オチケン風『日本文学史』近現代Ⅰ【明治〈終〉大正〈始〉】(小説・評論)〈12〉【反自然主義文学】③余裕派・高踏派(夏目漱石)

 
森鴎外さん以外に、反自然主義文学の巨匠としてあげられる作家は、誰でも知っている、
 
《夏目漱石》さん。この人だ。
 
夏目漱石さんの肖像は、昭和59年(1984)から平成16年(2004)まで発行された1000円札にも使われていたから、知らない人はいないだろうねえ。
ところが、定期考査で、漢字で名前を書かせると、多くの生徒が〝漱〟の漢字を間違えるんだよねぇ。君はしっかりと覚えておこう。
 
名前の由来は、姓は夏目家に生まれたから本名だけれど、漱石と付けたのは、漢文から採(と)っているねえ。時々、教科書にも載っている面白い話だ。
《漱石枕流》(そうせきちんりゅう)という話だねえ。
 
ある時、ある若者は、汚らわしい俗世間から離れて、大自然の中に隠遁(いんとん)し、石を枕にして眠り、流れる水で口を漱(すす)ぐような生活をしようと思った。
その希望を友人に言ったとき、つい間違えてしまった。
「漱石枕流」
こんな風に石と枕を入れ替えて言ってしまったのだ。
 
友人は、小ばかにして、
「ホーッ、そうかい。川の流れを枕にして眠るんかよ。それに、石を口の中に入れて、ガラガラとうがいをするんだな」
とニヤニヤと薄笑いを浮かべながら、言ったんだ。
 
若者は、ムッとなって、
「そうだとも。卑(いや)しい世間の話を聞いて、汚れてしまった耳を清流で洗うんだ。そして、俗世間の欲望に満ちた食べ物を食べて汚れてしまった歯を石で磨くんだ」
と意地を張って言ったという話だねえ。
 
この話から漱石枕流は、負け惜しみの強いこと、無理なこじつけ、というような意味に使われるようになったねえ。
こんな故事から、漱石と名前をつけたんだよ。面白いねえ。
 
ところで、夏目漱石さんは、東大に行っていた時、同じ大学の学生であった正岡子規さんと出会うんだよ。2人はたいへん仲良くなったね。その友情は、正岡子規さんが肺結核で34歳で亡くなるまで続いたね。
 
その間に、夏目漱石さんは、正岡子規さんから俳句の作り方など多くのことを学んだねえ。特に俳句における《写生》という観点から磨いていった文体、《写生文》を基本の精神に据えて書くようになったんだよ。
 
また、俳句の冷静で余裕のあるものの見方は、後の創作活動に大きな影響を与えたねえ。
それで夏目漱石さんのことを、余裕派・高踏派という言い方にプラスして、
 
《俳諧派》とも言われるようになったんだ。
 
まあ、とにかく、夏目漱石さんは、まじめで頑固で、非常に神経質な人だねえ。
 
東大卒業後は、教職についたよ。大学で講義をしていた頃には、こんな有名なエピソードもあるよ。
 
夏目漱石さんが、一生懸命に講義をしていたときのことだ。1人の学生が、今でいえば片手をポケットに入れて、もう一方の手で机の上で頬杖をして聞いていた。夏目漱石さんは、その態度が気に入らなくて、教壇から降りてその学生のそばに行った。それから、
「ポケットから手を出して、姿勢を正して講義を聞なさい」
と注意をしたんだねえ。
 
するとその学生は、顔を恥ずかしそうに紅くしたけれど、黙ったままで、手を出そうとはしなかったんだ。夏目漱石さんは怒って何度も注意をしているうちに、大声になっていった。
 
見ていられなくなった隣の学生が、
「先生、もともとこの学生には片腕がないのです」
と説明をした。夏目漱石さんはそれを聞いて、しばらく言葉が出なかったが、
「僕も、毎日、無い知恵を出して講義をしているのだから、君もたまには、無い腕を出して勉強すればいいじゃないか」
と答えたという話だよ。
 
こんな、まじめで一本気(ぎ)な夏目漱石さんだから、書いた小説も、知性的で真面目くさいものだねえ。それが、当時、自然主義の全盛時代で、性の露骨な描写がなければ小説ではない、と言われるような風潮に対して、厳しい反自然主義の立場になっているんだねぇ。
 
「小説に、反社会的で劣情を催させるような事柄を書かなければ読者を引きつけられないのは、作家としての力量がない証拠だ。そんな、のぞき趣味を利用してしか読者を獲得できない自然主義など、真の文学ではない。僕の作品を読んでごらん。実に理知的でありながらも、読者を小説世界の中に強烈に引きずり込み、さらに、納得のいく感動を与えているだろう。これが小説の神髄(しんずい)だ」
 
このような夏目漱石さんの自尊心に満ちた言葉が聞こえるような気がするねえ。
確かに、夏目漱石さんの小説は、緻密な構成と隙(すき)のない写生文で、物語り世界の構築を完ぺきな状態に近づけているねえ。

だけどねえ、あまりにも真面目で神経質だったので、結局、神経衰弱と胃潰瘍(いかいよう)に苦しみ続けさせられることになるんだよね。
 
一時期は、イギリスにも留学していたよ。だけど、宿命のような神経衰弱がさらに悪化して、衰弱しきった状態で早期に帰国しなければならなかったりもしたんだよ。

さらに、帰国してから教職に就いていたときのことだ。授業中に、1人の教え子に、学習意欲のないことを厳しくしかったんだねえ。その数日後、その生徒は日光の華厳の滝に身を投げて自殺をしたんだよ。
 
自殺と叱責(しっせき)との因果関係は明確ではないけれど、夏目漱石さんはこのことによって、精神的にうちひしがれたわけだねえ。
そんな時、神経衰弱が少しでも和らげれば、と思って書いたのが、
 
『吾輩(わがはい)は猫である』これだ。
 
『吾輩は猫である』は親友、正岡子規さんが中心になって編集していた俳句雑誌、
 
《ホトトギス》これに発表、連載したんだよ。
 
明治38年(1905)のことだ。
翌年には、同じくホトトギスに、
 
『坊っちやん』これを発表するんだよ。
 
『吾輩は猫である』『坊っちやん』は、楽しく、気軽に読めるということで、多くの人から人気を得ることになったね。
夏目漱石さんは、この2作で自信を深めて、本格的に、作家として生きてゆくことを望み始めたんだねえ。

ところで、超有名な『吾輩は猫である』『坊っちやん』を君は読んだことがあるだろうか?僕は、何度か授業中に、この質問をしてみたよ。すると、全文を読んだ生徒は、ほとんどいないのが分かったねぇ。作品名と作者は誰でも知っているけれど、実際に読んだ人は、ごくわずかしかいないということだ。
これが、今の学校教育だよ。
 
それじゃ、冒頭部分だけでも読んでみよう。
 
『吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたか、とんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中でいちばん獰悪(どうあく)な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕えて煮て食うという話である』
 
『吾輩は猫である』は、猫の眼を借りて、人間世界を見るというものだねえ。言うまでもなくその見方には、夏目漱石さんの、当時の社会に対する、厳しい風刺や、批判が込められていることは間違いないねえ。
それを、小難しい小説にするのではなくて、笑いながら読める作品にしたところなど、夏目漱石さんの優れた文才が光っている作品だね。
続いては、『坊っちやん』、

『親譲(ゆず)りの無鉄砲(むてっぽう)で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分、学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇(むやみ)をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段、深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張(いば)っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃(はや)したからである』
 
『坊っちやん』は、夏目漱石さんが、愛媛県の旧制松山中学で教職に就いていた体験をもとに書いたものだよ。気持ちがスッキリとするようなユーモアにあふれた小説だね。そのユーモアの中に、反俗の精神が貫かれているところが素晴らしいよ。
 
ここで、ちょっと、気をつけておいた方がいいことを話しておくよ。
それは、面白くて、楽しい『吾輩は猫である』や『坊っちやん』を読むと、夏目漱石さんという作家は、明るくて朗らかな人だと思うかもしれないけれど、実は、全く違うということなんだよ。
夏目漱石さんの、本当の性格は、逆に、暗くて、うっとうしくて、深刻で、陰鬱(いんうつ)なんだよね。
 
それがどうして、『吾輩は猫である』や『坊っちやん』のような楽しい作品を書いたのか。答えは簡単だ。あまりにもうっとうしいから、気晴らしのために、自分とは全く違った雰囲気の小説を書いて、精神の状態を平穏に保とうとしたんだよ。
君も、時には、あまりにも苦しいとき、楽しい歌を歌って、自分の心を慰めるだろう。それと同じだよ。
 
こんな創作活動の姿勢で名作ができたという作家が他にもいるよ
それは、
 
《太宰治(だざいおさむ)》さん。この人だ。その作品は、
 
『走れメロス』これだ。
 
『走れメロス』は、昭和15年(1940 )に発表されているね。
中学の教科書なんかにもよく載っているねえ。
人の心を信じられない暴虐な王様に対して、友情と正義を自分の命をかけて守り抜き、王を改心させる、という話だねえ。
 
もし、太宰治さんの作品の中で、この『走れメロス』しか読まなかったとしたら、作者の太宰治さんはどんなに社会的にも個人的にも優れた人物だろう、と思うだろうねえ。
 
ところが実際は逆だね。親のばく大な財産を浪費し、薬物自殺を図ったりしているね。さらに、心中未遂事件を起こして、相手の女性のみ亡くなってしまい、自殺ほう助の容疑で警察から取り調べられたりもしたねえ。そして昭和23年(1948 )に、
 
『人間失格』を書き上げて、翌月、また別の女性と入水自殺。
 
今度は、2人の体をしっかりと紐(ひも)で結び付けていたので、2人とも水死をしたねえ。38歳だったよ。
 
作家というものは、時々、自分の性格とは正反対の内容の小説を書いて、自分を慰めたくなるものなんだよ。
 
さてと、『吾輩は猫である』『坊っちやん』を発表して、作家として生きる自信をつけた夏目漱石さんが、続いて出した作品は、
 
『草枕(くさまくら)』これだ。書き出しは、
 
『山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画(え)が出来る』
 
とこんなもんだねえ。『草枕』の冒頭文は、名文で、有名なものだけれど、入試に出ることは、めったにないねえ。1度、どこかの大学に出た記憶はあるけどさぁ。
『草枕』は、短編小説だけれど、夏目漱石さんの文学の土壌となる美的世界と文学理論ともいえる〝非人情〟の世界が、どのようなものかが書かれた作品だよ。
 
非人情というのは、人情味がない、というのではなくて、 人情を超越して、それにわずらわされない、というくらいの意味だ。
自然主義の、ドロドロとした人情に振り回される世界から、一歩超越して、余裕を持って物事を観照(かんしょう)していく姿勢だね。
このことが、夏目漱石さんの創作姿勢を、
 
《彽徊(ていかい)趣味》とか《余裕派》とか言われた理由だよ。
 
彽徊趣味という言葉は、夏目漱石さんが、『ホトトギス』の主宰もした俳人、高浜虚子さんに対して使った造語だよ。非人情と似たような意味だね。
 
夏目漱石さんは、独自の作風を『草枕』において確立した。それは、彽徊趣味、余裕派とはいうものの、非常に神経質で、執拗なこだわりをもって書いていて、読む方が疲れるよ。

でも、これが夏目漱石さんの人間の本質に沿った小説なんだよね。『吾輩は猫である』『坊っちやん』とずいぶん違うんだよ。
 
それにしても、『草枕』を読んでいると、夏目漱石さんが神経衰弱になり、胃潰瘍になり、ノイローゼなって、一生涯苦しんだのがよくわかるね。
僕は、夏目漱石さんは優れた文学的な才能と努力する精神力を持っていたけれど、残念ながら、自分で自分にワクをはめて苦しめてしまう気の毒な性格だったと思うねえ。
 
夏目漱石さんは、『草枕』を発表した翌年、明治40年(1907)、教職を辞めて、新聞社に勤めることにしたんだよ。新聞社の専属の小説家としてだよ。
この時より、新聞連載小説のために、非常な努力を払い、次々と作品を発表していくことになるね。
まず最初の連載は、
 
『虞美人草(ぐびじんそう)』これだ。
 
『虞美人草』は、他人から愛されることを望むが、自分は他人のために愛そうとはしない《我》の持ち主を主人公にした作品だ。
これは、実際、面白くないねえ。眠気がさしてくるよ。
まあ、最初の新聞連載ということもあって、慣れていなかったせいもあるのだろうね。
それを反省してか、次からの連載小説は大変、人気を博す作品になったねえ。
まず1つ目は、
 
『三四郎』これだ。2つ目は、
 
『それから』だ。そして、3つ目は、
 
『門』この作品だ。

『三四郎』『それから』『門』は、ほぼ3年間の間に連載された、いずれも長編小説だね。ずいぶん精神的にも肉体的にも無理をしたと思うよ。
僕の知り合いの作家の方も、新聞連載小説を書いていた時期があったけれど、しみじみと、
「新聞連載は本当に、寿命を縮めるよ」と言っていたね。
 
『三四郎』『それから』『門』は、時と場所と登場人物も全く違うので、同じ主人公のシリーズものの小説ではないよね。だけど、テーマの継続と進展が3作には、一貫して流れているんだよ。
 
『三四郎』では、正直な愛の表現ができずに、恋愛は実らない。
『それから』では、反社会的な恋愛ではあったけれども、正直な自らの心に従って結婚をする。
『門』では、反社会的な結婚だったが、一応、社会の中での生活を続けることができる。しかし、どうしても道義的な苦しみから逃れられず、宗教の門をたたく、というものだね。
 
だから『三四郎』『それから』『門』を夏目漱石さんの3部作というので、しっかり覚えておこうね。
 
この三部作を出してからも、次から次へと驚異的な創作力で、長編を連載していったんだよ。それも、神経を使いすぎて胃潰瘍(かいよう)になり、血を吐きながら書いていったんだ。
あるときには、大量の吐血(とけつ)をして、一時は危篤(きとく)状態のようなことにもなったんだ。それでも書き続けたね。
 
森鴎外さんにしろ、夏目漱石さんにしろ、もちろん、文才はあったにしろ、命を削るような努力があったから、才能の花も開いたんだねえ。
「才能はあったけれど、努力をしなかったから花が咲かなかった」
というのは嘘だね。僕の長い教師生活の経験の中で、1つ分かったことは、
「努力ができるということこそが、最高の才能だ」
ということだよ。
 
それではここで、夏目漱石さんが書き上げていった小説とそのテーマ、特徴を簡単にまとめて、制作年代順に挙げておくよ。
 
『彼岸過迄(ひがんすぎまで)』短編を集め長編にしたようなもの。
 
『行人(こうじん)』弟と妻を信じることができない兄の苦悩。
 
『こゝろ』純真な友人を裏切ったエゴイズムの醜悪。
 
『道草』複雑な人間模様の中で育ってきた作者の自伝的小説。
 
『明暗』複雑でエゴイスティックな人間の心理を描く。未完。
 
『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』『道草』『明暗』これらは全部、長編だよ。どれほど、心身ともに無理に無理を重ねたかが分かるね。
 
夏目漱石さんの小説は、谷崎潤一郎さんと違って、よく教科書に掲載されるね。
《教科書に載せるのにふさわしい小説》
と表現するのが、夏目漱石さんの小説がどんなものかを説明する言葉としては、もっとも分かりやすいかもしれないねえ。
特に『こゝろ』は、定番のように載っているね。僕も数え切れないほど授業で使ったよ。
 
このごろの漫才主義文学とは、全く違った、対極(たいきょく)にあるような地味な作品だよね。
生徒は、面白くなくて居眠りをするだろうと思ったけれど、毎回、全くその逆なのには驚かされるよ。生徒の反応は、大変に良くて、眠るどころか、真剣なまなざしで授業を聞き、心の中に小説の登場人物の世界が、染み込むように入っているのを感じたね。
 
さてと、『明暗』の連載を始めたのは、大正5年(1916 )5月のことだよ。そして12月まで188回分の連載を書いたところで、胃潰瘍から多量の内出血をして入院をしなければならないことになったんだよ。そして、臨終となってしまったね。
その時の様子が、次のように新聞記事に書いてあるねえ。
 
『呼吸逼迫(ひっぱく)し、
「水と葡萄をくれ」
と言われ、しきりに胸の苦痛を訴えて、
「早く胸と頭を冷やせ」
と促(うなが)された。時に、午後5時半ごろであったが、6時になると、
「苦しいから注射をしてくれ。死ぬと困るから」
と言われた。これによって見ると、先生は、この時まで、死を覚悟しておられなかったようである。
 
それから漸次(ぜんじ)、苦痛が増し、
「胸と頭に水を、水をぶっかけてくれ」
とせがまれるのであるが、それもままならぬので、看護士が手ぬぐいを湿して顔をなでる。先生は声を荒げて怒られた。
看護士もやむなく水を含んで顔一面に吹きかけてあげた。すると先生は物静かに、
「ありがたい」
と一言言われた。これが、実に、先生の最後の言葉であった』
 
臨終の状況はこんな風だったんだねえ。さらに、別の記事の見出しには、
《遺骸は本日解剖 脳髄は永久に保存》
と書いているねえ。今も、夏目漱石さんの脳髄は、東京大学医学部にエタノールにつけられて保管されているということだよ。
 
大正5年(1916)12月9日。これが偉大な文学者、夏目漱石さんの亡くなった日だ。なんと49歳の若さだねえ。

夏目漱石さんは、『明暗』の執筆ころから、弟子たちやその他さまざまなところで、次のような言葉をよく、口にするようになっていたねえ。それは、
 
《則天去私(そくてんきょし)》これだ。
 
この則天去私という言葉は、よく入試に出てくるから覚えておこう。
《天に則(のっと)り、私(わたくし)を去る》
と訓読みするんだろうねえ。
則天去私は、夏目漱石さんの造語なんだよ。
それにもかかわらず、夏目漱石さん自身が、この言葉について明確な解釈をどこにも書いていないんだよねえ。
 
だから、多くの研究者が、分かりやすい言葉であるだけに、好きなような解釈をしているよ。
もし、則天去私が、漢籍の中にでも書かれていたものであるなら、その出典を明らかにして、使われた部分での意味も明確になるんだろうけれど、それがないから、誰がなんと解釈しようが、まあ、いいわけだよね。
 
一応、入試用には次のような解釈でいいんじゃないの。
 
《偉大な自然に自分を従わせて生きることによって、エゴイスティックな個人というものを捨て去る》
 
それでは、偉大な文学者が考え出した言葉ということで、もう一歩、深く考えてみようか。入試には、必要ないけどさあ。
 
まず、《天》の解釈だけどさぁ、これを、宗教的絶対者である神や仏というふうに考えるのは、極めて理知的な人生観を持っていた夏目漱石さんにはふさわしくないねえ。
また、《自然》と解釈すると、夏目漱石さんの精神世界の広さを狭めてしまうことになるねえ。だって、自然に従って生きる、としたらは、自然の中での農業などをすること、というようなイメージになってしまうものね。
 
《天》は、まさに天と解釈すべきだろうねえ。天は、すなわち宇宙の存在そのものだ。宇宙の存在の本質とは何かといえば、それは《法》と言えるだろうね。宇宙の森羅万象すべては、厳然とした《法》のもとに運行をなしているね。
 
太陽の回りを地球などが周り、地球の回りを月が回る。そして太陽系を作っている。
無数の太陽系が集まって、銀河系宇宙を作っている。そして、無数の島宇宙が集まり、大宇宙を形成している。
 
これら無数の星々が、生々滅々を繰り返しながらも、永遠に存在し続けているわけだね。考えれば、人間の思考をはるかに超えた、驚くべきエネルギーが永遠の存在を支える《法》のもとに整然と働いているんだね。
 
地球上に生命体が発生したのも、不思議だよ。地球誕生時のマグマのような強烈な熱の中で、生命体が生き残れる可能性はないよね。また、宇宙空間からいん石が生命体を運んで来ることも、大気圏への突入などを考えれば、有り得ないね。
それなのに地球に生命体が発生したのはなぜか。
 
それは、宇宙が、生命体が発生できるような環境が整えば、生命を発生させるという《法》のもとに存在しているからにほかならないねえ。
 
夏目漱石さんがいう《天》とは、この《法》のことが、念頭にあったことは間違いないと思うねえ。
だから次の漢字の《則》が生きるわけだ。《則(のっと)る》すなわち《従う》というのは、規範とすべきものがあって初めて使える言葉だよね。
宇宙の規範である《法》に従って、宇宙の本来あるべき姿に自分自身を同化させていく、ということだね。
 
そうすることによって、《去私》すなわち、小さな自分を超越して、偉大な宇宙の永遠の存在へと近づかせていける、という訳だね。
《私》も宇宙の中の存在のひとつであることは間違いない。けれども、宇宙の本質の《法》を自覚しなければ、小さなエゴイスティックな、いわば、《小我》の生き方しかできないんだね。
 
漱石さんは、さまざまな内面的な苦闘を通して、宇宙大の大きさの境涯である、いわば《大我》に自分自身の《小我》を昇華(しょうか)させ、人間としての最高の境涯を目指して生きようとしたんだね。
 
則天去私こそ、夏目漱石さんの、文学と人物の本質であると言えるねえ。そして、それは、本格的に自己の限界であった「自分で自分にワクをはめて苦しめてしまう気の毒な性格」を超越して、新たな自己を築こうとする信念のバックボーンだったわけだ。
 
果たして、大量の吐血をして、いよいよ、この世での生命を終えようとしたとき、夏目漱石さんは則天去私の境涯を貫くことができたのだろうかねぇ。
 
夏目漱石さんの素晴らしいところは、近代文学史上に残るような作品を書いただけではなくて、その優れた人格と人間性によって、多くの弟子たちを育てたことだよ。
 
多くの弟子を育てたといえば、機関誌、《我楽多文庫》を発刊した《硯友社》の中心人物、擬古典主義の尾崎紅葉さんを思い出すねえ。
優れた弟子が育つということは、その師匠がりっぱであったことの証明だね。
次の項目では、漱石門下生の活躍を見ていこうかねえ。
 
そうそう、ちょうど、今日の新聞を見てみると次のような見出しの記事が載っていたよ。
 
《漱石素顔の手紙・『三四郎』モデル門下生宛て・資料477点寄贈》
 
というものだよ。『三四郎』のモデルとなった方の親族が、夏目漱石さんから受け取った書簡や写真などの資料を町に寄贈した、という内容の記事だね。
 
今も、夏目漱石さんは、多くの人から愛され、尊敬されている作家なんだねぇ。