どちらにしても、平安中期前あたりから、宮廷を中心に文学的機運は大きく盛り上がったと言えるよね。
 
そんな中で、現実的歌物語である伊勢物語の流れを汲む作品として、出てきたものが、
 
《大和(やまと)物語》これだ。

伊勢物語が在原業平という1人の人物の一代記のようなものであったのに対して、大和物語は、多くの有名な人々を主人公にした短編小説を集めたものになっているよ。

作品の中には、莵原処女(うないおとめ)や姥捨山(うばすてやま)という長い説話もあったりするので、伊勢物語のような明確な歌物語から少し変化をしているね。
莵原処女(うないおとめ)の説話は、原型のようなものが万葉集の長歌にも出ているので、当時は有名だったのだろうね。次のような話だ。
 
「1人の心の美しい娘が、2人の男性から真剣な求愛を受ける。娘はどちらかの男性の愛を受け入れれば、他の男性を傷つけてしまうことを悩む。
娘は純粋だったがゆえに、どちらの男性も傷つけたくなかった。思い詰めて結局、川の中に飛び込んで自殺をする。それが2人の男性に対して誠実を尽くす方法だった」
 
また、姥捨山(うばすてやま)は現在でもよく出てくる話だね。
 
「男は、嫁の言葉に従って、自分を親代わりに育ててくれた姥を背に負い、お参りに行くと言って、だまして山に捨てた。捨てた後の帰り道、ちょうど満月が美しく照っていた。その月光に、姥の幼いころからの優しさを身にしみて感じ、翌朝、連れ戻しに行った」
 
こんな説話も載っているんだ。和歌中心の伊勢物語とは少し違うね。
 
さあ、それでは続いて日記文学の、土佐日記とは違ったもう1つの流れを作った作品を見ていこう。それは、
 
『蜻蛉(かげろう)日記』これだ。

年代的には、土佐日記から約40年ほど後のことだ。
この蜻蛉日記も原本は無いよ。写本によって、『かげろう日記』と書かれているのもあって、本当の表記はどうなのか分からないね。
ただ、内容からすると、成虫になってすぐに死んでしまうトンボの蜻蛉ではなくして、暑い日差しの日に地面からユラユラと、はかなく上がる陽炎のことではないかというのが、おおかたの研究者の見方だね。
本文中に、
 
『なお、ものはかなきを思へば、有るか無きかの心地する。かげろふの日記と言ふべし』
 
とあるね。作者自身が『有るか無きかの心地する』という表現をしていることも、トンボではなく、陽炎(かげろう)だとする根拠になっているねえ。
作者は、
 
《右大将道綱(みちつな)の母》このひとだ。
 
そうなんだけれど、この同じ筆者の女性には、別の呼び方があるんだよ。それは、
 
藤原倫寧(ともやす)の女(むすめ)
藤原兼家(かねいえ)の妻
 
ということなんだ。男尊女卑の社会にあっては、男性を中心にした人間関係で名前をつけているんだよね。

女性は《三従》と言われたりしたね。
幼いころは、親に《従い》
結婚してからは、夫に《従い》
男の子ができてからは、子に《従う》
 
というわけだ。ここまでくると、なんだか男尊女卑とはいえ、「いいかげんにしろ」と言いたくなるね。でも、実際、蜻蛉日記の作者本人の名前は未詳なんだよね。
さて、内容は、

「夫兼家の浮気に苦悩の連続の日々を過ごす。夫婦は破たんの状態になりながらも、一子道綱の成長に希望を見いだそうとする。それでも、夫への思いは、未練と嫉妬に渦巻く中で、諦めもできない。やがて、仏に救いを求めていく」
 
という約21年間のことを記した日記だよ。内容的に見れば、自伝的私小説と言えるものだね。
僕は初めて蜻蛉日記を読んだとき、体に衝撃が走ったね。読み進むにつれ、道綱の母の心が、ひしひし、という言葉を通り越して、ダイレクトに命の中に飛び込んできたよ。

本当にこの作品は、1030年も前に書かれたものだろうか、と信じられなかった。つい最近、つらい運命にもだえ苦しむ女性が、何の飾り気もなく、泣きながら、それでも救いを求めて書いたのではないかと思えたよ。
 
何度も同じことを言っているような気がするけれど、入試が終われば、ぜひとも読んでみてちょうだい。

それでは、時々、教科書にも載ったりする箇所だけれど、一緒に読んでみよう。
 
『さて、九月ばかりになりて、いでにたるほどに、箱のあるを手まさぐりにあけてみれば、人のもとにやらんとしける文あり。
あさましさに、見てけりとだに知られん、と思ひて書きつく。
疑はし 他に渡せる 文みれば 
ここや途絶えに ならんとすらん
など思ふほどに、心えなう十月つごもりがたに、三夜しきりて見えぬ時あり。
「つれなうて、しばし、こゝろみるほどに」など氣色あり。
これよりゆふさりつかた、
「うちのがるまじかりけり」とていづるに、心えで、人をつけてみすれば、
「町の小路なるそこそこになんとまり給ひぬ」とてきたり。
さればよ、といみじう、心うしと思へども、言はんやうもしらであるほどに、二三日ばかりありて、あかつきがたに、門をたゝく時あり。さなめりと思ふに、うくて開けさせねば、例の家とおぼしき所にものしたり』
 
さあ、それじゃ、この部分を超口語訳しておくよ。『超』だよ。
******** 
朝夕、少し涼しさが感じられる9月になりました。
ある朝、夫を会社へ送り出した後、掃除をしていました。その時、玄関の靴箱の上に夫のスマホが置いたままになっているのを見つけました。おそらく靴を履く時に置いたまま、忘れたに違いありません。

わたしは、それを手にした時、ふと思いついたことがありました。それは、実は最近の夫の様子に少々、不審なものを感じることが多くなっていたのです。わたしは、その不審をスマホで、はっきりさせることができるかもしれないと思いました。

少し震える指先で、スマホのメールを新しい順に呼び出しました。その中の、ある特定の女性のものを読んでいるうちに、心臓の鼓動が激しくなり、体が深い沼の底に沈むような気持ちになりました。

その女性と交わされていた内容は、わたしと彼が独身時代に付き合っていた時にさえ、言ってくれなかったような甘い愛情表現でした。さらに、目をそむけたくなるようなものも多くあります。
わたしはショックが大きくて、気が遠くなるようにさえ感じました。気分がひどく滅入ってしまい、とても、面と向かって夫に怒りを打ちつけるようなことは、できそうにありません。だからといって、このまま知らぬふりをしていたのでは、わたし自身が耐えられないと思いました。

それで、わたしのスマホから夫のスマホへ、次のようなメールを送りました。
「ショックです。これまでの人生の中で、これほど心身ともにショックを受けたことはありません。最近、どうも怪しいと思っていたら、やはり他の女の人がいたのですね。もう、わたしのもとへは帰ってこないのでしょうか」

夫は夜遅く帰って来ました。わたしは顔を合わせる気にもならないので、先に布団の中に入って眠ったふりをしていました。
翌朝、夫は平気な顔をして、
「あれは仕事上のメールだよ。最近は不景気だから、よほど相手の機嫌を取らないと仕事がもらえない。心にもないことを言うのもいやになるよ」
と気にかけてない様子です。それでいて、決してわたしと目を合わさないのです。

ごまかすつもりだわ、と思っていたら、3日間、家に帰らないことがありました。いよいよわたしから離れてしまうのか、とある種の覚悟をしていると、また平気な顔をして家に帰って来ました。わたしが何も言わないでいると、
「どうも、お前が俺のことを疑っているようだから、俺を信じてくれているかどうか、試してやろうと思って、黙って3日間、出張に行っていたんだ。安心したよ。信じてくれているんだね」
とまた、目を合わさずに言うのです。

日曜日の昼すぎでした。夫がスマホのメールを見ながら、
「ああ、大変だ。仕事でトラブルが起こっている。すぐに現場に行かなければいけない」
と言って、あわてて出て行きました。わたしは不審に思ってすぐに、夫に顔が知られていない同じマンションの友人に電話を入れて、夫の後をつけるように頼みました。

しばらくしてその友人から、
「駅前で女の人と会い、仲良く2人で電車に乗った」
と報告を受けました。たいへんに悔しく、悲しく、やり切れない気持ちに襲われましたが、どうすることもできません。
わたしは、やり場のない心の、少しでも慰めになればと、夜眠るときにドアチェーンを掛けるようにしました。もちろんこれまでは、チェーンなど掛けていませんでした。

結局、その日の夜は帰ってきませんでした。
月曜の深夜、わたしはすでに床の中に入っていましたが、チャイムもならさずに、玄関の鍵を開ける音がしました。夫が帰ってきたに違いありません。

夫はチェーンが掛かっていたので開けられずに、しばらくガチャガチャと音をさせていました。やがて、チャイムを鳴らしました。さらに、
「オレだ、オレだ」
と周囲に気を遣いながら小声で言います。
わたしは、愛憎の混じりあった感情になりながらも、もう少し、思い知らせてから、チェーンをはずしてやろうと、そのまま寝ていました。

もういいだろうと思って起き上がろうとした時、夫は諦めてエレベータの方へ行ったようでした。
少しの間、わたしは、布団の上に座っていました。
それから窓のところへ行き、カーテンのすき間からマンションの正面玄関の方を見下ろしました。夫が意外と元気な足取りで、駅の方へ行くのが見えました。
わたしは玄関に行き、チェーンを外しました。さらに、鍵もかけないままにして、再び、床に入りました。
******** 
さてと、こんなところで超口語訳はいいかなぁ。
ここで、土佐日記と蜻蛉日記を比較して、しっかり覚えておこう。
 
土佐日記は、わが国初の《明るい旅の日記》
蜻蛉日記は、わが国初の《深刻な自叙伝的な日記》
 
このように押さえておこう。

さてこの時期に、竹取物語の流れを継ぐ物語が2つ出てきているね。
1つは、
 
『宇津保(うつぼ)物語』これだ。『うつほ』と濁らずに読んでも同じだ。2つは、
 
『落窪(おちくぼ)物語』これだ。
 
2作品とも、作者は未詳だね。

宇津保物語の内容は、竹取物語と同じような求婚物語だ。伝奇(でんき)的な部分もあるが、音楽一家が栄える話で、竹取物語より現実的写実的な記述が多いよ。
20巻もある長編小説で、間違いなく『源氏物語』への橋渡しになっているね。
 
落窪物語は、わが国初の義母が義子をいじめるという話だ。題名の通り、家の中の落ちくぼんだ部屋に住まされ、義母から虐待を受けていた姫を左近小将が救い出し、幸せになるというハッピーエンド話だね。
非常に構成のしっかりした物語で、竹取物語の構成力と共通点があるね。ただ伝奇的な内容はなく、現実的な作り物語になっているよ。
 
この宇津保物語、落窪物語以外にも、多くの作り物語が創作された形跡はあるけれど、現在まで残っているのは、わずかしかないということで、残念だね。