オチケン風『日本文学史』近現代Ⅱ【明治・大正】(短歌)〈10〉【根岸短歌会】

短歌革新運動で、大きな勢力となった明星派には及ばなかったけれど、独自の歌論を持って、革新運動に影響力を与えた文学集団が、もう1つあったんだよ。
その先頭を切っていたのが、

《正岡子規》さん。この人だ。

正岡子規さんは、愛媛県の松山市出身で、東京大学に進学するために上京したんだねえ。
残念ながら、肺結核に罹(かか)り、喀血(かっけつ)するほどに悪くなって、大学を中退したんだよ。
その後、少し良くなって、『日本』という新聞社に入社したんだ。

その新聞『日本』に、正岡子規さん独自の短歌革新論を連載するんだねえ。それが、明治31年(1898 )に発表された、

『歌よみに与ふる書』これだ。

『歌よみに与ふる書』は、大変にセンセーショナルな内容だよ。
例えば、よく紹介されるところだけれど、連載第2回の冒頭には、次のように書いているね。

『貫之は、下手な歌よみにて、古今集は、くだらぬ集に有之候(これありそうろう)。』

こんな激しい批評から始まっているよ。
この文章で、古今集を歌の手本と考えていた伝統的な旧派の歌を、バッサリと切り捨てているんだねぇ。

さらに、その後の掲載で、歌風の根本は、万葉調に置くべきであると述べているね。そして、客観的、写生的に歌を詠むことが短歌の本質であるとしているよ。
これで、浪漫的な明星派に対しても、明確に批判をしたわけだね。

『歌よみに与ふる書』が発表されると、正岡子規さんの考え方に賛同する歌人が、多く集まってきたねえ。
それで、明治32年(1899)に発足させた短歌結社が、

《根岸(ねぎし)短歌会》これだ。

根岸というのは、当時、正岡子規さんが歌会を開いていた《子規庵》があった地名だよ。
やがて、根岸短歌会で活躍する人たちのことを《根岸派》といわれるようにもなったよ。

歌風は、正岡子規さんが提唱した通り、万葉調を基本にした写生歌を主眼にしていたねえ。
門下からは、伊藤左千夫さん、長塚節(ながつかたかし)さんなどが育っていったよ。

正岡子規さんの代表的な歌集は、明治37年(1904 )に発刊された、

『竹の里歌』があるよ。

その中から1首。

『瓶(かめ)にさす 藤のはなぶさ
 みじかければ たたみの上に とどかざりけり』

実に、素朴な万葉調であり、写生に徹した歌だねぇ。
明星派や耽美派とは、対照的な歌風であるのがよく分かるだろう。
もうひとつ、有名な随筆集としては、

『墨汁一滴(ぼくじゅういってき)』これがあるね。
 
その中の1首。

『いちはつの 花咲きいでて 我目(わがめ)には
 今年ばかりの 春ゆかんとす』

いちはつ、というのは、春に白色のあやめのような花を咲かせるアヤメ科の多年草だよ。
正岡子規さんの心が、ストレートに伝わってくるような歌だねえ。

正岡子規さんは、肺結核であったにもかかわらず、自分から希望して、日清戦争の従軍記者になって、戦地に行ったんだよ。
それで病状をさらに悪化させて、日本に帰ってからは、脊椎を結核菌が冒してしまう脊椎カリエスになってしまったんだ。

それで、歩くことも自由にならなくなり、病床で、亡くなるまで、短歌俳句の革新に尽くす人生になったよ。

亡くなる2日前まで、書き続けられた随筆が、『病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)』だ。

これを読むと、肉体は結核菌に冒されて死に近づき、激しい苦痛に襲われているにもかかわらず、実に平安な境地を保っていることに驚かされるねえ。

正岡子規さんの心の境涯の高さに、尊崇(そんすう)の念を強くするねぇ。
結局、明治35年(1902)、35歳の若さでこの世を去ったねえ。

師匠の亡き後を受けて、活躍したのが門弟の、

《伊藤左千夫》さんたちだ。

伊藤左千夫さんは、最初、正岡子規さんを論破(ろんぱ)してやろうと思って自宅を訪ねたんだけれど、逆に、正岡子規さんの歌論の深さと人間性に触れて、その場で弟子になったんだ。

これまで根岸短歌会には機関誌はなかった。それで、伊藤左千夫さんは、早くも、師匠が逝(いっ)た翌年、明治36年(1903)に、機関誌、

『馬酔木(あしび)』を創刊したんだよ。

『馬酔木』の創刊は、伊藤左千夫さんが正岡子規さんの、最も忠実な後継者であるということを、はっきりさせることにもなったねえ。
伊藤左千夫さんの1首。

『牛飼いが 歌よむ時に 世の中の
 新しき歌 大いにおこる』

《牛飼い》というのは、伊藤左千夫さん自身が、一時期、乳牛から乳を絞る仕事をしていたことから使った言葉だよ。
1部の特権階級ではない、一般の庶民が、短歌を作るときに、新しい時代にふさわしい新しい歌が興隆すると言っているんだねぇ。
 
伊藤左千夫さんは、正岡子規さんの提唱した写生という表現姿勢に基づいて、小説も書いたんだ。それが感動的な『野菊の墓』だったねえ。
『野菊の墓』は、写生文の視点を貫いて書かれていて、冷静で的確な文章は、読者を小説の世界へスムーズに導いてくれるねえ。

やがて、『馬酔木』のもとに、多くの歌人が集まるようになり、多彩な人材が育っていった。
その中で、伊藤左千夫さんとともに『馬酔木』の発展に尽くした歌人が、

《長塚節》さん。この人だ。

代表的な1首。

『白埴(しらはに)の 瓶(かめ)こそよけれ 
  霧ながら 朝はつめたき 水くみにけり』

白磁(はくじ)の花びんで水を汲む清澄(せいちょう)な精神が、見事に表現されているねえ。

長塚節さんもまた、小説を書いていたんだったねえ。それは、夏目漱石さんにほめられた長編小説『土』だったねえ。

『馬酔木』は、伊藤左千夫さんが多忙のため、やがて廃刊されたよ。その後を受けて、明治41年(1908)に出てきた機関誌が、

『アララギ(阿羅々木)』これだ。

主宰(しゅさい)には、再び伊藤左千夫さんがなった。
『アララギ』は、多くの歌人が活躍する場となり、大変な影響力を持った機関誌になったねえ。
もちろん長塚節さんも、その中の主力メンバーだよ。

時系列が逆になったけれど、紹介した長塚節さんの1首は、『アララギ』に『鍼(はり)の如く』と題して連載されたものの1つなんだよ。

その後、大正時代に入ると、『アララギ』には、さらに優れた歌人が集まるようになったねえ。

《島木赤彦(しまきあかひこ)》さん。

《斎藤茂吉(さいとうもきち)》さん。

《中村憲吉(けんきち)》さん。

《土屋文明(つちやぶんめい)》さん。

《釈迢空(しゃくちょうくう)》さん。

これらの歌人たちだ。この人達のことを、機関誌『アララギ』で活躍したので、

《アララギ派》と言うんだよ。

島木赤彦さんは、長野県で教育者として活躍をしていた人だよ。短歌については、伊藤左千夫さんの指導を受けながら力をつけていったねえ。
その後、短歌への思いが募り、大正3年(1914)には東京に出てきて、『アララギ』の編集責任者となったんだ。

島木赤彦さんが『アララギ』の発刊に力を入れるようになってから、それまで、時々、休刊したりしていたのが、確実に定期刊行ができるようになっていったんだよ。
それで、読者も増えて、経営的にも順調に伸びていったんだねえ。

それと同時に、歌風の面でも、アララギ派の指導的立場になったんだ。
島木赤彦さんの歌風は、もちろん、正岡子規さんの根岸短歌会の根本である、万葉調であり、写生主義ではあるけれど、そこに到達するための《鍛錬道(たんれんどう)》というものを唱えたんだ。

代表的な歌集は、大正9年(1920)に発刊された、

『氷魚(ひお)』これだ。
 
『氷魚』からではないけれど、よく教科書にも載る代表的な1首を紹介しておくよ。

『信濃路は いつ春にならむ 夕づく日 
 入りてしまらく 黄なる空のいろ』

信濃路の遅い春を歌ったものだねえ。
写生をさらに深めて、荘厳な雰囲気のする歌の世界が完成しているねえ。

島木赤彦さんとともに、アララギ派の発展の大きな力になった歌人が、斎藤茂吉さんだ。伊藤左千夫さんの門下の中で、この2人が、もっとも活躍した歌人と言えるだろうね。

斎藤茂吉さんの本業は医者だよ。医師としても、文部省の研究員となりドイツに留学したこともあるくらい活躍をしながら、歌人としても、多くの作品を残しているねえ。
最初の歌集は、大正2年(1913)に発刊した、

『赤光(しゃっこう)』これだ。

『赤光』は、大変な話題作となったよ。歌壇、文壇はもちろん、多くの人に感動を与え、斎藤茂吉さんの歌人としての地位を確立した歌集になったねえ。
『赤光』の中に載っている連作に、『死にたまふ母』というのがある。
その中から、3首を紹介しておこう。

『死に近き 母に添寝(そいね)の しんしんと
 遠田(とおた)のかはづ 天にきこゆる』

『のど赤き 玄鳥(つばくらめ)ふたつ 梁(はり)にいて
 足乳根(たらちね)の母は 死にたまふなり』

『灰のなかに 母をひろへり 朝日子(あさひこ)の
 のぼるが中に 母をひろえり』

『死にたまふ母』は、時系列で作られた59首の連作だけれど、どの歌も浪漫的情感にあふれた歌だねえ。
君も、受験勉強に疲れたら読んでごらん。心が温かくなるよ。

それ以外の歌集としては、大正10年(1921)に刊行された、

『あらたま』これだ。

『あらたま』は、斎藤茂吉さんの歌論を確立する上で、実証的な役割を果たしたは歌集だねえ。
 
斎藤茂吉さんの歌論の根本をなす考え方は、

《実相観入(じっそうかんにゅう)》これだ。

この言葉について斎藤茂吉さんは、
「実相に観入して、自然、自己一元の生を写す」と言っているよ。
正岡子規さんの唱えた写生をさらに深めたものだ。見ている対象に自己自身を投入させて、自己と自然の一体化の中で、歌の世界を作ろうというものだね。

ところで、斎藤茂吉さんの次男の斎藤宗吉(そうきち)さんは、ペンネーム・北杜夫(きたもりお)で書いた『どくとるマンボウ航海記』でベストセラーになった作家だよ。

この他の、アララギ派と言われた中村憲吉さん、土屋文明さん、釈迢空さんは、それぞれ、個性を生かした歌を発表して、活躍をしたねえ。
そして、アララギ派は大正期の歌壇の主導権を握るまでになったんだよ。

ただ、大正末期になると、アララギ派に対立する、さまざまな流派が出てきたねえ。
その中で、機関誌『日光』を中心に、歌壇に新風を送ろうとする集団ができたんだよ。
釈迢空さんは、アララギ派から出発したけれど、後には、この『日光』を舞台に活躍をした歌人だよ。