オチケン風『日本文学史』近現代Ⅱ【明治・大正】(俳句)〈12〉【俳句の革新】

そうだねぇ、まず、俳句という言葉から考えてみようか。
俳句という言葉は、近世や明治の初めのころには、一般的には使われていなかったんだよ。
当時は、俳諧連歌、略して俳諧、と呼ばれていたんだねえ。

俳諧は、複数の人が集まって、前の句との関係や、全体の流れを考えながら、連作していくものだねえ。1つの句が、独立して文学世界を完結させるものではなくて、他のものとの関係性の中で存在意義を持つものだ。
長い文章の中の、1文と同じような働きだよ。

松尾芭蕉さんが出てきて、連句の中の最初の句である、発句(ほっく)を独立させて鑑賞しようという試みはなされたよ。だけど、あくまでも、連句の中の1つという概念は抜けきれなかったねえ。

こんな状況の中で、俳諧に大変革をもたらしたのが、正岡子規さんなんだねえ。
正岡子規さんは、俳諧を1句で、独立した文学形式に作り上げたんだよ。集団の文芸ではなくして、近代にふさわしい個人の文芸として完成させたわけだ。
だから、俳諧とは言わずに、俳句と呼んだわけだね。

正岡子規さんは、俳句を新しい文学形式として独立させ、わずか17文字の中に、近代人の美意識にふさわしい、未だかつてない文学世界を創造しようとしたんだ。
この俳句に対する考え方は、明治26年(1893)に刊行された、

『獺祭書屋俳話(だつさいしょおくはいわ)』や、

『俳人蕪村(ぶそん)』に、明確に出ているよ。

《獺》というのは、カワウソのことだよ。カワウソが、餌を食べるとき、食い物を並べる習性を獺祭と言うんだ。

これらの俳論集以外にも、短歌のところで話をした、『病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)』や『墨汁一滴(ぼくじゅういってき)』の中にも、俳句に対する考え方が、いたるところに述べられているよ。

それじゃ、正岡子規さんが、唱えたは俳論はどのようなものなのか。
まず、松尾芭蕉さんを尊崇(そんすう)する伝統的な俳諧に対して、《月並(つきなみ)俳諧》として批判したねえ。
月並というのは、平凡で新鮮味がなくつまらないもの、というくらいの意味だ。

そして、俳句の本質は、
《あるがままのものを、あるがままに写す》ことにある、と提唱したんだね。
短歌でも一貫して主張していた写生論だ。

さらに、与謝蕪村(よさぶそん)さんの句風を推奨(すいしょう)したんだ。そのことは、俳論集『俳人蕪村』にたいへん詳しく書かれているよ。
画家でもあった与謝蕪村さんの句は、印象的であり絵画的であったのが、正岡子規さんの心にぴったりと合ったんだねぇ。

やがて、正岡子規さんは、俳句雑誌、

『ホトトギス』を主宰(しゅさい)。

俳句革新の旗を大きく振っていったねえ。
 
『ホトトギス』の旗の下には多くの優れた俳人が集まってきたよ。

《高浜虚子(きょし)》さん。この人だ。さらに、

《河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)》さん。この人もだ。

正岡子規さんとは、松山で教員をしていた時から親交のあった夏目漱石さんも、名前を連ねているねえ。
その漱石さんの句。

『叩(たた)かれて 昼の蚊を吐く
 木魚(もくぎょ)かな』

実に漱石さんらしい句だねぇ。つい、吹き出してしまいそうになるよ。
『ホトトギス』は、ずいぶん、発展したねえ。時を経るごとに、次々と新しい俳人の活躍する場にもなっていった。そして、俳壇の大きな勢力となったねえ。

これらの俳人は、正岡子規さんが、勤めていた新聞『日本』にも、多くの俳句や俳論を発表したので、《日本派》とも呼ばれたりしたよ。

多くの門下生が活躍するようにはなったけれど、逆に、正岡子規さんの病は重くなるばかりだったよ。
それでも、寝たきりの状態の中で、俳句革新への炎を燃やし続けたねえ。

『糸瓜(へちま)咲いて 
 痰(たん)のつまりし 仏かな』

息を引き取る前に、あお向きに寝たままで書かれた3句のうちの1つがこれだよ。
へちまの茎から採る《へちま水(すい)》は、咳止めの民間薬として飲まれていたんだねえ。

正岡子規さんが亡くなった後、俳壇はどうなったのか。
結果的に、2つの流れに別れたねえ。
ひとつは、河東碧梧桐さんのグループだ。もうひとつは、高浜虚子さんのグループだ。
結局、正岡子規さんの門下の中で、最も優れた門人と言われた2人が、それぞれ、別の方向に歩むことになったわけだ。

河東碧梧桐さんは、正岡子規さんの写生説をさらに深化させて、単なる客観描写ではなく、象徴性を持たそうとしたんだよ。
代表的な句。

『赤い椿 白い椿と
  落ちにけり』

確かに、何やら、単なる自然描写ではないものを感じさせる句だねぇ。
この河東碧梧桐さんの革新運動は、
《新傾向運動》と言われて、一時は、俳壇を席巻(せっけん)するような勢いで広がったものだよ。

だけど、新傾向運動は、間も無く、先鋭的な方向に進むことになってしまった。それは、俳句に、季語などは不要であるとし、さらに、五七五の音律規制からの解放も唱え出したんだ。
この変革は、あまりにも急進すぎて、一般大衆にはついて行く余裕がなかったよ。
それで、やがて、勢力は衰えてしまっていったねえ。

逆に、大正時代に入ってから、俳壇を力強くけん引していったのは、高浜虚子さんのグループだ。

高浜虚子さんは、師匠の伝統的な『ホトトギス』を受け継ぎ、写生主義を貫いたねえ。
高浜虚子さんは、《進むべき俳句の道》と題する文章を、『ホトトギス』に連載して、河東碧梧桐さんの新傾向運動と対立する立場であることを明確にしたよ。

有名な1句。

『遠山に 日の当たりたる
  枯野のかな』

まさに、師匠、正岡子規さんの句風そのものだねえ。
『ホトトギス』からは、実に多くの、次の時代の俳壇を担った優れた俳人が輩出されたよ。
飯田蛇忽(いいだだこつ)、山口誓子(せいし)、水原秋桜子(しゅうおうし)、中村草田男(くさたお)さんなど、挙げれば切が無いほど居るね。

そして、俳誌『ホトトギス』は、創刊から100年以上過ぎた現在も発刊され続けているよ。

俳句は、過去のものではなくて、現在も人気のある文学形式だねぇ。
毎年8月に松山市で開催される、《俳句甲子園》などもあって、若い人にも好まれているねえ。
俳句人口は、600万とも700万人ともいわれているよ。

俳句は、世界で最も短い文学形式として、日本だけでなく、世界にも広がり、それぞれの言語で俳句を作る人が、増えているようだねえ。
日本文化の誇りとして、伝統を踏まえながらも、新時代にふさわしい展開を期待したいねえ。

さあ、これで、オチケン風『日本文学史・近現代文学編Ⅱ』(詩歌)
は終了だ。
8月から書き始めて、今、10月末だから結局、3カ月もかかってしまったよ。

君の入試のことを考えると、もっと早く書き上げたかったけれど、厳しい夏の暑さと残暑に少々、バテてしまったねえ。

台風27号と28号が、ダブルで日本列島に近づいているということで、昨夜から雨が降り続いているねえ。今も、作業部屋の窓ガラスを通して、雨音が間断なく聞こえているよ。

26号で、甚大な被害のあった伊豆大島の皆さんに、これ以上の災害が起こらないといいんだけれどねえ。

それはともかく、君の奮闘を祈っているよ。

それじゃ、次は、第1次世界大戦以降から現代までの文学史となる、オチケン風『日本文学史・近現代文学編Ⅲ』で、元気にお会いしよう。