オチケン風『日本文学史』近現代Ⅱ【明治】(詩)〈3〉【浪漫詩】①島崎藤村

明治20年代になると、それまで、〝詩〟といえば、漢詩を指していたわけだけれど、新体詩が登場し、形式、内容ともに進歩するにしたがって、今度は、普通に〝詩〟といえば、新体詩を意味するようになってきたねえ。
わざわざ、《新体》という言葉をつける必要がなくなったわけだ。
新体詩が、市民権を得たわけだねえ。

そんな中で、詩風の主流になったのが、

《浪漫(ろうまん)詩》これだ。

授業のときに、〝ろうまん〟と発音すると、生徒がよく笑ったものだよ。皆、〝ロマン〟という発音に慣れているからね。
18世紀から19世紀、ヨーロッパに起こった文学・芸術主義である〝Roman〟主義が日本に入ってきた時、〝浪漫〟と音訳したものなんだよ。

浪漫主義といえば、思い出すのは、雑誌『文学界』だよね。北村透谷さんが中心になって発刊された雑誌だったね。
《オチケン風『日本文学史・近現代文学編Ⅰ』》では、浪漫主義小説が、『文学界』を中心に大きな運動となって推進されたことを話したねえ。

『文学界』は、小説の分野で浪漫主義を発展させただけでなく、詩の分野でも、浪漫詩に大きな役割を果たした文芸雑誌なんだよ。

浪漫主義のリーダーとして活躍した北村透谷さんは、『文学界』発刊の前から浪漫的で情熱的な詩を発表していたねえ。それが、

『楚囚之詩(そしゅうのし)』これだ。さらに、

『蓬莱曲(ほうらいきょく)』これだね。

『楚囚之詩』は、政治犯となって牢獄につながれた囚人の心境と境遇を表現したものだねえ。
始めの第1連と終わりの第16連を書き出してみよう。

『楚囚之詩』 北村透谷      
『第一
かつて誤つて法を破り
政治の罪人として捕はれたり、
余と生死を誓(ちか)ひし壮士等の
あまたあるうちに余はその首領なり、
なかに、余が最愛の
まだつぼみの花なる少女も、
国の為とてもろともに
この花婿も花嫁も。
    (中略)
 第十六
鶯は余を捨てゝ去り
余は更に怏鬱(おううつ)に沈みたり、
春は都にいかなるや?
確かに、都は今が花なり!
かく余が想像(おもい)なかばに
久し振にて獄吏は入り来れり。
遂に余はゆるされて、
大赦(たいしや)のめぐみを感謝せり
門を出(いづ)れば、多くの朋友、
集(つど)ひ、余を迎へ来れり、
中にも余が最愛の花嫁は、
走り来りて余の手を握りたり、
彼れが眼にも余が眼にも同じ涙――
また多数の朋友は喜んで踏舞(とうぶ)せり、
先きの可愛(かわ)ゆき鶯もここに来りて
再び美妙の調べを、みなに聞かせたり』

こんな内容の詩だよ。
『蓬莱曲』は、もっと長くて、劇詩と言えるものだね。
内容は、主人公の修行者が、蓬莱山に入って、悪魔たちに、現世を嫌って死後の世界を求める話をする、というものだね。
2作ともに読めば、分かりやすくて興味深い詩になっているねえ。

『楚囚之詩』には、最初に『自序』が書かれているよ。そこには、この詩を世の中に出すことを、北村透谷さんが、躊躇(ちゅうちょ)する気持ちが書いているねえ。
確かに、『楚囚之詩』にしろ、『蓬莱曲』にしろ、分かりやすい半面、発想も内容も子供っぽい面が多いねえ。

でもねえ、『楚囚之詩』や『蓬莱曲』は、当時としては、大きな意義を持つ詩だったんだよ。
それは、『楚囚之詩』を見てもらったら分かるよ。
まず、音調だ。これまでの詩は、新体詩といっても、5音、7音中心の、七五調や五七調だったねえ。ところが、『楚囚之詩』を読めば分かるように、言葉の調子、音韻、音律などは全く無視しているよね。まるで、散文だね。

また、1行の文字数も、他の行との整合性は全くないねえ。
さらに、第1連の行数や文字数も、他の連と対応させることは全くしていないねえ。
これまでの詩の、文語定型詩と言われた流れを全く無視して、口語自由詩の流れに変えようとしたんだね。

北村透谷さんの詩の意義は、詩形の一大変革にあったわけだ。ただねえ、あまりにも先進すぎて、残念ながら、それほどの評価はされなかったね。
口語自由詩の流れは、さらに時を持たなければならなかったわけだ。

北村透谷さんが中心になって『文学界』が発刊されてからは、多くの浪漫的詩人が、活躍することになるねえ。
その中で、代表的な詩人が、

《島崎藤村》さん。この人だ。

島崎藤村さんといえば、自然主義小説の代表的な作家だねぇ。実は、島崎藤村さんは、初めのうちは、北村透谷さんから大きく影響を受けた浪漫的詩人だったんだよ。
『文学界』の創刊時から同誌に、さまざまな詩を発表していたんだよ。

島崎藤村さんが、詩人として、世の中に広く認められるきっかけになった最初の詩集は、明治30年(1897)に刊行した、

『若菜(わかな)集』これだ。『若菜集』は、『文学界』などに発表した詩、50編ほどを集めて単行本にしたものだね。掲載されている中で有名なもの引用しておくよ。

 『初恋』 島崎藤村

『まだあげ初(そ)めし前髪の
林檎(りんご)のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅(うすくれない)の秋の実に
人こひ初めしはじめなり』

『初恋』は、超有名な詩だね。後には、曲が付けられて、流行歌としても歌われたよ。人気のある歌手が歌ったこともあって、大ヒットしたねえ。
僕は、『初恋』の授業の終わりには必ず、この歌を聴かせたものだよ。生徒は、不思議な顔をしていたねえ。

さてと、もう1詩、紹介しておこうかね。

 『潮音(しおのね)』
 
『わきてながるゝ やほじほの
そこにいざよふ うみの琴
しらべもふかし もゝかはの
よろづのなみを よびあつめ
ときみちくれば うらゝかに
とほくきこゆる はるのしほのね』

この詩は、全体的には、古風な雰囲気がするものだね。まるで琴歌(ことうた)のようだ。中古には、『琴歌譜(きんかふ)』という琴などを伴奏にして歌うものがあったけれど、その歌詞のような感じがするねえ。

でも、よく見ると、実に近代詩の特徴をよくとらえているねえ。
まず、言葉のリズムが、そのまま、潮の流れのリズムを表現しているよ。声に出して何度も読むと、まるで、豊かな波が、押し寄せては返す音の響きになってくるねえ。

さらに、文字の表記が、暖かくなった春の季節の海を表現しているねえ。ひらがな書きの各行は、ゆったりとして、何度も寄せ来る波を表しているだろう。
そして、1字だけ漢字の琴は、行の最後に書くことによって、海中に漂っている、具体的な楽器である琴のイメージを作り出しているねえ。

ところで、この〝琴〟は、詩のイメージからすると、日本古来の楽器の琴では、少々、ミスマッチな感じになってしまうねえ。
このころの島崎藤村さんは、西洋楽器であるバイオリンを弾くことを楽しんでいたんだよ。そうすると、琴はバイオリンをイメージして創作したと考えるのが自然だろうねえ。

海面に繰り返されるゆったりとした波、海中に漂うバイオリン、そこから奏でられる春の潮流の音。
こういうイメージになれば、違和感なく受け入れられるよね。

『潮音』は、文字の表記方法によって、詩の世界を形作り、言葉自体の音調によって詩全体のリズムを創り出しているね。
韻文と散文の、文字や言葉の働きの違いを説明するには、模範になりそうな詩だね。

これこそ近代詩の大きな特徴であることを考えれば、
「『若菜集』によって、実質的な近代詩の誕生を見ることができた」と言えるだろうね。

『若菜集』は、大変な人気を博して、島崎藤村さんを近代詩人の第一人者として認めさせることになったねえ。
これを契機に、島崎藤村さんは次々と優れた詩集を発刊することになったよ。

翌年の明治31年(1898)に刊行されたのは、

『一葉舟(ひとはぶね)』これだ。そして同年に、

『夏草(なつくさ)』これも出しているよ。

さらに明治34年(1901)には、

『落梅(らくばい)集』とつづけさまに発刊しているねえ。

『一葉舟』『夏草』『落梅集』、これらはいずれも浪漫風の香りの高い詩集になっているね。
特に『落梅集』には、『椰子の実』・『千曲川旅情のうた』など、今でも歌ったり、口ずさんだりされる作品があるねえ。
 
明治37年(1904)には、『若菜集』『一葉舟』『夏草』『落梅集』、これらの作品を1冊にまとめて、

『藤村詩集』として発刊したよ。

『藤村詩集』には、新しい序文が書かれている。それは次のようなものだよ。

『ついに、新しき詩歌(しいか)の時は来りぬ。
そはうつくしき曙(あけぼの)のごとくなりき。あるものは古(いにしえ)の預言者の如く叫び、あるものは西の詩人のごとくに呼ばゝり、いづれも明光と新声と空想とに酔へるがごとくなりき。
            (中略)
生命は力なり。力は声なり。声は言葉なり。新しき言葉はすなはち新しき生涯なり。
われもこの新しきに入らんことを願ひて、多くの寂しく暗き月日を過しぬ』

情熱にあふれた、見事な序文だねえ。ここには、新しい明治の時代に入って、それにふさわしい新体詩運動が起こり、やがて、1つの完成の時期を迎えることができた、ということが宣言されているね。
島崎藤村さんが目指していた、新しい近代詩の時代が、いよいよやってきたのだという自負のような熱い魂が感じられるよ。

ところがだ・・・島崎藤村さんは、この『藤村詩集』を最後に、詩の世界からは去って行くことになったねえ。
そして、衝撃的な自然主義小説の世界へ、突き進んで行くことになったんだよ。

どうして、島崎藤村さんは、詩の世界から小説の世界へと進んだのか。いろいろなところで触れられているが、簡単に言えば、
《詩は、青春の情熱を表現するのに適している形式である。小説は、成熟して冷静なものの見方を表現するのに適している形式である》
ということだね。

島崎藤村さんは、ある日、急に小説に転換したのではなくて、十分に準備を整えた上で、小説を書き始めたねえ。
それを示す最適な作品が、

『千曲川のスケッチ』これだ。

『千曲川のスケッチ』は、明治32年(1899)、長野県の小諸(こもろ)に教師として赴任していた間に書いたものなんだよ。

『千曲川のスケッチ』は、小説を書くための準備運動として書いたものなんだねぇ。だから、最後の詩集である『落梅集』は、明治34年(1901)に書かれているから、その2年も前からすでに、小説作家への下準備がなされていたわけだね。

『千曲川のスケッチ』の内容は、題名の通りだよ。絵画の写生の要領で、絵筆の代わりに文章で、風景をスケッチしていったわけだね。小説を書くときに、どれだけ、対象を正確に文章表現できるか、という訓練を自分自身に課したわけだね。

だから、『千曲川のスケッチ』は、読んでも、面白くもなんにもないよ。もし君が、自然の情景を文章で書くことが好きであれば、逆に、すばらしく参考になる書物だねえ。

明治39年(1906)には、早くも、自然主義小説の衝撃的な作品として『破戒』を世の中に送り出して、小説家としての基盤を確立することになったわけだよ。

話は変わるけどさぁ。僕は学生時代、気の合った学友と、あちらこちらと、貧乏旅をしたもんだ。お金がないからさあ、普通列車を乗り継いで、目的の駅まで行くと、そこからは、徒歩と野宿で、気の向くままに何日でも旅したものだよ。

そんな旅先に、島崎藤村さんの生まれた、信州は木曽の中山道、馬籠(まごめ)を選んだことがあったね。3人で、大晦日から正月にかけて、中央本線〝南木曽(なぎそ)駅〟から馬籠まで歩いたよ。

途中、あまりの寒さに、民宿に泊まろうと思って、探しながら歩いていると、明かりも消えて営業しているようには見えない宿が見つかったよ。
玄関をたたいて、お願いすると、年末年始で休みだというのに、特別に泊めてくれたねえ。涙が出るほどうれしかったよ。
ただ、3人で夜中まで騒ぎすぎて、怒られてしまったよ。

よく晴れた翌朝の元旦、僕らは元気よく馬籠まで歩いて行ったねえ。
《木曽路はすべて山の中である》(『夜明け前』)
本当に、峠を越えようが谷を渡ろうが、山また山で、山しかなかったねえ。

僕は、
「人間というものは、こんな自然の真っただ中で、文学という極めて人為的なものを考えたがる動物なんだなあ」
などと、小賢(こざか)しい事を考えていたよ。